かじってみよう“社会学”12講目 相互作用論の世界「役割演技」

前回は、役割から逃れることのできない私たちの悩ましい状況について触れて、みなさんには、実生活に基づいた様々な役割に関する葛藤場面における向き合い方を考えて頂きました。コメントもいっぱい頂き、それも長文で!もう、既にミニッツペーパーではなく小論文化しています。自分の考えを整理し言葉にすることはとても大切です。有り難うございます。

今日は、「人はみんなブリっ子」らしいので、その事について書いて見ます。

人はみなブリっ子!何ということを(怒)、といわれるかも知れません。私は常に等身大の自分を生きている。盛ったりなんてしていませんよ、ってね!多くの人の自己認識は、こうだと思います。でも、社会学では、少し意地悪かも知れませんが、他者を意識して「演技」している側面があると見ているのです。以下、詳しく見ていきます。

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私たちは、与えられた役割をきちんとこなせる人もいれば、なかなかそうはいかない人もいます。相手との関わりの中で、極めて自然に行われたり、相当意識しないとできない場合など様々なのです。また、役割期待に応える場合も、かなり幅があって、①最低限これだけはしないと!②まあ、この位でよしとしよう。③できるだけのことはしよう。こんな対応のレベル差があります。

こうした対応に対して、相手はどの様に評価するのでしょうか。①のクリア-には、「まあ、こんなもんだろう」という諦め。①のクリアーできないには、「こんなこともしてくれないの」という怒り。②のクリアーには、「よしよし」と満足。③のクリアーには、「やるじゃん!」と大満足。③の想定を超えたクリアーには、「そこまで考えてくれたの」と驚嘆。と、こうなります。役割期待への応え方で、相手の反応にはだいぶ違いがあるようです。

この為、私たちは、対自欲求(自分自身を意味ある存在として位置づけたいという欲求)を満たすためには、なるべく他者から高く評価されたいと行為します。そこで人は、役割の遂行レベルをできるだけ上げるべく努力しようとします。その時、無意識のうちに行うもう一つの努力(行為)があります、それは、相手の顔色や態度をうかがいながら、自分を実際以上の存在として呈示し、より優れたものとして印象づけようとするのです。ゴフマン(米国)は、これを「自己呈示」あるいは「印象操作」と名付けています。

印象操作(impression management)は、印象管理とも訳されます。ゴフマンが、対面的相互行為を演劇的比喩を用いて記述する際に用いている(「行為と演技」1972)言葉です。その場の相互行為を演技に、他の行為者を観客になぞらえると、その場での自己の行為の統制・操作を通じて、観客に与える自己の印象を操作することを指しています。例えば、葬儀の場面を想像してください。その場にふさわしい服装や行為(振る舞い)をすることによって、其の状況での相互行為の秩序を維持するときに行われています。これが印象操作です。

私たちの日常で見られる印象操作の例。それとなくちらつかせる教養、有名な知人・友人、家柄、財産、有名企業に勤めている、高い給与。自分は「これほどのものです」と暗に語っています(いやだね~、でもたまに見かけますね)。語調や言葉遣い、視線、服装等々、あらゆるものが印象操作のために動員されます。ここら辺は、なかなか難しく、程度を越えると「自己顕示欲」が強い人といわれてしまいます。どの様な場面でも、話の流れを自分中心に変えてしまったり、「それ私も持っている」等とマウンティングしてくる、等の特徴があるようです。

知らず知らずであれ意図的であれ、印象操作をしているとき、人の行為は幾分かの演技性を帯びパフォーマンス化(相手を意識し注目を集めるための派手な主張や行動)し、行為者(あなた)は、演技者に近づきます。

私の個人的な印象のお話しです。女性が電話に出るとき、幾分声のトーンが高くなるような気がします。あれは、若く見せたいという無意識?意識して?。真相はわかりませんが、そん感じを受けるときが多々あります。これなども印象操作に入りそうですね。

