大本山永平寺の法話(2025-06-21)

『浄玻璃の鏡を念(おも)う』

永平寺の法話は、堅くて難しい内容と思いきや、日本の伽話(おとぎばなし)『浦島太郎』を題材にしたものでした。

『浦島太郎』は日本の伽話(おとぎばなし)で、原話は「浦島子」(浦島子伝説)で、万葉集、日本書紀、丹後国風土記に記述があります。現代において広く普及する浦島太郎の御伽話は、明治から昭和にかけて読まれた国定教科書版に近い内容と言われています。

実は、それに現代の著名な作家が手を加えた『浦島太郎』もあるそうで、この法話で扱った『浦島太郎』は、作家曾野綾子さんが昔からの御伽話に加筆したものだと言います。曾野綾子さんが加筆した『浦島太郎』には、玉手箱に「あるもの」が描かれているそうです。

それは何か!については後回しにして、法話『浄玻璃の鏡を念(おも)う』について始めに触れます。『浄玻璃の鏡』という言葉は、この時まで知りませんでした。仙台に戻ってから調べてみると色々学ぶことがありましたので、ここでご存じない方に向けて少しだけ解説します。

『浄玻璃の鏡』(じょうはりのかがみ)を持っているのは閻魔大王です。そこで、始めに閻魔大王について少しだけ解説します。

閻魔大王は人類史上で初めて死んだ人間とされています。閻魔大王は死後の世界=冥界(めいかい)を最初に知り、そこから死後の世界を取り締まる「冥界の王」になりました。日本における閻魔大王は、地獄で人を救う地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の化身であるとも言われます。人間は死後の世界で10人の王「十王」による裁きを受け、新たにどの世界に生まれ変わるかが決まるという説があります。閻魔大王はこの10人いる裁判官のうちのひとりです。

死後、人は「中陰(ちゅういん)」の状態に入り、あの世とこの世の境をさまよいながら、行き先が決まるまで審判を受け続けます。生前のおこないによって生まれ変わる世界が決まりますが、それを決定する重要な役割を担うのが閻魔大王ら十王です。中陰は49日間とされており、その間に7日ごと合計7回の裁判を受けます。

死者への裁判は仏事とつながっています。最初の裁判を担当するのが初七日(しょなのか)にあたる秦広王(しんこうおう)です。その後二七日(ふたなのか)、三七日(みなのか)、四七日(よつなのか)と続き、5番目の五七日(ごなのか)に登場するのが閻魔王(えんまおう)です。亡くなってから35日後の裁判を担当します。5番目と中途半端な位置にある閻魔大王が重要なのは、地獄に落ちそうとなった時に助けてくれる存在だからです。

7つの審判を経て、死者は死後の「六道」(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)と呼ばれる6つの世界いずれに行くかを決定します。

閻魔大王の下には、「浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)」という鏡があります。生前のすべての善と悪の行動を映し出すと言われており、これをみれば嘘をついてもばれてしまいます。死者は閻魔大王の下では嘘をつくことができないようになっているのです。さらに閻魔大王は人頭杖を使い、死者が天国行きか地獄行きかの判断を下します。裁判の際には、生前中の善悪のおこないがすべて記載された「閻魔帳(えんまちょう)」と呼ばれる帳簿を閻魔大王が読み上げると言われています。

閻魔大王の裁判では嘘をつくことができず、生前の行動によって天国か地獄行か判断が下されます。このように命運を握る怖い存在の閻魔大王ですが、地獄に落ちる人々を救う地蔵菩薩の化身であるとも言われます。

さて本題です。永平寺で早朝4時から行われた法話は、栂尾(とがのお)の明恵(みょうえ)上人の言葉『浄玻璃の鏡を念(おも)う』を引用して行われました。

『浄玻璃の鏡を念(おも)う』

人は日夜の振る舞いの浄玻璃の鏡に映ることを思うべし 

これは隠れたる處(ところ)なれば (だれにも見えない処のことだから分からないだろう)

これは心中密かに思うことなれば (自分にしか分からないことだから)

人知らずと思うべからず (人が知らないと思ってはいけない)

