毎朝の作務

毎朝の作務。猫の額ほどの庭や自宅周りの雑草取りをする。毎朝とっても翌朝にはまた葉を出しているのがドクダミだ。雑草と一括りにしていたが、「ドクダミ」は、何と薬草としても用いられてきたとのこと、知らなかった。

ドクダミは、多年生の草本で、全草にアルデヒド由来の特有の臭気がある。地下に白い地下茎が深く伸び、盛んに枝分かれして繁殖する。抜いても抜いても生えてくる生育旺盛で、厄介者扱いされる事の多い植物。しかしドクダミは昔から親しまれ、暮らしに役立つ万能薬草なそうです。ドクダミはニオイも独特なので毒がありそうと思いますが、じつはその逆でドクダミの名前は「毒矯(どくだ)み」毒を抑えるという意味に由来するといわれています。十種類の薬効があることから「十薬」とも呼ばれ、古くから民間治療薬として重宝されてきました。他にもドクダメ(毒溜め)、ギョセイソウ(魚腥草)、ジゴクソバ(地獄蕎麦)とも呼ばれているようです。

また、ドクダミは根が深い。茎の途中から切れてしまい、根を抜くことは殆どできない。根こそぎ抜かせないという、これも彼らの種を残す戦略なのでしょう。我々の暮らしの中に起因する様々な課題でも、同じようなことがある。根の深い課題や浅い課題。根の浅い課題は、比較的早い段階で対処すれば簡単に対応できる。しかし、根の深い課題は、なかなか確信に届かず、途中で深いとことにある課題を残したまま切れてしい、我々に容易にはその全容を見せてくれないものです。こんな時はどうするか、ひたすら寄り添い、小さな芽が出た時点で摘むようにする、すなわち問題が大きくならないうちに対処する。これの繰り返ししかないようです。

そんな雑草や落ち葉を取るために、しゃがんではたち、たってはしゃがむ。立ちくらみすることもしばしばです。このような姿を繰り返しながら家の周りを這いずり回る。こんな姿を思い浮かべて、気づいたのです。これは「五体投地」だと!五体投地とは、五体すなわち両手・両膝・額を地面に投げ伏して、仏や高僧などを礼拝することで、仏教においては最も丁寧な礼拝方法の一つとされ、対象への絶対的な帰依を表します。

歩行瞑想というのがある。私の作務のイメージはこれです。瞑想というと座禅を組んで目を閉じて行うものをイメージする人が多いと思いますが、歩くことや食べることに集中する瞑想もあります。歩行瞑想では、歩くことに徹底的に集中することで心を「現在」に置こうとします。「今、この瞬間」に集中することで妄想から遠ざかり、煩悩から解放されることを目指すのが歩行瞑想です。

この歩行瞑想は、禅語の「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」に由来していると考えられています。この言葉には「歩くという、私たちが日常的に当たり前のように行っている行為も立派な修行なので、一瞬一瞬にしっかりと集中しましょう」といったニュアンスが含まれています。雑草取りという作務をひたすら黙々とやる。これは、歩行瞑想と似ていると思ったのです。

雑草との戦いは「五体投地」で聖地に向かうチベット僧を想起させます(思いっきり大げさですが!)。それに、日々の生活に於ける課題とも向き合い方を教えてくれる。やはり、草取りは修行だ。私は、こんなことを考えながら、草むしりをしているので、歩行瞑想の域には全く到達できないのですが、雲水は何を考えながら作務をしているのだろう。

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