印象操作というと、「操作」という語感からして意図的な行為と受け止めがちなのですが、必ずしも意図的とは限らず、普段の生活行為がよりよいものになるようにとか社会の秩序を維持する為に自然と社会常識的に行われていることも多いように思います。

私たちは、「人生という舞台に立っている」等という言葉を聴いたりします。これまで、見てきたことからすると、正に人生という舞台で役割演技を行い、他者との関わりにおいては印象操作を行い、他者との関係社会との関係秩序をうまく維持できるようにしているのでしょう。

役者さんでも、いかにも演じている、つくっていると感じる役者さんもいれば、自然体の役者さんもいます。

私たちも人生という舞台に立つ役者なのであれば、できるなら、地を生かした自然体の役者でありたいものです。

プーク人形劇場
(1971年誕生人形劇専門劇場)
人形の演技が、子ども・大人に夢と希望を与えます。私たちの心の奥底にあるピユアな感性を引き出してくれます。 
    劇団員には東北学院大学の卒業生もいます。この中でも出演しています。頑張れ~・・・!

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

かじってみよう“社会学”12講目 相互作用論の世界「役割演技」” に対して15件のコメントがあります。

  1. 阿部 優 より:

    2周目の12講目
    相互作用論のつづき
    『役割演技』
    対自欲求を満たすため、なるべく他者から高く評価されたいと行為する。
    ① 役割の遂行レベルを上げる。できるだけのことはしよう。
    ② 印象操作(自己呈示)。実際以上に優れていると印象づける。
    程度を超えると自己顕示欲の強い人と評価される。

    人の役に立とうとするあまり、聞きかじりのようなことでももっともらしく話すことがある。文献なりの裏付けをもって説明しなければいけないと反省。また、大勢の前で話すとき、自分を信用できる人にみせようとしていることもある。普段は着ないスーツなんて着たりして。これも役割演技ですね。
    演技はいいと思うのですが、本来の自分(地)とあまりにかけ離れている場合は詐欺だと思う。軸足をしっかりと地に付けていこう。

  2. welfare0622 より:

    今回もお読み頂き有り難うございました。かじってみよう“社会学”12講目 相互作用論の世界「役割演技」”。自分の振る舞いが「演技」と言われると、チョットした戸惑いや抵抗があったのでは無いでしょうか。 できれば良い意味で「演技」を捉えて頂ければ嬉しいです。意識、無意識を問わず、相手との関わりのなかで、ある意味で「自分を出している、表現している」と考えてよろしいのではないかと考えます。8件ものコメントがありがとうございました。

    スマイルさん。今回もトップバッターを有り難うございます。いつも頑張って書いて頂き有り難く思っています。さて、スマイルさんがおっしゃる「いいお母さんになりたい」は、子どもに向けた愛情の入り口であり出口でもあります。子どもの目を見て「私はその信頼に値するのか」と自分に問う。私は、そうした自分自身に対する問いかけをしていることに、母親として自覚を持ち責任を果たしていると思うのです。

    母性というのは生まれながらに持っているとは限らないと言われています。母性は、子どもとの関わりの中で育ちます。そうした意味からすると、スマイルさんの今ある姿は、子どもによって育まれてきたといっても過言ではないと思います。

    伝統的芸術「歌舞伎」等は、「まねぶ」(学の語源)というまねることを徹底的に行うそうです。まね尽くしたその先に初めて「その人らしさ」(個性)が生まれると言います。一見、まねることと個性は矛盾したことと思うのですが、「コピー」と「まねる」ことの違いの深さがそこにはあるのだと思います。その状態になったときか、スマイルさんの言われる「地を生かした自然体の役者」になっているのではないでしょうか。

    私たちは、様々な場面で他者の振る舞いに触れ、様々な書物から共感を覚え、それらの振る舞いを身に付けています。謙虚という自分の芯を磨き、いつしかそれが「地」という形になっていく。今のスマイルさんは、こうして演技を超えた「地」を獲得しているのだと思います。