曇り隠れなく彼(閻魔大王)の鏡に映る (閻魔大王の持っている「浄玻璃の鏡」にはハッキリ映っている)

恥がましきことなり (恥ずかしいことである)

また、現代の詩人星野富弘さんの『くちなし』からの引用もありました。

鏡に映る 顔を見ながら思った

もう 悪口を言うのは やめよう

私の口から出た言葉を

一番近くで聞くのは

私の耳なのだから

もう一遍『きんみずひき』からの引用

正しいと思う 心の中に

揺れ動くものがある (自分の正しさを正当化しようとすると、気持ちはあらぬ方向に行ってしまう)

今日の私は 私の顔を

していただろうか (そんな時、自分本来の顔になっているだろうかと立ち止まって考えてみよう)

大きな鏡に

映すような気持ちで

目を閉じる

私は、この法話を聞いて直ぐに思い出したのが、「かじってみよう“社会学”」でも扱った『鏡に映った自己』です。復習になりますが、鏡に映った自己(looking-glass self)とは、他者から見た自分のイメージを想像することで自我が形成されるという考え方です。自己というのは、「他者という鏡」に映ることを通して作られるという、社会学者チャールズ・クーリー(米1864~1929)が提唱した概念です。彼は他者を自己を映し出している鏡と捉え、この他者との相互作用とそこに映し出された反応としての他者の振る舞いを考慮することによって形成される自我を社会的自我(「自我」は、他者との相互作用を通じて社会の中で形成される)と呼んでいます。

平安時代には、浄玻璃の鏡の記述が出て来ています。この浄玻璃の鏡にあるような内容と現在の社会学が同じようなことを言って底通していることに驚きを禁じ得ません。

私たちは、自分自身だけで自分を知ることはなかなか難しいです。その為、知らず知らずの内に、他者との関わりを通じて「自分」を知り、自らの振る舞いを変えているのです。「鏡」は、このことを象徴して扱われています。他者(鏡)をとうして自己を見つめる、あるいは現在の部分の姿を確認するのです。

私たちは、普段の生活において、自分の意識の世界と現実の乖離を感じることはよくあります。何時までも若い頃のような気持ちでいる。運動でも、気持ちでは前に行くのだが身体がついていかない等々、自覚的に自分自身を見つめ自分の現実を知ることはなかなか難しい。

もう賢明な皆様は、玉手箱に入っていたものがおわかりでしょう。そうです「鏡」です。浦島太郎は、7日ほど竜宮城に居たという感覚だったのですが、戻ってみると何もかも変わり、道行く人は知らない方ばかりでした。むろん、自分の家も見当たりません。父・母の名前を言い聞いてみると、お墓のある場所を教えられ、行ってみると苔むした墓石に父と母の名前が刻まれており愕然とするのです。気落ちして浜辺に戻り、寂しさの余り「絶対開けてはいけない」と言われて手渡された玉手箱を開いてしまいます。そうすると、中には「鏡」が入っており、その鏡を通して今の自分の姿を知り驚いたのです。煙が出てきて驚いたのではありません。年老いた自分の顔を見て驚いたのです。

人生とは、あっという間に過ぎていく。いつまでも若い時の気持ちのままではいけないことを諭したのです。諸行無常、仏教の根本思想をなすもので、あらゆるものは一瞬=きわめて短い時間(刹那)の間にも変化をくり返している(有為法)。更には、遊びほうけている自分をしっかり顧みることの大切さも諭しています。これは、善因善果・悪因悪果・自因自果(=「因果の道理」)という黄金の方程式にも通じるお話しなのです。

法話で取り扱った『浦島太郎』なので、少々抹香臭く感じられるかも知れませんが、私は「鏡に映った自己」との親和性を感じとても学びの多い法話でした。

永平寺までの件は、後日改めて書きます。以下、写真数枚を掲載します。

菩提寺「壽徳寺」の朝課に望み、それから永平寺に向けて歩きだす。
今回は「金剛杖」ではなく「錫杖」を持って歩く
蔵王山麓で野宿(二日目でしっかり風邪を引く)
日陰のない道をひたすら歩く
約700キロ1ヶ月掛けて永平寺に参拝

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です