「忘」を選んだ追悼 阪神淡路大震災から27年

阪神淡路大震災から今日(1/17)で27年です。1995年1月17日午前5時46分に兵庫県淡路島北部を震源として、マグニチュード7.3最大震度7の巨大地震が発生し、大きな揺れが阪神地域に襲いかかり、6,434人もの尊い命が奪われました。近畿圏の広域が大きな被害を受け、特に震源に近い神戸市の市街地(東灘区、灘区、中央区(三宮・元町・ポートアイランド)、兵庫区、長田区、須磨区)の被害は甚大で、大都市を襲った激しい災害の脅威を見せつけた近代都市での災害として日本国内のみならず、世界中に衝撃を与えました。第二次世界大戦後に発生した自然災害全体でも、東日本大震災が発生するまでは最悪の自然災害でした。

震災からすでに27年が経ち、被災者の高齢化も進んでいます。記憶を語り継いでいかなければいけないと、今年は、「忘」という文字が灯され、鎮魂の一日が静かに始まりました。

    震災から1ヶ月後の報道

私は、27年前のこの日、仙台市にある公務研修所で市町村職員のみなさんと一緒に政策課題の発見及び解決を1年にわたって行う研修に参加していました。お昼休みに、関西の方で大きな地震被害が出ているようだと話をしているのを聴きました。その時は、情報をそれ以上得る手段がなかったので、そのまま午後の研修に入りました。5時近くに研修が終わり帰り際にテレビから流れるニュースに目を疑いました。神戸市内が炎に包まれ高速道路が横倒しになっている映像でした。足がすくむ様な感覚を持ったことを覚えています。

私は、この地震災害に気持ちを持って行くよりも、高い確率で発生が予想されている「宮城県沖地震」に気持ちを向けていました。宮城県沖地震は、1978(昭和53)年6月12日午後5時14分に発生した、マグニチュード7.4最大震度5で、仙台市域(旧泉市・旧宮城町・旧秋保町の区域を含む。)で、死者16人,重軽傷者10,119人,住家の全半壊が4,385戸,一部損壊が86,010戸という多大な被害が生じました。この地震は,当時の人口50万人以上の都市が初めて経験した都市型地震の典型といわれました。

     震災時のニュース

27年前の当時、私は職場にそのまま残り、災害対応をして朝方に黒松に会ったアパートに戻りました。仙台バイパスは、道路が割れていたり凸凹になっていったりして、徐行程度のスピードでないと危ない感じでした。家に着くと、タンスが倒れ電子レンジがガラス窓を突き破り半分外に出ていました。食器棚から全ての食器が床に落ち割れており、いわゆる足の踏み場もない状態でした。そこで、そこでわずかの仮眠を取り早朝再び職場に行ったのを覚えています。妻は、たまたま夜勤で家にはいませんでした。家にいて、食事の準備をしていたら大変なことになっていたと思います。また、時間が夜だったらタンスが体や頭を強打し、生命の危機に陥っていたと思います。

こうした記憶の有る私は、高い確率で発生が予測されている宮城県沖地震には、職責としても大きな関心を持っていたのです。この為、宮城県内で大きな地震が生きると志願して支援に入ったりしていました。兵庫県や新潟県の被災地も視察に行ったりもしていました。また、道路が寸断したり新幹線が普通になったりすることが容易に想像できたので、管理監督の立場になってからは、出来るだけ職場の近くで生活をし、緊急事態が生じた場合には、直ぐに職場に駆けつけられる様にしました。この為、通勤可能圏内、大河原町や古川市(現大崎市)でも単身赴任して歩いて数分の場所にパートを借り居住していました。周りからは「何でこんなに近いのに」といわれたりしましたが、災害時の指揮官不在は致命的だと考えていたので、苦になりませんでした。

こうした姿勢が、生きたのが東日本大震災の時です。当時、私は職場か歩いて数分のアパートに住んでいました。この為、通勤できなくなるリスクは全くなく、被災者支援が長期戦になっても、職場に留まり続け必要な指示を適時的確に続けることができました。何年にもわたる準備が、定年の直前で生きたのです。また、それまで他の被災地に赴いて学んだことも生きた様に思います。これからは、民生委員児童委員としても、こうした経験を活かして地域住民の安心安全に関わって行ければいいなと思っています。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