    プーク人形劇場については、いくこさん、鈴虫さんからもコメントが寄せられていました。つなぐべき大切な財産になっているという点ではみなさん共通していました。私は、東北学院大学の卒業生が団員になっているという御縁で関心を持つようになった新参者です。これからも注目していきたいと思っています。

    ハチドリさん。無意識下で人様に少しでも気持ちよく電話を受けてもらいたくてoneトーン明るい声でお話しすることが身についている。たかが電話、しかし相手が見えないからこそ気を配る。こうした行為は、「演技」という言葉を使うとチョット嫌な気持ちになるのかも知れませんが、相手とのコミュニケーションの第一歩となる技術と考えれば、何らかの課題を関わる方々と関わるプロとして大切な「たしなみ」(心得、心がけ、節度)なのかも知れません。

    舞台の裏方や小道具づくりで、スポットライトを浴びる役者さんを支える方がむいている。私には、とても共感を覚える役割の果たし方だと思います。私も同じような姿勢だからかも知れません。人にはそれぞれ得手不得手があります。無理せず、「地」を生かして役割を果たせたらこんなに穏やかで自然な自分はないように思います。

    いくこさん。今回は早々と有り難うございます。「役割演技」という視点で自分を見返してみると、どれが本当の自分?って迷宮に入りそう。わかります。どれが演技でどれが素の自分なのかと頭を抱えてしまう。答えは簡単、どちらも「いくこさん」そのものです。若干意識して、多少のぎこちなさを持って振る舞っているのか、もう「演技」が身について「地」になっているすなわち「素の自分」に思っているかだけの違いです。どちらも他者との関わり(相互作用)などから獲得した振る舞いです。誤解を恐れずに言えば「完成度の違い」かな!恋人とのデートで、ぎこちない振る舞いになっていたのが、結婚して長年共に暮らしていると、若干ときめきが少なくなっているも言えますが、表現の仕方が「度に行っている」=身についている。こんな感じでしょうか。たまには、ときめいているフリの「演技」も大切かも知れません。そのフリが相手のドキドキを誘い、フリだったのが本物に変わるかも!夫婦の可愛いだましあいですね(笑)。

    阿部さん。「役割演技」「印象操作」は日常の範疇。この言葉は、仕事柄、相手に本物の良さを理解して頂くためには、所作も含めて様々な工夫が必要と言っているのだと思います。その時の第一の売りは、豊富な知識と理想をの住まいを追い求める情熱を持った「阿部さん」そのものですね。正に「役割演技が地になっている」それが信用や信頼という形になっているのでしょう。

    しかし、最後にあったように、「地を出し過ぎると生きづらい」。これも現実ですね。ここは、判断が分かれますね。妥協して八方美人的になるのか、嫌われて去って行かれても信念を貫き、わかってもらえる人だけで勝負する。阿部さんは、後者なのでしょうねきっと。営業の方からは、きっと「大人になれ」等と言われているのかも(笑)。

    鈴虫さん。今回は、突っ込みどころ満載の意欲的なレポートを有り難うございます。学生のレポートを読んでいるようでとても嬉しいです。さて、喪に服しているときの口紅のお話し、「役割演技」ではなく「常識・マナー」ではないのかとのご指摘がありました。

    常識・マナーは、先に学んだ社会化が身についてその地域や国に定着して、当然に身に付けるべき所作となり、それを私たちは「常識」や「マナー」と言っているのではないかと思います。では、私たちは、葬儀の時に私語を慎み、黒い服に身を包むのはどうしてでしょうか。それは亡くなった方への哀しみや寂しさを表している行為としてそのような振る舞いをしています。そうした姿が、しだいに周りにも広がり他者も同じような姿がふさわしいとなり、同じような姿振る舞いが求められるようになる。即ち社会化していく。この様にして社会化した振る舞いが、その地域や国の常識・マナーとなっていく。社会学では、このように考えるのだと思います。

