応急仮設住宅の訪問開始(2011年8月1日)

南三陸町は、東日本大震災で甚大な被害を受けました。半壊以上の住家被害は、3,321戸(被災前の住基世帯数の61.94%)にものぼります。この為、南三陸町及び登米市に58箇所2,195戸の応急仮設住宅を整備しました。

南三陸町で設置し南三陸町社会福祉協議会が事業運営を行った「被災者生活支援センター」は、2011(平成23)年7月19日に設置し、三日間の研修及び支援体制を整え、8月1日から応急仮設住宅の訪問を開始しました。

はじめに行ったことは、被災者支援センターの周知、とりわけ生活支援員を知ってもらうことでした。当時、応急仮設住宅団地には、行政による保健師等の訪問や様々な支援団体等々が、それぞれの訪問目的と訪問頻度で入っていきました。そのような状況の中で、南三陸町の事業として、本格的に被災住民の見守り支援が実施されることになったのです。

当然、応急仮設住宅で避難生活をしている住民は、入れ替わり立ち替わり様々組織・団体に訪問され、時には同じようなことを何度も聞かれ、苛立ちをあらわにすることも多々ありました。被災者支援センターには、個人情報の保護と言うことで、住居者情報は世帯主程度に留まり、家族構成を含めた支援をするに際しての基本情報は、十分提供されてはおらず、生活支援員が聞き取りを行わざるを得なかったのです。

「被災者生活支援センター」「生活支援員」という耳慣れない団体は、応急仮設住宅の暮らす被災者には、他の多くの支援団体と区別が付かず、警戒して当然の状況でした。この為、訪問当初は、南三陸町の委託事業で被災者支援を行っている南三陸町社会福祉協議会という団体であることや生活支援員の名前を知ってもらうことに終始しました。

この為、生活支援員は、各サテライトセンター単位に、顔写真をいれた自己紹介チラシを作成し、ひたすら組織名と自分の名前を伝えることに徹しました。こちらからの質問は行わず、相手からの質問に答えるのみと申し合わせ訪問を繰り返していました。

訪問を始めた当初、どのサテライトセンターでも同じような質問をされたと言います。それは「あなたは家があるの?」だったそうです。そして、その答で被災者の態度は一変したと言います。「高台に家があったので流されないで済みました」と、答えると、「あなたに私の気持ちは分からない、帰れ!」と。一方、「家は流され仮設住宅で暮らしています」と、答えると「そう~、大変だね!」といって、少しは話が出来るようになったと。家の有無にかかわる「おまえたちに用はない」と言われることも、とても多くありました。

後者の場合は、なんとか訪問を続け、しだいに話をする時間も長くなっていくのですが、前者の場合は、「帰れ、もう来るな」と言われたので、再度訪問するのは、とても辛いことでした。訪問から戻り、「来るなと言われました」と、泣いて報告する生活支援員も少なくありませんでした。

この様な訪問の様子を毎朝のミーティングで各サテライトから報告されます。生活支援員は、被災者の生活を支えたいと思って各戸を一生懸命訪問しているので、「帰れ、もう来るな」という言葉は、一層キツく胸に突き刺さるのです。生活支援員は、きっと「もうそれなら行かなくて良いよ」という言葉を待っていたと思います。しかし「それでも行きなさい」が私からの返事でした。明らかに「この人言ってるの、現状を分かってるの」と言わんばかりの不信感で私をにらんでいました。

数日、この様なやり取りを繰り返してから、「それはね、・・・」と話をしました。

平成の森仮設住宅団地
仮設住宅団地集会所でのお茶会
二人一組で各戸訪問
各支援団体が張り出す集いのお知らせ
サテライト支援センターの目標(2011.10)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

応急仮設住宅の訪問開始(2011年8月1日)” に対して12件のコメントがあります。

  1. 鈴虫 より:

    もう10年以上が経過して記憶も薄れていると思っていましたが、こうして記事を読むと当時の事が一つひとつ鮮明に蘇ります。

    私はよく泣いていたへなちょこ支援員でした。でも、弱音を吐く度に「それでも訪問しろ」とピシャリと跳ね返され、先生が仰るならそんなものかなと、又、翌日も訪問に出かけるの繰り返しでした。何もわからないところから使命感が芽生え始め、何か出来るようなつもりで始まった訪問活動でしたが、結局何も出来ずに狼狽えて打ちひしがれていたように思います。

    只、支援者としてではなく気づけばいつもそこに居るという立場で、多くの町民のみなさんと共に泣き笑いしながら進んだ毎日だったと振り返っています。

    私にとっては、とてもとても大きな貴重な挑戦となり、その後の生き方に地域の一部としての私を意識出来る様になったことが有り難いことです。誰かの一見理解に苦しむ言動に対して、何故そうなるのか、言葉にならない訴えや背景を感じようとする姿勢は、支援員の経験から得た最も大切なことだと思っています。

    1. スマイル より:

      鈴虫さんの「誰かの理解に苦しむ言動に対して、言葉にならない訴えや背景を感じようとする姿勢は支援員の経験から得た最も大切なこと」という言葉は、南三陸の生活支援員制度がどのようなものであったかを、何よりも伝えてくれるものだと思いました。
      きつい言葉を投げつけられた支援員さんたちのことを思うと私まで身が縮む気持ちになり、そんな言葉を発するしかなかった人たちのことを思うと言葉もない気持ちになります。それらを全て理解した上で「それでも行きなさい」という言葉を伝えた本間先生は、誰よりも覚悟を決めて腹をくくっていたのだろうとお察しいたします。
      ここに書かれてあることは、被災してしまった地域に限らず、普遍的なものだと思います。支援員となって涙した人たちの尊い行為がこれからの社会を照らすものとなることを願い、私もその灯を受け継ぐ人でありたいと思います。

