講座名保健体育第13講『第二次世界大戦末期の悲惨な状況』
第二次世界大戦終戦(敗戦)から81年の時が過ぎました。8月は、お盆や8月15日「終戦の日」があり、政府主催の「全国戦没者追悼式」を始め、全国各地で戦没者の追悼や平和を祈念する行事・行事が行われます。マスコミは、「記念日ジャーナリズム」と揶揄(皮肉やからかい)されながらも、様々な視点で当時のことを私たちに振り替えさせてくれます。
民生委員児童委員新聞8月号をつくる際に、終戦前後のことを改めて調べてみて分かったことがありました。それは、戦死者の多くが戦争末期に集中しているのです。
第二次世界大戦(太平洋戦争)における日本軍の軍人・軍属の戦死者は、終戦間近の1944年(昭和19年)以降に全体の約9割が集中しています。太平洋戦争全体での軍人・軍属の戦死・戦病死者は約230万人とされていますが、その大半が終戦までの最後の1年半ほどに集中して発生しました。そして民間人の多くは限定された都市部に集中しています。終戦間近に戦死者が急増した主な要因としては、次のようなことが挙げられます。
①戦局の急速な悪化:サイパン島落城(1944年7月)以降、絶対国防圏が破られ、レイテ沖海戦やフィリピン決戦、硫黄島・沖縄戦など激戦が相次いだ。
②補給線の遮断と餓死・病死:制海権・制空権を奪われたことで糧食や医薬品の補給が途絶。戦死者の過半数(一説には約6割)が戦闘による直接の死ではなく、餓死やマラリアなどの戦病死。
③本土空襲と民間の犠牲:1945年に入ると東京大空襲をはじめとする主要都市への無差別爆撃、広島・長崎への原子爆弾投下、沖縄地上戦により、軍人だけでなく一般市民(約80万人)の犠牲も一気に激増しました。
戦争が長期化・泥沼化し、圧倒的な物量差の中で撤退や補給が叶わなくなった終戦直前の時期は、戦争の継続は難しく実質的に敗戦の状態にありました。しかし、東南アジアのジャングルに逃げ込み、食料の無い中餓死寸前の状態でゲリラ戦を行い、最も多くの命が失われました。
戦死者の約6割が餓死や戦病死で戦いを継続できる状態にない中にもかかわらず、日本軍が撤退や降伏を選ばず戦いを継続した背景には、「軍事的・組織的な失敗」と「精神主義・制度的縛り」という2つの大きな側面が絡み合っていたと言います。
其の一は、組織と戦略の失敗です。日本軍は「短期決戦」「補給は現地調達(闘いながら現地で食料を調達(略奪)する)」を前提としていた。また、撤退や敗北を認めない組織構造があります。
軍指導部は戦況の失敗を認めることを恐れ、「後退」を「転進」と言い換えるなど事実の隠蔽を行い、現場の危機的状況を認識しても責任回避を優先したため、作戦の中止や撤退の判断が大きく遅れました。新聞は検閲され、国民はこうした状況を知らないままでした。
其の二は、制度と精神主義の縛りです。①(「戦陣訓」と投降の禁止)1941(昭和16)年1月8日、当時の陸軍大臣・東条英機の名で出された『戦陣訓』にある「生きて虜囚(りょしゅう)の辱を受けず」という教えが徹底され、捕虜になることは絶対的な禁忌(最大の名誉汚損)とされました。これにより、降伏という選択肢が組織的にも個人としても完全に排除されました。『戦陣訓』は、日中戦争(1937年~1945年)の長期化に伴い、現地での規律維持や占領地住民に対する不正や略奪を防止し、軍の統制を立て直す目的で作成されています。②(精神力への過度な依存)「物量や兵力で劣っていても、大和魂と精神力で補える」という精神主義(精神力至上主義)が支配的でした。腹を空かせ病に冒されても「精神力が足りないからだ」と処理され、根性論で作戦が継続されていきます。③(「玉砕」の制度化)撤退や降伏が許されない結果、部隊が全滅するまで戦い続ける「玉砕」や、自爆攻撃を強いる「特攻」が公式な戦術として組み込まれていきました。良く耳にする航空機による「神風特攻隊」だけではなく、様々な特攻兵器がつくり出され、多くの優秀な若者が戦場に散っていきました。太平洋戦争末期、制空権・制海権を失った日本軍は、戦力差を埋めるために「最初から生還を考慮しない(搭乗員の死を前提とする)」専用の特攻兵器を次々と開発・投入しました。航空機(零戦など)に爆弾を積む形態から、最初から体当たり専用に設計された兵器へと移行していきました。