    なので、役割演技と常識・マナーは違うものではなく、意識して行っていた役割演技が社会化過程を経て常識化・マナー化していく、と考えても良いのではないかと思います。

    やまぼうしさん。「地って変わるもの?」それに続く下りは、元々持っているもので変化しないことを「地」という、と理解しているからの疑問だと思いました。「地」とは役割演技が身につき、自然な振る舞いになった姿という言い方をすれば、様々な他者との相互作用という関わりの中で、身に付けた振る舞いであって、変化していくことは自然なことだと思います。私は、これを「成長」という言葉で現すことができるように思います。

    「ソファーに一人座って、生チョコと珈琲いただきながら、ゆっくり振り返ってみています」とありました。是非、じっくりと自分の振る舞いや言動を思い出し、なぜ、そのように振る舞うのか、なぜそれが好きなのか、なにがそれを選ばせるのか等々考えてみると、いろんな人の顔が浮かんでくると思います。やまぼうしさんの「me」に関わった人々の顔です。

    皆さま、今回も字数の多いコメントを有り難うございました(汗)。オランダとのコンテストを意識しながら早く終わりたいと思いながらも、とても長い時間かかってしまいました。しかし、腕組みをしたり、頭をかいたりしながらのこの時間は、至福の時間でもあります。みなさんが何を考え悩み、何にメッセージを向けて書いているのか等々を想像しながら、一文字ひともじに向かっています。来週も宜しくお願いします。

    1. やまぼうし より:

      おはようございます!
      皆さんが書かれたレポートを読んで勉強になり、さらに一生懸命こんなに書いてくださる先生の講評で学びを深めています。
      いつも本当にありがとうございます。

    2. 鈴虫 より:

      おはようございます。講評ありがとうございます。
      「突っ込みどころ満載」「学生のレポートを読んでいるよう」でしたか、、。「意欲的」「嬉しい」の単語に励まされました。

      国語力の弱さもあり、自分の考えを誤解なく伝えたいと思うほどに、どんどん字数が多くなってしまいます(汗)。毎回、先生の時間を侵食してしまってすみませんが、私には楽しい学びの時間となっておりますので、これに免じてお許しをいただきたいです。いつもありがとうございます。

    3. いくこ より:

      「夫婦の可愛いだましあい」極意のご伝授ありがとうございます!しかし先生、出会ったころから親友のようで、いったいときめいたことがあったかどうかすら定かではありません、急に可愛らしくなるとギョッとされそうです(笑)
      今週もありがとうございました。来週も遅れないようについて行きます!

  3. やまぼうし より:

    地って変わらないものでしょうか?

    私は、地で振る舞って来たことで、結果、自分が嫌な気持ちになった経験がたくさんあります。多くは自分の考えを通そうとした時のように思います。要は、そのときの通しかた(言い方、タイミング、表情、声のトーンなど)なんだと思うのですが、どうすればうまく行くか学んでいき、場面によってはいつの間にかそのやり方が身に付き、地になっている・・ところもあるような気がします。でも、そういうのは地と言いませんかね?

    嫌な気持ちになった時は、どうすれば良かったんだろうと反省したり修正したりしながら、これまでの人生を生きて来たように思います。その方が、その後、楽な気持ちになれるからです。でも、私はたくさんの人の中で過ごすことは本来あまり好きではなく、笑顔(演技?)でいたとしても心はヒクヒク、どこか「いずくて」長続きしません。これは人生60年以上生きて来て、どうしても変わらないところです。

    このように、いろいろと時々に、演技しながら、取捨選択しながら、今の自分らしさ、地を形成して来てるように思います。役割演技という形で無理をしたこともあったかもしれないけど、それもまた勉強で、必要な時は割りきって役割演技をしますし、あんな演技は駄目だと自分を戒めることもあります。あと、苦手だと思っていた人と話してみたり一緒に仕事をしてみたりすると、自分が間違った先入観を持っていたと気づき、なんだ、もう演技なんてしないどーと思うこともある。

    それでもそれでも、やっぱりゆったりとした楽な気持ちや忙しくても、達成感を感じた時が私の地でいった時なんだろうなと感じています。今日は少し時間があり、暖かい日射しの入る部屋で古びたソファーに一人座って、生チョコと珈琲いただきながら、ゆっくり振り返ってみています(地!笑)

