永平寺迄の歩きで親鸞と出会う

親鸞(五木寛之作)全六巻(2010(平成22)年1月1日~2014(平成26)年11月1日発行) 構想から10年、新聞(全国37紙)連載から6年、人間親鸞の大河小説

青年期(8歳~35歳) 九歳で出家するも、下山して法然の門下にはいる。朝廷や貴族にも広がりはじめた法然の教えは、やがて念仏禁制の厳しい弾圧を受け、師法然上人は讃岐(香川県)へ、善信は越後(新潟県)へ罪人として流刑され、法然上人から頂いた善信の名を親鸞に変え、尼僧恵信を伴って北国に旅立つ。親鸞35歳の春でした。

壮年期(36歳~61歳) 越後直江の津(新潟県上越市)で迎える八度目の春、流罪の地・越後から、新たな地・関東常陸稲田(茨城県)へ。土地の人々と交わるなかで、「自分は何のためにこの地へきたのか」と、師の教えに追いつき追い越そうと苦悩しつつ、常陸国に移り住み20年近く説法を続ける。

老年期(61歳から90歳) 京都へ帰還。最も多くの業績を残したといわれる、師法然を超えていく親鸞聖人の軌跡

《心の残る言葉》

◇「愚者になりて往生す」(法然上人)

 「愚かさ」とは、人間である限り誰もが有する根源的な愚かさのこと。たとえば、欲望にとらわれて自分を見失ったり、自分にとって都合の悪いものを排除しようとして、他者を傷つけ悲しませたりするような愚かさです。「愚者になる」とは、そのようにして生きている自分自身の愚かさをよく知るということ。そして、自分自身の姿に目を背けることなく、愚者の自覚を持つ者こそが、まことに生きる者であるということを述べているのです。自分の愚かさを認めるところから、他者を理解し、人々との深い関わりを持つことが可能となるのです。

 智を捨て、愚を目指そうと志すことは、とりもなおさず自力のはたらきにほかならない。しかし、文字もかすみ、経文の記憶もおぼつかない自分は、おのずから愚へ返ろうとしている。愚に返るために心を砕くこともなく、おのずと痴愚に近づきつつある。このように思うと、自然に心がなごみ、笑みが浮かんでくる。なんと有り難いことだろう。それを思うと感謝の念で胸一杯になる。そして南無阿弥陀仏、と自然につぶやいてしまう(親鸞)。

 高齢者の最晩年は、この様な姿なのではないかと思います。「達観」(物事を広く大きな視点から捉え、冷静に、そして賢明に向き合うための心の状態)にも似た人としての落ち着きのある姿ともいえます。こうして人は、愚者になり阿弥陀如来様に導かれ往生していく(親鸞)。私たちは、こうした「死」との向き合い方、彼岸への旅立ちを受け入れることで、欲に苛まれることもない穏やかな晩年の生き方が出来るような気がします。

◇「筆による托鉢」(親鸞聖人)

親鸞は、歳を重ねても地方に出て行き、人々の言葉に耳を傾け、様々な疑問に応える形で「念仏」の真意を伝えようとしていました。しかし、寄る年波には抗えず、地方に出て行くことが次第に難しくなってきます。そのような中にあっても、親鸞は地方の人々からの手紙に返事を書き続け、たまにはお礼にとお布施を頂いていました。

こうした様子を見て思うのです。この様な状況にあった時の親鸞は「筆によって托鉢」をしているのではないかと。このような親鸞の姿を自分に置き換えてみると、以前の自分と比較すると、私自身も外に出て様々な方々の前でお話をすることはめっきり少なくなりました。現役を退き既に15年近くになり、当然のことです。しかし、外に出てお話をする機会が少なくなったのに代え、hp「地域福祉研究所」を活用して、様々なことを書き連ね世に問うています。このことにより、hpを読んだ方々から「返信」という形で、様々な教えを頂いています。こうしたことは、親鸞が筆で托鉢をしているのと近い行為のようにも思えたのです。

人々から特に求められているわけではありませんが、「こんな内容は大切なのではないか」と思えることを、自分なりの言葉で発信しています(『みんなの学校』等々)。このhpは、親鸞でいえば「筆」であり、布施を受ける器(うつわ)応量器(おうりょうき)に入れられるのが「返信」。この返信は私の学びを支えるお布施なのだと思えるのです。この様に考えると、必ずしも人様の前でお話しすることだけではなく、自宅にいても托鉢という修行を行うことが出来るのだと考えられるようになりました。

ここ数日、憑かれたように読みふけった『親鸞』は、この様なことを教えてくれた時間でした。こうした出会いを導いてくれた永平寺迄の700キロ1ヶ月は、その後体調不良などを引き起こしてしまいましたが、貴重な時間だったのだと改めて感じています。

