宮城県沖地震から48年

今から48年前の1978(昭和53)年6月12日午後5時14分ころ、宮城県沖を震源とする震度5(M7.4)の地震が発生しました。この地震は、平均37.1年間隔で発生していた『宮城県沖地震』の一つに数えられています。この地震で、宮城県では27人が死亡し、その半数18人はグロック塀や石塀などの倒壊で亡くなっています。この宮城県沖地震以降、耐震基準の見直しが行われ、地震から3年後の1981(昭和56)年に建築基準法の改正が行われ、「震度5強程度の中規模地震では軽微な損傷、震度6強から7程度の大規模地震でも倒壊は免れる」強さとすることを義務づけられました。また、ブロック塀の自粛や撤去などが進められました。

私は、この時、仙台市長町から名取市下増田に移転改築した宮城県農業高校に勤めていました。移転から1年余りで被災しています。学校は、沿岸部からそう遠くない位置の畑を造成して建設されていました。この為、地盤は弱く、校舎以外の様々な農業実習関連建物には多くの被害がありました。

帰ろうとしていた矢先に地震が起き、校舎内には非常ベルが鳴り響く中、火災の発生はないか、また建物の被害状況を把握するために、校舎内を走り回っていました。火災が起きるとしたら特別教室だと判断し、化学実習室等を優先にして確認に向かいました。

途中から、廊下に白煙が立ちこめていたので、『火災発生か』と、消火器を探しながら煙の向こうにある特別教室に向かいました。ところが、途中から目を開けられなくなり、喉がヒリヒリする感じで咳き込んでしまいました。手ぬぐいで口を塞ぎ教室迄辿り着くと、煙の理由が分かりました。化学室に保管されている様々な薬品が、戸棚から落ちて混じり合い、煙を発生させていたのです。

教室内の窓を全て開け、風上方向に移動して煙を吸わない位置まで待避して、煙の発生が収まるのを待ちました。これ以上混じり合うことは無いだろうと考えられる状況を確認して、他の特別室等を確認に向かいました。

物理実験室は悲惨でした。精密天秤や顕微鏡等の精密機械が棚から落ちたり、扉に半分突き破りグラグラしていたりと、精密機関なので、こわれないまでも使い物にならないことは一目で分かりました。ここは火災の発生は起きる要素が無いので、現状把握だけで他の教室に向かいました。

一通り、被害状況を把握した後は、被災状況を記録して置くために、カメラを持って再度教室に向かい、あらゆる角度から記録をしました。後々、大蔵省から来る災害査定官に当時の様子を見せないと被害認定されないのです。原則は被害状況をそのまま保全するのですが、長い時間そのままにしておくことは授業再開に支障が出るので、被災状況を写真に撮り、写真による現場保存を行うため、できるだけ多く写真を撮りました。現在と違い、当時はフィルムカメラなので、失敗する確率も高いので尚更多くシャッターを切ったのです。

校舎の被害状況把握と現場保存に一段落し、次に向かったのは『自啓寮』です。宮城県農業高では、1年生全員が1年間の寮生活を送ります。この為、当時200人余りの生徒が寮生活を送っていたのです。電気は止まっていました。燃料はプロパンガスで何とかなりました。水は井戸もあったのでなんとか使えるかもしれない。真っ先に頭に浮かんだのは食事です。それも200人余りの三食確保です。

名取市市内を始め近隣も含めて探し回りました。しかし、近隣では見つからず、最終的には泉市七北田にあったパン工場で200人分のパンを確保できることになりました。取りあえず、急場しのぎの食料のめどが立ち、その後厨房が使えるかどうかの確認になりました。しかし、夜も大分遅くなり、業者に点検してもらうは、翌日にならざるを得ませんでした。生徒たちは、夜と朝、パンをかじりながら過ごさざるを得ませんでした。それでも、食べられるだけ増しかという気持ちでした。

何とか、被害状況の把握と試薬が混じった教室の掃除を終えて帰る頃には、翌日になっていました。帰り日は、街灯も信号も停電で明かりが消えていました。ヘッドライトだけを頼りに国道4号線バイパスをいつもよりゆっくりめに走りました。一番怖かったのは橋梁(橋)です。橋梁は、基礎杭を基礎地盤まで打ち込んで支えているので、沈んだ隆起したりしないのですが、その前後の道路は、沈下や隆起が起きています。国道4号線仙台バイパスでは、道路が沈下して橋梁が高くなっている状態でした。この為、スピードを出していると、急に飛び上がるような感じになってしまいます。最悪、段差が大きいと、その縁に強くタイヤが当たってしまいバーストしてしまうのです。私は、幸いにゆっくり走っていたので、段差を見つけることができ大きなショックを受けること無く通り過ぎることが出来ました。

当時、自宅は泉区黒松にある教員アパートに住んでいました。アパートに付いたときも周辺は真っ暗で、部屋に行くのも足下がどうなっているか分からず、少々危険だったので明るくなるまで三菱ランサー乗ったまま過ごしました。明るくなって、部屋に入ってビックリです。寝室の箪笥は両側から倒れ重なっています。テレビは、窓を突き破り半分外に出ていました。台所は、壊れた食器で足の踏み場もありませんでした。部屋にいなくて幸いでした。4階建ての宿舎は、一方向に強く揺れたようで壊れ方が極端に分かれているように感じました。眠る場所も無かったので、現状を確認しただけで手は付けず、冷蔵庫にあった、何かを取り出しまた車に戻って2時間ほど仮眠し、再び名取市にある学校に向かいました。

これ以降、被災の後始末と国から来る災害査定の準備に追われました。これが私の48年目の宮城県沖地震の時の様子です。まだ20代でした。あれから約半世紀、私も歳をとったものです。    河北新報(2026-06-11)

                

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