  4. 鈴虫 より:

    私が『役割演技』について考えたことを述べさせていただきます。

    『人はみなブリっ子』で『他者を意識して演技している』?
    私はどうだろうと考えてみたら、確かにそんな時もあるなぁ。
    いつでも役割期待には応えたくて、実力以上のハードルを余裕の笑顔で越えようとしてみたり。でも、悪意のある演技はしていないつもり、ちょっとした背伸びみたいなものです。演技の裏では努力を重ねつつ、いつか演技が要らなくなるようにスキルアップ出来れば良いと思っています。
    また、無意識のうちに演じる例としては葬儀があげられていましたが、大人のたしなみとして喪に服す時に赤い口紅はつけません、これは常識とかマナーの問題で演技とは少し違うような気がします。

    私が役割期待に応える場合にはたいてい「③できるだけのことはしよう」とつとめます。そしてせっかくなら「やるじゃん大満足」と言われるように頑張ろうとしていますが、ときには自分の体調や環境が整えられずに、ギアを下げ「①最低限これだけはしないと」というモチベーションで事にあたることもあります。
    私はこのような時にも、歩みを止めるよりは前に進むという選択をしたうえで、力が満ちたらまたギアを上げればいいのだということを学習出来ました。
    社会学では、この様に自分のことをプラスに評価することも『役割演技』とか『盛っている』と分析されるのでしょうかね。
    そうだとしたら、私はこの『役割演技』の講義は少し意地悪な内容のような気がします。

    そしてショッキングだったのが『自己呈示』『印象操作』も程度を超えると『自己顕示欲』が強い人と言われるというところ。「どの様な場面でも、話の流れを自分中心に変えてしまったり、、、とマウンティングしてくる等の特徴がある」
    私もよく自分のエピソードを持ち出して話をします。それは、例えば共感する時にも「この様な経験から共感できる」と言った方がどの程度の共感なのかが伝わると思うからです。
    『マウンティング』というお山の大将になりたい気持ちは私には無いのですけどね。
    でも、自分の話を持って行かれるということはあまり気分の良くないことですので、これからは気をつけます。
    出来るだけ地のままの優しさ溢れる私でありたいと思います(笑)
    ありがとうございました。

    今回出てきた『盛る』『マウンティング』というわりと新しい言葉を知ってはいましたが、まさか自分が使うとは思っていませんでした。やっぱり私は馴染めません。

    人間劇団プークのご紹介ありがとうございました。とても温もりある人形劇ですね。
    蛇足ですが、私のお気に入りは『ざわざわ森のがんこちゃん』です。

    1. スマイル より:

      それぞれ自分の持ち場で、役割の中で、より良いものにしたいと葛藤や反省を繰り返しながら奮闘している、その中で積み重ねた経験や培われた知恵が何より尊いと私は思っています。それらは言葉で説明するのは難しいもの、また説明できたとしても同じような経験がある人にしかわからないし伝わらないものでもあると思います。ですから、それを「学術的に」とか「用語」などでひとくくりにされてしまうことに抵抗があること、とてもよくわかる気がします。

      「ざわざわ森のがんこちゃん」子どもたちが小さい頃一緒に見ていました。余談となりますが「がんこちゃん」を制作している「スタジオノーヴァ」と「人形劇団プーク」は同じ会社の別セクションとなっているんですよ。がんこちゃんが好きな方がいると知った劇団員が「どんなところが好きがぜひお聞きしたい。制作している方たちの励みになります」とのこと。今、コロナ禍でいろいろ大変な業界ですので、ぜひお気に入りの理由をお聞かせください!

      1. 鈴虫 より:

        スマイルさん。私のお気に入りにコメントを頂きましてありがとうございます!