また、永平寺に着いて朝課の法話にあった高僧のいう『鏡』というキーワードは、社会学と結びつつき、博士論文(『社会関係の再構築としてのケア改革』 2011(平成23)年3月(東北大学))の基底理論である社会的相互作用(social interaction)に通じることを学びました。

学びの機会は、至るところにちりばめられていることを改めて感じました。大切なのは、そのちりばめられている学びの種(seeds)を感じ取れるように普段から感性を高める備えが大切なのだろうと思います。今回、この様な振り返りをおこなうことによって、禅語『而今』(今を大切に生きる)を改めて噛みしめています。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

永平寺迄の歩きで親鸞と出会う” に対して2件のコメントがあります。

  1. ハチドリ より:

    神社に行くと感謝の気持ちというより、わずかなお賽銭で「願いごと」を唱えてしまっている自分がいます。「これって違うよね?」と時々思うのですが、忘れてまたすぐ同じように「願いこと」を唱えてしまいます。

    さて、『親鸞』という名前は何となく聞いたことがあるくらいで、何をした人なのかもわかりませんでした。これはつい最近知ったことですが、親鸞には、尊敬を込めて僧侶に付けられる「聖人(しょうにん)」という尊称が付いて、『親鸞聖人』と呼ばれています。そんな興味関心のほとんどなかった「親鸞聖人」ですが、先生のホームページでちょっと興味を持ち、先日、茨城県日立市で行われた劇場版アニメ『親鸞 人生の目的』を見てきました。
    (親鸞聖人は、壮年期を茨城県で過ごされているのですね。そっか、だから茨城県各所で上映会や勉強会が開催されているのですね。)

    その中で私が考えさせられたことを二つ紹介します。理解はまだできておらず、自分のなかで納得、消化するには時間がかかりそうですが、目からうろこが落ちた感じでいます。

    1.親鸞が寝ていた時に神社に盗賊が入り、とても大切な仏具を持っていかれてしまいました。必死で盗賊を追いかけ、呼びとめます。「それはとても大切な物です。返してほしい。なぜそれを盗むのですか?」と聞いたときに、盗賊は「お前たちは経を唱えて金をもらっている。俺らは食うためにこれをやっている」と答えます。それを聞いた親鸞は「わかった。持っていきなさい」と盗賊に伝えます。盗賊は、呆気にとられたような表情をしながら、持って逃げていきます。
     ➡「えっ、せっかく追いついたのにどうして?」と思いましたが、これには「悪人正機(あくにんしょうき)」という『悪人こそが阿弥陀仏の救済の主たる対象』という考えがあるようです。そして、悪人と言っても、一般的な意味での「悪いことをする人」とは異なり、「自分の力では迷いを捨てられない煩悩(自己中心的な考え方)から逃れられないすべての人を指すようです。「悪人正機」は『悪いことをしても救われるから良い』という悪を勧めている教えではなく、むしろ自分の真の善を行うことができない「悪人」であると自覚した時に、阿弥陀仏の救いが深く響くという考えのようで、アニメの中では仏具を盗んだ盗賊の親分がいつしか僧侶となり、庭の掃除をしている姿に涙が出そうでした。

    2.親を亡くした小さな女の子が僧侶(親鸞)を見つけ、「どうかお経を唱えてください」と懇願します。しかし、親鸞は「お墓にお経を唱えても意味はない。それよりお前がしあわせになることが大切なのだよ」と教えます。
     ➡誰かが亡くなったときにたくさん供え物をしたり、大きな葬式をあげたりは必要がない。浄土真宗においてお経をあげるのは故人のためではなく、生きている人が仏様の教えを聴き、自分自身が心を整えるため。また、法要で僧侶が読経するのは、集まった人々に阿弥陀如来の教えを伝えるためであり、個人の供養を目的とするのではない。親鸞自身は、自らの人生を『亡くなられた方をご縁として仏法に出会う』ことを最善とし、そのような言葉を残されたようです。

    『仏法に出会う』???
     迷いや苦しみから解放されて真の幸せを得るための道しるべや悟りを目指すための修行の道を知ることを意味するのだそうです。
    出た、修行(;’∀’)!
    私もゆっくり本を読んでみたいと思いました。

    1. スマイル より:

      ハチドリさん、貴重なお話をありがとうございます。ひとつめのお話で私が感じたこと。親鸞聖人は盗賊の言葉にハッとしたのではないか、と。生きるためにはこうするしかない、というどん底の生活をしている人たちのことが自分は本当にはわかっていなかった、と感じたのではないかと。「その仏具で食べ物をつなぐことができるのであれば、救われる命があるのであれば、それが良い」と思ったのではないかと。理屈ではなく、自然に湧いた慈悲の心こそがのちに盗賊の心にも届いたのではないかしら。改心させるほどのものとはそういうものではないかな、と思いました。

      ふたつめのお話は私の中ではまだしっくりこないので、もう少し考えてみたいと思います。
      こうしてじっくり考える機会を与えていただいて、とてもありがたく思います!

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