主要な特攻兵器は以下です。③-1櫻花(おうか)空対艦ロケット特攻機。大型飛行機に吊り下げられて目標付近まで運ばれ、切り離された後にロケットエンジンを噴射して敵艦へ高速で突入する特殊滑空機。③-2回天(かいてん)人間魚雷。九三式酸素魚雷を改造し、中央部に操縦席を設けた潜水兵器。潜水艦の甲板に積載されて出撃し、搭乗員が肉眼や望遠鏡で目標を見据えて直接体当たりしました。脱出装置はなく、一度発進すれば生還は不可能でした。③-3震洋(しんよう)特攻艇。ベニヤ板で作られた小型のモーターボートの先端に爆薬(約250kg)を充填し、夜間などに敵艦へ突撃する兵器。③-4伏龍(ふくりゅう人間水雷。潜水服を着た兵士が水深5〜7メートルの海底に潜んで待機し、敵の爆雷・着上陸用舟艇が上を通過した際に、先端に炸薬がついた長い竹竿で船底を突き上げて自爆を図る潜水特攻兵器。③-5剣(つるぎ・キ115)。木材や合板、鉄パイプなど簡素な材料だけで作られた陸軍の専用特攻機。離陸時に車輪(脚)が脱落・切り離される構造で、着陸を考慮しない設計でした。③-6海龍(かいりゅう)。翼を備え、水中で潜航・浮上を制御できるように作られた特殊潜航艇。先端に爆薬を積み、魚雷発射後の体当たり攻撃を想定していました。
海龍はその後甲標的と改良され、太平洋戦争開幕直後の真珠湾攻撃やシドニー港攻撃に使われました。大平洋戦争第一号の捕虜は、真珠湾攻撃に出撃したこの甲標的の兵士です。甲標的に乗った5隻・10名は、湾口での米駆逐艦による発見・攻撃、警戒網の突破失敗などが相次ぎ、作戦は事実上失敗に終わりました。潜航艇は全隻失われ、帰還した者は1名もいませんでした。攻撃後、大本営は「10名中9名が戦死した」として、1942年3月に彼らを「九軍神」として発表しました。
9名の遺影や遺書が新聞やラジオで大きく報じられ、ラジオドラマや映画、歌にもなって国民の戦意高揚に利用されました。「お国のために命を捧げた英雄」として、後に続く若者たちの象徴とされたのです。戦死した9名は一律で二階級特進(大尉・中尉等へ昇進)となり、合同葬が大規模に執り行われました。一方、10名のうち唯一生き残り捕虜となった1名の存在は、日本政府および軍部によって完全に隠蔽・抹消され、最初から9名で出撃した」かのように改ざんされました。遺族には、行方不明扱いにされ、軍関係者が家族の様子を監視・調査することもあり、家族は周囲からの冷ややかな視線や不安に晒され続けました。「日本の軍人が捕虜になった」という事実は、国民の士気を著しく下げる絶対の禁忌であったため、存在そのものを無かったことにするしかなかったのです。当時の日本軍には「生きて虜囚の辱を受けず(戦陣訓)」という徹底した教えがあったため、捕虜になった方は、激しい恥辱感と罪悪感から「自分を射殺してくれ」と米軍に強く要求したと伝えられています。彼は終戦までアメリカ国内の収容所で過ごし、戦後は復員してトヨタ自動車に入社。ブラジルトヨタの社長などを歴任し、戦後の高度経済成長期を支えた後、1999年に81歳で亡くなっています。
このように、軍の指導層は「敗北を認めて撤退すること」を拒み続け、個々の兵士にも降伏を禁じた結果、最前線の兵士たちは食料補給も病気の手当もないまま、死ぬまでその場に留まり続けるほかありませんでした。このようなことが、終戦末期に、飢餓などによる戦死者及び病床死を多数出したのです。