      1. 鈴虫 より:

        スマイルさん、「ここに書かれていることは、被災してしまった地域に限らず、普遍的なもの」と、私の言葉以上の理解をして頂いてありがとうございます。

        その当時に印象的な先生の言葉があります。「困った言動をする人は、いちばん支援を必要としている人」というものです。だから、その迷惑と捉えられてしまう言動がどんな気持ちで、どんな背景からうまれているのかを考えようというものでした。その様な考えに基づき、困った人を排除するのではなく理解しようと努めたのです。

        私はせん越ながら、先生が目指した被災者支援のシステムがどのように動き出したのか、一時でもその場にいた者としてどの様な気持ちで活動していたのかを伝えたいと思っています。

        それが私に出来る小さな伝承だと思うからです。

        スマイルさんに私の伝えたいことが真っ直ぐ受け止めて頂けたこと、ホッとしています。ありがとうございました。

        1. いくこ より:

          鈴虫さん

          書き込むにはずいぶん勇気が必要だったことと思います、お話頂いてありがとうございます。経験の深さには比ぶべくもないのですがささやかな自分の体験から想像しています。小さな伝承とお書きですがスマイルさんのおっしゃるように普遍と私も思います。

          1. 鈴虫 より:

            いくこさんもコメントありがとうございます。

            当時は自分の能力以上を求められていたので、苦労話と伝わってしまうのかも知れませんが決してそうばかりではありませんでした。
            知らなかったことを学ぶ喜びはとても新鮮でしたし、最近になって『奇跡のおばちゃん』という称号まで頂戴出来るとは、まるで夢のようです✨

    2. ハチドリ より:

      鈴虫さん、こんばんは!
      先生の記事や鈴虫さんのコメントを読んで、状況は違うのですが、私も福島の地でこれまで経験したことのない仕事についたばかりの頃を思い出していました。

      他県に避難している町民の人からの電話で、私が町の有名な祭りの名前すら知らないことがわかると、次々とこちらが答えられないような質問を矢継ぎ早にしてきて、仕舞いには「おめぇ、何もわかんね~じゃねぇか!」と言われたり、仮設住宅を回っていた時に「どこから来たの?」と聞かれ、「宮城県です」と答えると、「あまり余計なことは言えないな(津波で大変な被害だったのに俺たちみたいに賠償金はないから申し訳ないので)」とそれまでの会話が途切れたりしたこともありました。

      でも、仕事を始めて2カ月くらい経ったときに線量計のことで電話かけをしていたら、やはり質問に答えられない私に、「これはこうだ」とその人の持っている知識や自論、怒りや考えを1時間近く話をされ、私の頭の中は疲れて何も入っていない状況でしたが、やっと話が終わって電話を切ろうとした時、その人に「聞いてくれてありがとうな。役場から電話が来たのは初めてだった!」と言われたんです。この時、頭の中のもやもやした霧が少し晴れたような気がしました。

      それまで、教科書で習っていた「傾聴」も「共感」も何もできていなかったことにハッとしたことを今も覚えています。その後、その人が何を言わんとしているのかということが少しずつではありますが聴けるようになり、鈴虫さんが書かれた言葉をそのままお借りすれば、「誰かの一見理解に苦しむ言動に対して、何故そうなるのか、言葉にならない訴えや背景を感じようとする姿勢」につながっていったように思います。

      町民が遭った災害と同じ体験をしていないので、すべて同じような気持ちにはなれませんが、自分がその立場だったらとか、また、その人の置かれた立場を理解しようと努力することはできます。私は先生が嫌う専門職ですが、未知の世界に飛び込んだのは鈴虫さんと同じだと思っています。一番勉強になったのは、やはり町民とのやり取りの中からの学びでした。

      あっ、ついつい自分のことばかり書いてしまいましたね。ごめんなさい!鈴虫さんのコメントを読んで私も記憶が薄れていたことを鮮明に思い出してしまいました。有り難うございます。

      1. 鈴虫 より:

        ハチドリさん、電話でまくしたてられたその状況が自分の経験と重なって涙が込み上げてきました。

        何か手助けをなんていう立場でいたなら直ぐさまシャットアウトでしたよね。

        ハチドリさん、此処にあなたが居てくれて良かったと、関わりのあるみなさんは感じておられることでしょう。
        私はハチドリさんの福島での活動を心から応援しています!

        コメントありがとうございました。

        1. いくこ より:

          鈴虫さん、ハチドリさん
          お二人の奮闘は時を経て人生の糧となったのでしょうね、何かエールを送りたくてリボンをつけてさし上げたい気持ちです。
          みなそれぞれに置かれた場所で咲いているのですね。

          1. 鈴虫 より:

            いくこさんにリボンをつけて頂いたつもりで、胸を張って歩みます🎗

            ありがとうございました😊

          2. ハチドリ より:

            いくこさん、私は赤い🎀がいいな。還暦過ぎたら赤が透きになりました。鈴虫さんは何色をご所望ですか🤗

          3. 鈴虫 より:

            ハチドリさん、私も段々と赤いのが気になってきていますが、、
            幸せの黄色いリボンがいいかな😆

    3. やまぼうし より:

      「それはね、・・・」
      鈴虫さん、次回が楽しみです。

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