かじってみよう社会学Ⅱ第11講『人はみなブリッ子』かも?
私たちは、何らかの役割を持って相互行為を行っています。相互行為の場では、役割をきちんと果たすように振る舞います。このことは、これまでの学びにおいても語っているので、特に異論のないところでしょう。ところが、私たちはこの役割を果たそうとする行為には、もう一つの要素を加えていると言います。其れが、今回のテーマになります。
私たちは、他者との関わりの中で、なるべく他者から高く評価されたい。そこでは、役割の遂行レベルを高める努力をします。其れは周知のことです。そしてそれに加えて、そこにはもう一つの努力が意識的あるいは無意識の中で行われています。
その、意識的あるいは無意識の中で行われている努力。それを平易な言葉で表現すれば、『相手の顔色や反応を伺いながら、自分を実際以上の存在として呈示(相手の前に差し出して見せること)し、より優れた者として印象づけようとする』と、言えます。
社会学者E・ゴフマン(Erving Goffman、1922年6月11日~1982年11月19日)は、このことを自己呈示あるいは印象操作と名付けています。例えば、それとなくちらつかせる教養、家柄、高額な収入、有名な知人や有力者とつながっている等々。その他、言葉遣いや語調、服装等、ありとあらゆることが動員されます。
無意識であれ意図的であれ、私たちの行為(振る舞い)は、幾分かの演技性を帯びて行きます。このことは、相互作用の当事者相互の関わりの中で行われることから、相互作用の全体がドラマ化し、相互作用の場は舞台と化していきます。人とひととの関わりは、いつでも『人生は舞台』という訳です。
役割を遂行する能力と演技する能力は一般的には一致しません。この為、実直に役割を遂行する人が自分の行為をアピールするのが苦手(あるいは無関心)なために、十分に評価されなかったり、逆に自己表現の上手い人が実際の能力以上に評価されたりします。こうしたことは世の常のような気がします。
ゴフマンは、こうした相互行為の二面性を『表現 対 行為』のジレンマ(dilemma)と呼んでいます。相互行為は、常に役割を遂行する側面(行為)と役割を遂行する演技をするという側面(表現)の両方は含まれます。
時として、相手に対して自己呈示しているイメージを維持するために、それと矛盾するような都合の悪い情報は隠し、都合の良い情報を積極的に与える、印象操作を行います。こうしたことは、一人で行われているのでは無く他者との関わりの中で行われます。この時、相手となった皆さんは、以下の二つの振る舞いを取ることでしょう。
其の一つは、相手の方が自分で呈示したことに、ほころびが生じないように細心の「防護的措置」を講じてあげる。ゴフマンは、防護措置の例として、気がつかなかった振りをする「察しのよい無関心」を挙げています。
其の二は、より積極的な保護措置としては、相手を「フォロー」することです。
このように具体例を挙げると思い当たることが多いと思いませんか。知っていても知らない振りする「察しの良い無関心」。こうしたことに後で気づいたら赤面ですね。役割を積極的に遂行する側面(行為)を重視し、役割を遂行する演技をするという側面(表現)『ぶりっ子』は、ほどほどにするのが良いように思います。少なくとも、私たちに行為(振る舞い)は、行為と表現の両方が含まれていることを知っておくことが大切だと思います。
人には、それぞれ生き方があります。ひたすら実直に努力することを惜しまない人、世の中は要領が大切とばかり、上手に振る舞う人。人それぞれなので、相手となる立場の時は、「察しの良い無関心」や「フォロー」という防護的措置を選んで関わり、相手の方が偏った振る舞いになるように関わってあげることが肝要なのではないかと思います。そして、その評価は、相手によって異なる場合もあります。そのような意味でも『人生は舞台』です。そして、できるだけ自分を深いところで理解してくれる人との関わりを大切にするということにもつながっていくように思います。

