認知症になって見える世界は変わるのか?

最近、若年性認知症に関する「東大教授、若年性アルツハイマーになる」と題された記事屋関連する記事を何度か目にしました。その度に、故長谷川和夫先生の遺言となった『ボクはやっと認知症のことがわかった』を読み返しています。同時に、「老いる」とはどういうことなのかを、博論を書いたときの書籍『老いることの意味』を引っ張り出し、改めて読んでいます。認知症の最大のリスクファクターである「老い」(年齢)を考える事は、認知症との付き合い方にも通じるところがあるのではないかとの考えからです。

「老い」のそこと自体は、万人に等しく訪れます。しかし、老いとの向き合い方や付き合い方は、ひと様々です。老いとの向き合い方は、寿命が長くなっている現在において、長い人生の後半を過ごし方に大きな影響をもたらします。この様なことから、改めて「老いることの意味」を考えてみたいと思います。

参考文献 

南博文他、1995『生涯発達心理学第5巻』金子書房.

長谷川和夫、2019『ボクはやっと認知症のことがわかった』KADOKAWA.

老いや死は、これまで長い歳月を掛けて築き蓄積してきた様々な地位・財産を一挙に失うことになり、老いや死を考えると「恐怖心」さえ覚えてしまいます。物質的豊かさや他者との関わりにおいて支配的欲求の成就を求めて来た現代人にとって、現役世代と同じように振る舞う「永遠の若者」であることが、「若さや豊かさ」の代名詞となり、老いや死は、それを奪い去る、避けたい考えたくない姿なのです。

老いは、突然やってくるのではなく、じわじわと近づいてきます。現役で仕事に追われている時には、殆ど意識しないで過ごしてきますが、退職などの社会関係の変化と共に、突然、目の前に現れてきます。多くの場合、初めてその場面に出くわして「老い」を意識するようになります。他者との関わりにおいて感じる老いと体力・記憶力の低下など自覚的感じる老いとのダブルパンチで突きつけられるのです。

この時が勝負の分かれ道となります。「老いによって健康や地位・財産を失う」と考えるのか、「老年期だからこその新たな価値を獲得できる時期に来た」と、考えるかです。前者は、高齢者がしばしば遭遇する「喪失体験」で説明されます。この流れは、挫折感、自尊心を傷つけられる、生きがい喪失等々から、精神的な不安感や孤独感につながり、負のスパイラルが生じます。一方では、老いは賢さ(かしこさ)の象徴(ユング、C.C.)とみる考え方で、権力欲や金銭欲などから一定の距離をおき、利害や欲望を克服した存在として、社会生活における統率力や発言力を持つ人となることができます。肉体的、精神的衰えにもかかわらず、人生で遭遇する苦しいこと楽しいこと、全てに対して価値を見いだせる心の広さと深さを持つ存在として、その役割を担うことができるのです。

老齢期は、三段階を経ると言われています。第一段階は「喪失段階」です。その次が、喪失による孤独感、虚無感、悲哀感等々に支配されて精神的危機に直面する「危機段階」です。この時期を迎えて、私たちは、改めて社会における自分の位置や存在意味を問うようになります。「喪失」その事が、自己の欲望への執着や自己中心的な生き方に対する問いの機会をもたらすのです。自己覚知(2月20日ハチドリさんコメント参照)の作業が行われると行っても良いでしょう。こうして迎えるのが「我執離脱の段階」です。

この段階になると、老いの受容を通して依存的自律の受け入れ「老いの共感力」(老いの共感価値)を高めることができます。老いによって「強さを捨て、弱さを引きうける」ことのできる、新たな価値を手に入れることができるのです。その価値は、若頃の流動性知能とは異なり、経験や学習などから獲得していく知能でで、洞察力、理解力、批判や創造の能力といった、高齢期になっても安定している結晶性知能によって補強されます。

認知症になった、認知症の専門家である故長谷川和夫先生は、『認知症になったからといって、人が急に変わるわけではない。自分が住んでいる世界は昔も今も連続しているし、昨日から今日へと自分自身は続いている』そして『認知症の本質は、暮らしの障害なんだよ』と語っています。また、若年性認知症になった、元脳外科医で東京大学医学部教授でもあった故若井晋(すすむ)さんは、『病は人生の一過程に過ぎない。認知症になっても、私は私であることに変わりはない』と語っています。

認知症になっても「我執離脱の段階」に達し、結晶性知能や老いの共感力を持った、いつもと変わらないAさんとして敬い、その生活の継続をできれば地元で支える。そんな高齢者との向き合い方の必要性を改めて考えた今日でした。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

認知症になって見える世界は変わるのか?” に対して1件のコメントがあります。

  1. 鈴虫 より:

    以前、私もこの本を読みました。そして、NHKで放送された故長谷川和夫先生のドキュメンタリー番組も見ました。
    長谷川先生が認知症を生きながらも、いつもの生活習慣のままに日常を過ごされている様子を見て安心したのを覚えています。

    ただ、その番組で気になったのは、お元気な頃にご自身が推奨されていたデイサービスを利用するようになってから「みんなといても私は独りぼっち」「したいのかしたくないのか、先ずは確認して欲しい」と話されたことです。これを聞いて、周りが良かれと思うことが必ずしも本人に喜ばれることばかりではないことを思い知らされました。また「見える景色は何も変わらないよ」とも話されていて、認知症を生きることが本人の何もかもを消し去ってしまうのでは無いのを再認識しました。

    私の母も認知症が深まってからも、本人らしい几帳面さや周りへの気遣いのある振る舞いを見せて私達家族を喜ばせてくれました。認知症によって人が変わると思われがちですが、私は変わるのではなく、本人らしさが病の陰に隠されてしまっているのだと考えています。

    その様に思って向き合うと、まるで宝探しの様に良い表情や納得できる行為に出会えます。老いかたにも個性がある。その個性を活かせる暮らし方を周りが温かく見守っていけたら、何方にも優しい世の中になるのではないかと思っています。

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