阪神淡路大震災から28年

1995(平成7)年1月17日午前5時46分、淡路島を震源地とする、自然災害が頻発する中、戦後初めて大都市を襲った最大震度7の直下型地震が発生し、死者(6434人)・行方不明者のほか、住宅や事業所等の建築物や高速道路、鉄道、港湾、ライフライン等、多岐にわたっており、総被害額は約10兆円に上りました。

阪神淡路大震災が発生した1995(平成7)年は「ボランティア元年」と呼ばれています。ボランテアの延べ人数は、阪神淡路大震災のときが167万人、東日本大震災では550万人が復興を助けてくれました。こうしたことを受け、特定非営利活動促進法(通称NPO法)は、1998(平成10)年3月25日法律第7号)が成立しました。

余り知られていいないこととしては、水道の混合水栓のレバーの止まる位置が変わりました。阪神淡路大震災の前まではレバーを上げると止まる「上げ止め式」が普及していました。しかし、阪神淡路大震災のときに混合水栓レバーに物が落下して水が出しっぱなしになるという事例が多発したため、震災後はレバーを下げると止まる「下げ止め式」に変わっていきました。

大規模災害が発生するとよく見る組織も阪神淡路大震災以降、制度化されています。一つ目は、高度な救出救助能力を有する隊員と装備で編成される「消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー隊)です(東京消防庁では1996(平成8)年12月17日に発足)。国内の大規模災害だけでなく海外の地震、森林火災、噴火災害、豪雨被害などへも派遣されています。二つ目は、阪神淡路大震災では被災者に対する初期医療の遅れを露呈し、平時の救急医療レベルの医療が提供できず、救えたはずの命を救うことができませんでした。これをうけて、厚生労働省の災害派遣医療チーム「日本DMAT(ディーマット)」が発足しました(2005(平成17)年4月に発足)。Disaster Medical Assistance Team の頭文字をとって「DMAT」です。基本的に1チーム5人(医師1人、看護師2人、業務調整員2人)で構成され、要請があれば現地に3日〜1週間滞在して活動します。

私は、阪神淡路大震災被災地視察として神戸市と淡路島に、東日本大震災前と後の2回訪れています。一回目は、一人暮らし高齢者向けの集合住宅をみるためです。一人暮らし高齢者の住まいの有り様を学ぶことは、災害時や平時を問わず、様々な工夫が必要なのでは無いかと思って、震災後の神戸市の実情を見に行きました。二回目は、震災後です。私が考えて勧めている生活支援員制度の行く末をみるためです。早い段階で、生活支援員制度をどの様に終えさせるか、また長期間続いた場合の財源確保をどうするのかを考える為でした。

これらの視察は、東日本大震災被災者支援の制度設計にはとても役に立ちました。多くは、参考にならなかった、正確に言えば参考にしてはいけないと言うことを学んできました。生活支援員(LSA)は、その典型でした。地域コミュニティに期待できずにLSAが丸ごと見守りしている都市部の制度と地域コミュニティの力に期待できる宮城県では、基本的に制度設計が異なるのです。住宅設計にしても、高層化は絶対に避けるべきであることや、できれば近い将来の払い下げを想定した戸建てをできるだけ多く整備するようすること等々を進言できたのは、この時の学びです。実際には、南三陸町では中層階で留めているので進言の成果はありましたが、戸建てを増やすことについては、リアス海岸で土地が無いことから実現しませんでした。この様な意味も含めて、阪神淡路大震災からは、多くのことを学ばせて頂きました。

私たちは、東日本大震災を通して様々なことを学んでいます。其の一つひとつを大切に生かし伝えていくことがとても大切です。学者が考えるようなことばかりではなく、日常の細々とした部分にも様々な智慧が込められています。そうしたことをしっかり時代を担う子ども達に伝えることが、私たちには求められています。これは、被災地である私たち一人ひとりの責任です。私たちには、語り継ぐ義務があります。

比較
高層の災害公営住宅(神戸市)
13階建ての災害公営住宅(気仙沼市)
中層建て(3~4階)の
災害公営住宅(南三陸町)
LSAの詰め所にある緊急通報受信番
住宅は福祉の基礎

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

阪神淡路大震災から28年” に対して3件のコメントがあります。

  1. オールレーズン より:

    先生の視察は、目的意識をしっかりと持った、結果につなげる生きた視察ですよね。いつも素晴らしいなと思っていました。

    水道の混合水栓のレバー、阪神淡路大震災の前までは「上げ止め式」が普及していたんですね。阪神淡路大震災の前の年に建てた我が家も🏡ご多分に漏れずに確かにそうで、最近やっと「下げ止め式」に変えました。こうでなくっちゃ!

  2. スマイル より:

    「学者が考えるようなことばかりではなく、日常の細々とした部分にも様々な智慧が込められています」という言葉を深く頷きながら読みました。同じ「日本」と言っても地域によってそれぞれ特徴があります。「この地域をどう復興させていくか」については、やはり住んでいる人たちがこれまでどんな生活を送ってきたのか、これからどうやって生計を立てていくのか、日中に大人はどれくらい地域にいるのか、などなど、様々なことを知らなくてはいけないと思います。

    何か起こってしまってから慌てて知ろうと思ってわかることではなくて、日ごろから地域の様子を把握している人が必要で、その方達がどれくらい真剣に地域住民のことを考えてくれているか、ということが大切になってくると思います。誰か一人が頑張るのではなく、みんなが「ここを大切にしたい」と思えるような気持を醸成してくことが必要になってくると思います。

    本間先生が宮城県のために他県の視察をしてくださったこと、そこで本当の学びをしてくださったこと、それが宮城県にとって(特に深く関わられた南三陸町にとって)どれほどの財産となったことでしょう!

    私も「知ろうとすること」「忘れないこと」そして「日々できることを行うこと」を心掛けていきたいとあらためて思いました。折々に大切な情報をありがとうございます。

  3. 鈴虫 より:

    まだ小学生だった息子の奥さんは、神戸市東灘区で阪神淡路大震災を経験しています。早朝の強い揺れとともに寝床にタンスが倒れて来た恐怖は、今も生々しく思い出されると話しています。

    1月17日の早朝、私は彼女に震災で命を落とされた方々への追悼とともに、子供達にその経験をしっかりと伝えて欲しいとメッセージを送りました。
    直ぐに返事がありました。
    「あの日の記憶はつい昨日のことのように頭に残っていて、毎年この日を迎えるたびに体が固くなる様な緊張を感じます。子供達にこの記憶と経験をしっかり伝えることが私たち親の大事な役目だと思っています。」

    それまで接点の無い息子夫婦の出逢いは全く偶然だったとのことですが、お互いに阪神淡路大震災と東日本大震災を経験し乗り越えた実体験を共有出来たことは、奇跡的な偶然ではありますが、必然的な運命だったようにも感じています。
    彼らがこのご縁にはどんな意味が有るのかを考え、より深い心の繋がりを結びながら家族を守り、地域の一員として力を尽くしていって欲しいと切に願います。

    喉元過ぎれば熱さ忘れるのは世の常ですが、阪神淡路大震災から28年、東日本大震災からは12年がたとうとしている今、絶対に廃れさせないように伝え続け未来の減災のためにその智慧が活かされることが、未曾有の災害を経験した者の大きな責任であり願いです。
    念じれば願いは叶う!
    このことを今一度心に刻みなおして、自分に出来ることをコツコツと生きなければなりませんね。

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