        ざわざわ森のがん子ちゃんが人形劇団プークと同じ会社から生み出されているとは知らず、驚きました!がん子ちゃんは私も子供達と一緒に楽しんだ人形劇です。根は優しくて力持ちの恐竜の親子にヒポ先生やお友達など、いろいろな姿をした登場人物が繰り広げるドタバタ劇です。その中に友情や感謝や尊敬などの道徳的な導きがあるところが、大人も一緒に楽しめる魅力でした。加えて、私の母が認知症になった後に、ひとりテレビに食いつく様にしてがん子ちゃんを見ていた時には、驚いて「なんでこれ見てるの?」と聞いたら「キレイだから」と即答しましたよ(笑)

        母のこころにも、がん子ちゃんが何か温かいものを伝えてくれたと思って、私は益々がん子ちゃんが大好きになったのでした!どうぞ、こんな大ファンがいることを制作するみなさんにお伝えくださいね。ちなみにテーマソングは谷啓さんの歌声が好きです♪

        1. スマイル より:

          お母様も「キレイだから」とがんこちゃんを見てくださっていた、ということを知り感動しています。心を込めて作り、心を込めて届けようとする祈りや願いは、年齢に関係なく伝わるのですね。そのことに、大きな希望や夢を感じ、とても励まされました。劇団員の方にお伝えしたところ、お会いした時に制作部の方に伝えさせていただきます、とのことでした。こうして、想いの橋渡しをさせていただけたことにも、心から感謝いたします。

          1. 鈴虫 より:

            スマイルさん
            その当時の母は、自分の気持ちにぴったりな言葉が発せられない状態だったのに、「キレイだから」と即答したのですよ!感動しました。
            心のこもった作品が一瞬母の思考をハッキリとさせたのでしょう!
            いい場面を思い出させていただきました、ありがとうございました。

  5. 阿部 優 より:

    本間先生
    12講目ありがとうございます。

    『役割演技』『印象操作』を常にしているように思います。意識的にも、無意識でも。多数の前で話す場面では、意識的に呼吸を深くし、ゆっくり大きな声で話すようにしています。その方が説得力が増すからです(経験則)。視聴者が盛り上がってくると、調子に乗ってよりパフォーマンス化していきます。今ならわかりますが、これは対自欲求を満たしているのですね。

    一方、小さい子や動物などに話すときは、無意識に小さな声でやさしく話しています。理論上もその方が警戒されないことが分かっていますが、自然とそうなりますね。幼い子や動物は話さなくても敵か味方かわかるようです。

    このように、いつも印象操作をすべく演技しまくっているわけですが、地を生かしすぎるとうまく生きていけないかもしれません。好き嫌いがでてしまう。

  6. いくこ より:

    「役割演技」そう考えると、いったい演技していないのはいつ?どれが本当の私?とまた迷宮に入り込んでしまいそうです。私もハチドリさんと似たような経験があります。やはり40年ほども前に小さなステージのあるお店で、最前列でコメディーを見ていました、しばらくすると演者の方が「もう~今日のお客さんは楽しいんだか楽しくないんだか~(笑)」と言って私の方を見たのです。いやいやびっくりしました、とっても楽しかったから。それからは、口角をあげていようと私も思ったのでした。電話のことも、電話は実は苦手です、相手の状態が見えないから少し緊張して声もかわります。電話でも窓口対応でも、私が恰幅の良いおじ様だったらこんな対応は受けないだろうと思った若い日、近頃は丁寧な対応をして頂けることが増えたのは、怖いおばさんに見えるためか?口角を上げて笑顔でいるためなのでしょうか?
    これからの演技は人を大切に思い、自分を大切にするための演技でありたいです。

    プークの映像ありがとうございます、職人技ともいえる人形の操演に見とれます。
    クラウドファンディングを募集していました、応援したいと思っています。

  7. ハチドリ より:

