拝礼作法が身についていない(3月13日:初日)

四国八十八ヶ寺歩きお遍路の初日です。これまで十分とは言えないまでも、考え得る様々な準備はしてきました。しかし、四国の地に立つと、今更ですが、これまでの準備は十分だったのか不安しかありません。

今回の挑戦の目標は、歩きお遍路の50%が断念するという、三日目に巡拝する12番札所焼山寺を越えることです。ここを越えられなければ何も始まらないのです。しかし、そこに辿り着くかどうかも未知数の状態で、第一日目を迎えています。

背中に「南無大師遍照金剛」と御宝号の書かれた白衣をまとい、志半ばで倒れた場合は棺桶代わりになる菅笠をかぶり、胸の前には納経帳を入れた頭陀袋を山谷掛けし、首から仏に帰依する恭順の意を示し修行の決意を表す輪袈裟を掛け、右手には弘法大師の化身と言われる金剛杖を持つ。

外見上は、どこから見てもいっちょ前の「歩きお遍路さん」です。でも、心の中は、何もかも不安だらけの初日です。

みなさまから頂いた御守り
フットケア用(一部)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

拝礼作法が身についていない(3月13日:初日)” に対して6件のコメントがあります。

  1. 阿部 優 より:

    本間さん、初日の工程、お疲れさまでした。と言いたくなる生々しい描写でした。
    今まさに、また歩いているかのような随筆です。

    さて、黙々と『私』と向き合った結果、『私』のことがよく理解でき、『私』が相手に社会にどう作用するのかを理解するヒントなりそうだ。結願した者には、相互作用がよち理解できるのだろうか。歩きお遍路と社会学には、何か濃厚な関係がありそうでわくわくします。だからこそ、本間さんが何かに導かれ、強く興味を持ったのではないか。

    樹齢1200年の長命杉は、人類はずいぶん変わってしまったと嘆いているかもしれません。一方で、1200年経ったのに、いまだに白装束で歩いてくる者もいるのかと感心しているかもしれません。結願した今なら、杉の声が聞こえるかもしれませんよ。ファンタジックな話をもう一つすると、生活と信仰が一体化している土地の道案内人は、修行僧並みに徳が高いのではないか。もしかして、もしかしてその人は1000年前の修行僧だったのでは。

    社会学の複眼的な目と、僕自身の第三の目で、この旅が本間さんの自己充足的行為であったのか、はたまた何か別のところに通じていくのかをしっかり見ていきたいと思います。

  2. ハチドリ より:

    冒頭,『四国八十八ヶ寺お遍路は,全行程が四つに別けられている』とあり,私はここでしょうもないことに時間を取られてしまいました。『別けられている』?『分けられている』との違いは何なのだろうかと。すごく簡単に言うと「分けるは,ひとつの物を分割すること」,それに対して「別けるは,元々ひとつでないものを区別する」というような感じで,調べたら答えはすぐにわかったのですが,今さらながら大切な日本語を学ばせていただきました。

    そして,またまたなかなか本題に入らないのですが,四国八十八ヶ寺お遍路の全行程が「発心・修行・菩提・涅槃」という四つに別けられていて,その区間の目指すことが書いてありました。私はその中の「涅槃」という言葉に対して思い入れあり,さてどんな意味なのだろうかと特に気になりました。『「発心」は,修行への志をかためる区間,「修行」は,自らと向き合って苦闘する区間,「菩提」は,迷いから解かれる区間、そして「涅槃」は,「大窪寺」(結願の寺)迄,悟りに入る区間』ということなのですね。
    『悟りに入る』か~・・・と,ちょっと個人的に当時のことを思い出しながら初日のページに進みました。

    歩きお遍路初日の様子が,手にとるようにわかります。
    身体は当然慣れていない,歩くリズムはもちろん,まったく知らない道を何度も間違いながらガイド本よりも7㌔も多く歩き,そして,お参りのお作法も順番を間違えたりやるべきことを忘れてしまったりと、『勉強したはずなのに~』とうなだれる先生の姿が目に浮かびました(笑)
    何とも慌ただしい初日,でも,それはそれで良い体験になったのではないかと思います。
    『一期一会の関わりの中で「私」を感じ、相互作用の存在に気づく』,第一歩だったのではないでしょうか。

    鈴の音と始まった歩きお遍路第一日目!
    さんざんでとても疲れたけど,『夜のお勤めにも参加し,とても穏やかな気持ちになり、弘法の湯で身体を温め、いとも簡単に眠りにつきました。』とのこと。
    良かった!良かった!ほんとうにそう思います。

    さて,二日目はどんな景色と,出会いと,お作法の話が聴けるか,楽しみにしております。

  3. スマイル より:

    先週の「まえがき」に、『司馬遼太郎の「街道を行く」のような書き物をしてみたいと思った』というくだりがありました。今回の「初日」を読んで、他の誰も書くことができないものになっている、そしてなっていくのではないか、と感じました。
    初日のなんとも心もとない一日であったこと、その実感も貴重だし、それでも細やかなところまで記憶していて、道の勾配や境内の気配まで感じられる文章、本間先生ならではの地域の人々との関りや観察力。これを書きながら、その手ごたえを感じ、わくわくとさえしてきているのではないか、と思いました。「これは自分だからできること(自分にしかできないこと)」と思えることは、たとえ大変であっても途中困難であっても、それを上回る喜びもあるものではないでしょうか。このところ話題になっている「中村哲さん」の、とても一人の人の人生とは思えない偉業(想像を絶する苦闘)を考えても、やはり「喜び」も大きかったろうと思うのです。
    一度、ほぼリアルタイムで同行した旅ではありますが、またひと味違う旅になるだろうと、これからも楽しみにしています。

  4. いくこ より:

    ただひたすら歩いてお参りをして見知らぬ土地に泊まりまた歩く。
    私が考えていたお遍路のイメージでしたが、記録を読ませて頂くと進学した子どものように見知らぬ作法を身につけようとドキドキしながら一生懸命な始まりだったのですね。
    作法が多いのも愛なのではと思いました、親を見送った日々を思い出すと、お仏壇の世話や法事、目の前のことに一生懸命動いているうちに、心が静まっていく。心が磨かれていく作業なのかもしれませんね。
    第一回目、ありがとうございました。

    1. ハチドリ より:

      『作法が多いのも愛なのではと思いました、親を見送った日々を思い出すと、お仏壇の世話や法事、目の前のことに一生懸命動いているうちに、心が静まっていく。心が磨かれていく作業なのかもしれませんね。』
      いくこさん、なんかとても心に沁みました。
      そうね、そうだよね。
      ありがとう、いくこさん💞

  5. 鈴虫 より:

    とても楽しみにしていた『四国八十八ヶ寺歩きお遍路』がいよいよ始まりましたね。
    ここから始まる長い旅路の記録に、どんなことが待っているのか、私はそれに耐えられるのかと不安な気持ちになりました。
    もう私の心は白装束に身を包み金剛杖をぎゅっと握りしめています。緊張で必要以上に力が入り、これでは身が持たないだろうという様子です。

    初日の緊張感、まわりの様子を見ながらこれで合ってるのか?という不安な気持ちがひしひしと伝わってきます。
    側から見れば「初々しい」とも映るかもしれませんが、当の本人は必死ですよね。
    第一話を読んだだけで胃がキリキリと痛みそうな予感です。

    ここから一年間、私もエアーでお供をさせていただきます。どうぞよろしくお願いします。

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