「忘」を選んだ追悼 阪神淡路大震災から27年” に対して3件のコメントがあります。

  1. スマイル より:

    本間先生の「いざという時の備え」は、役に立たずに終わるということが一番良かったのかもしれませんが、この地震大国の日本で地震が起こらないということはあり得ない。そうであれば、備えていらっしゃる先生がいてくださったことは本当に良かったと思います。

    どれほどの人が、同じような立場にあって、このような覚悟や備えをしているでしょうか?先生にとっては当たり前すぎるほど当たり前の心構えが、決してあたりまえではないこと、あたりまえであるなら、社会はもっと良い環境で、住みよいものになっているだろうと思わずにいられません。

    私も、いざという時にも役に立てるように今を生きたいと、いざという時にこそ「やっていてよかった」と思えるように行動しようと、あらためて思っています。

    そのために「忘れない」ということが大切で、またこうし本間先生のような方が「貴重な経験や想いを伝えてくださる」ことが必要不可欠だと感じています。先生の経験や言葉は読む人の心を奮い立たせる力があると思います。これからも、折に触れお伝えいただけたら嬉しいです。

    同時に、一生続けることですから、力を抜いてひとつひとつに心を込めて、道中を慈しみながら、感謝しながら、手を取り合って楽しみながら歩いていけたらと願っています。その道のりが巡り巡って、今なお哀しみや苦しみを抱えていらっしゃる人たちに、かすかでもいいから光となって届くことを祈りながら・・・

  2. 栗原市住民  より:

    1.17 早朝 毎年テレビニュースの中の時報と共に手をあわせる日です。
    皆さま  現 栗原市住民です。
    私は、28年前は関西に暮らしていました。(自宅は奈良県生駒市 職場は大坂市内や伊丹)
    奈良から宮城に戻り半年後にあった 1.17.午前5時46分。
    遠く宮城に暮らす私は、他人事ではなかった。 見慣れた阪神高速道路が横倒しになった姿
    あの日の朝のテレビニュースは「忘」れられません。
    あの人は大丈夫か? あの人の家 長田だったはず。 でも 何もできませんでした。

    平成17年に今の仕事に就き、減災・災害時の支援について意識しはじめました。
    平成20年6月14日に 岩手宮城内陸地震発生。私の暮らす 栗原の山間部に被害をもたらし、命も犠牲になりました。 はじめて業務として被災地・被災者支援に関わりました。
    阪神淡路大震災発生時に、他人事ではないと言いながら、何も出来なかった自分は、
    初めて体験する 大きな揺れと、被災者支援に、これは私に与えられた使命と勝手に思い、
    何もわからない中でも必死でした。
    この内陸地震をきっかけに、普段の暮らしの中での減災意識を高めていきました。
    今年24歳になる息子がいます。当時小学校6年生の息子の卒業記念旅行と内陸地震を「忘」れないよう、中学に入る前に、次の災害に備え減災を学ぼうと、息子と二人で 平成23年1月16日~2泊3日で神戸を訪れました。 そして、平成23年1月17日の 午前5時46分に
    三宮の東遊園地の追悼式で手を合わせました。 その時の竹灯篭には「伝」えようとの文字。
    もしもの災害に備えようと出かけた神戸市。それから2か月後にあの日を迎えることとなりました。 
    今、横浜で暮らす24になった息子。 宮城を離れる時に親として言ったこと、  
    宮城県民として「忘」れない 「伝」えて。 それも少しでも減災に繋がると思っています。

  3. いくこ より:

    27年前どんな日だったか、そして昭和53年、北海道、秋田沖、新潟、その日のことを思い出します。私は先生がそのように考えて行政の立場でいらしてくださったことを、全く知らずこうしてご縁を得て知ることが出来ました。誰かの誠実さ思いやり、存在しないのではなく知らないということ心にとめていたいと思いました。
    27年前に生まれた娘の卒業式の日が震災でした。走り回っていた近所の子ども達が子どもを抱いているようになり、雪かきや歩道の掃除をしていたおじさま方は体調を崩されるようになりました。いつも誰かがしてくれていたから、おだやかに暮らしてきたのだとあらためて思っています。
    誰かの誠実さと思いやりに感謝して、今度は私ができることをしていきたいと思っています。

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