私たちは、戦争を対岸の火事のようにみています。しかし、ほんの81年前までこうしたことがあったのです。過去を消したり修正することはできません。しかし、そこから学ぶことはできます。戦争のことをみたり聴いたりすることはほとんどありません。なので、こうし振り返り、何処で間違ったのか、なぜ戻らなかったのか等々から、同様なことが起きないように、私たちはどう振る舞えば良いのかを学びたいと思っています。マスコミ等に過度に依存することなく、自分の中で考え行動に移すようにしたいものです。
ある戦争体験者が話していました。戦争は「人を人でなくしてしまう」と言っていました。私たちが極限状態に陥ったとき、いかにして人間性を侵食し「人を人でなくしてしまう」のでしょうか。その時の、私たちの心や身体そして社会性はどうなってしまうのでしょうか。幾つかのキーワードがあるようです。
「非人間化」:相手を人間と見なで、心理的抵抗感(罪悪感)を麻痺させる。指示などに依存し、個人の倫理的判断力が失われる(指示のせいにする)。
「生存本能と感情の遮断」:理性的・道徳的な思考は麻痺し、生存本能のみが支配的になる。恐怖・哀しみ・同情といった感情を自ら遮断せざるを得なくなり、結果として「他者の痛み」に鈍感になる。
「人命の物化」:命が「数値」に置き換わり、単純な数値・記号として処理される。
私たちは、東日本大震災の当事者として、このようなことを体験しています。津波による多くの死者は体育館に並べて安置されている状態を見たことがあるでしょうか。正常な感情を保つと精神が崩壊するために、無意識の中で、恐怖・哀しみ・同情といった感情を自ら遮断し、結果として「他者の痛み」に鈍感になってしまいます。そして亡くなってしまった人たちの人生を数値で数えています。私は、東日本大震災で波の飲まれたという経験はありません。しかし、食事を摂らないとこのようになるのだという体験はしました。行政ボランティアとして南三陸町に赴いたので、食事や寝床は自分で調達しなければいけないと思い、できるだけその様にしていました。特に食事の時は炊き出しを受け取らずその場を去り、自分の車などで時を過ごしたりしていました。もちろん、南三陸町に赴くに際しては、カップ麺等を大量に買い込み車に積んで向かいました。でも、貴重な火(電気)を使い水を頂きカップ麺を食べることはできなかったのです
私は被災地にいるに際して、今となって振り返ると、とても甘かったと思っています。持って行ったパンやソーセージを食べながら時を過ごしたのですが、それも簡単に尽きてしまい、それ以降は水だけの食生活をしていました。三日もすると空腹感がなくなり、少しふらつくようになりました。私を見かねた保健福祉課の方が炊き出しを持ってきてくれ、「食べないと被災者を支えられないから」と食事を摂るように促してくれました。私の人生で初めてのことでした。一個のおにぎりを奪い合う。そんな状況を見て「なんとあさましい」と感じたこともありましたが、この体験以降はその様には考えないようになりました。何とかして一口でも食べられるようにする為にはどうしたらよいのか等々に気持ちが向いていきました。私は、あのままだったら、理性的・道徳的な思考を保てられたか自信がありません。炊き出しもなくなると、上司の御家族からお弁当を頂いたりして、食はしっかり確保され、本当に有り難かったです。
こうして振り返ると、「非人間化」「生存本能と感情の遮断」「人命の物化」は、特別のことではなく、最近多くなっている大規模災害で起きうることだと思います。このこと自体が悪いのではなく、ある意味、人が通りうる道なので、このようにさえないように様々な支援や手立てを備えることなのだろうと思います。今回の「保健体」は、戦争や災害と重ねて考えてみました。