    おはようございます。
    『ブリッコ』と聞いて、え?と焦る私😅

    先生が個人的に感じていると言う、『女性が電話に出るとき、幾分声のトーンが高くなるような気がします。あれは、若く見せたいという無意識?意識して?』
    電話をしたときに、「はい、○○です」と出た相手の声のトーンが最初なんとなく暗い印象なのに、こちらが名前を名乗ると「あ~、いつもお世話になっていますぅ」とトーンが高くなる人がいますが、私は最初からそんな風に出てもらえると嬉しいなと思います。なので、明らかに理由がある場合は別として、電話に出るときは相手の人がちょっとでも気分よく受けてもらいたいなと考えて、意識(無意識になってるかも)して、ワントーン明るい声で出るようにしています。その方が何をしゃべっているかもわかりやすいですしね。
    『普段の生活行為がよりよいものになるようにとか社会の秩序を維持する為に自然と社会常識的に行われていることも多いように思います。』⇐そう、たかが電話一つのことですが、表情が見えないからこその印象操作かもです。今から40年も前の就職仕立ての頃、仕事をしてる風景の写真を企画課の人に撮られた事があり、自分では普通にしていたつもりなのに、その表情がなんとも「ブスグレン」としていて、こんな表情で対人サービスの仕事をしているのかと自己嫌悪に陥ったことがありました。見た目、雰囲気の印象も大切だと思い、その後は意識して口角を上げたりしました。こういうブリッコはしています。他にもムカッとする相手に(押さえて押さえて私)と言い聞かせて平静を装い対応すること等もあります。その他いろいろな場面を成立させるために敢えて演技した方が良いこともあるし、ここは親として落ち着かなきゃと思っても大フォンの人が目の前に現れたら子供がいようが、地で溢れかえるかもしれません。
    私たちが生活する中では、これまでここで学んできたように様々な「役割」を期待されています。それに応えようとして自分の言動をコントロールすること、と言うより、した方が他者との関係がよくなる場合が多いような気もします。

    『人生という舞台に立つ役者なのであれば、できるなら、地を生かした自然体の役者でありたい』そうですね。地を生かした自然体でいくとなると、人づきあいが思ってるより下手で人見知りの私は、舞台の裏方や小道具作りを黙々コツコツとやりたいなと思います。もちろん、自分の目標や希望、楽しみを持ち続けながら!

  8. スマイル より:

    『私たちも人生という舞台に立つ役者なのであれば、できるなら、地を生かした自然体の役者でありたいものです。』という言葉、心にとめたいと思いました。

    私は「いいお母さんになりたいな」と子ども心に想っていました。私が思う「いいお母さん」は一緒にいるとホッとする存在、心を温めてくれる存在、言葉にすればそんなところでしょうか。でも、そんな抽象的な夢を持っていても、実際はそうは問屋が卸さないのですね。思い描いたような母親になれずに本当に悲しくて、切なくて、やりきれなくて。手探りの試行錯誤をして辿り着いたのは「母親」と「子ども」という役割を離れ、相手を鏡として自分の言動を見つめなおす、ということでした。様子が落ち着いて穏やかであるなら対応はそれほど間違っていないと判断する。そうやって、ひとつひとつ学んでいきました。

    また、これまで一緒に暮らしてきた動物たちの信頼しきった目を見ると、その信頼に値しているか、と自分を省みずにはいられなくなります。子どもや動物は、その言動が心からのものであるかどうかを見抜くものです。はったりは通用しません。先生がおっしゃる「地を生かした自然体の役者でありたい」ということに通じることだと思います。「地を生かす」という言葉は深い言葉です。起こる出来事や相手の言動を自分の鏡として謙虚に自分の芯を磨かないと「地を生かしても相手に伝わる、通じる」とはならないような気がします。

    人形劇団「プーク」のご紹介をしていただきました。有名なメーテルリンクの「青い鳥」は「戦争を起こしたドイツと日本では上映させない」という作者の希望から上演拒否されていたらしいのですが、プークの反戦運動の歩みが認められ許可された、と聞いています。子どもたちに夢を与えるためには、自分(大人)のありようが大切、ということを貫いている劇団だと思います。子どもたちが夢中になって見てくれるのは、そこに演技を超えた「真実」があるからでしょう。私もそのようでありたいと思います。

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