100硬貨が温かい

これまで南三陸町社会福祉協議会の行う東日本大震災における被災者支援の中心的な役割を担っている「生活支援員」の振る舞いを中心に、何編か書いてきました。今日は、チョット違う視点の内容を書きます。ボランティアとの関わりについてです。

被災地では、体育館や公民館での雑魚寝状態の避難所から要約解放され、応急仮設住宅へ避難場所を移して行きました。南三陸町を例に挙げれば、応急仮設住宅への最初の入居は2011(平成23)年4月29日です。これ以降、逐次応急仮設住宅への入居が進んでいきました。南三陸町では、応急仮設住宅を町内及び隣の登米市の58箇所に2,195戸整備し、5,841人1,941世帯が避難生活を送りました。応急仮設住宅での避難生活は、2019(令和元)年12月14日迄に全員が退去するまで続きました。

発災から程なくして、南三陸町長が毎日記者会見を行い、多くもマスコミを通して南三陸町の壊滅的な状況が伝えられこともあり、「被災地南三陸町」は一躍全国に知られることとなり、地元社会福祉協議会が設置した災害ボランティアセンターの素早い対応もあり、全国から多くのボランティアや支援物資そして義援金が届きました。南三陸町民は本当に助けられました。改めてお礼申し上げます。有り難うございます。

ここで取り上げるのは、そのような中でみた、私が気になったほんのわずかな一事例です。応急仮設住宅での生活もだいぶ進んできた中にあっても、ボランティアは避難所での関わりを通じて応急仮設住宅にも足を運ぶようになっていました。物資支援、炊き出し、ケーキ付きのお茶会等々、様々な活動が仮設住宅団地で行われ、週末は極端な言い方をすると「お祭り」の様相でした。

そのような状況下で、あるとき仮設住宅団地に野菜を積んだトラックがやって来ました。トラックにはジャガイモ・タマネギ等、キャベツもあったように思いますが、沢山積まれていました。ボランティアさんは、町民に声を掛け配っていました。皆さん、思い思いの器を持ってトラックの周りに集まりました。エプロンを広げて受け取る人、鍋を持ってくる人、隣の人の分ももらっていくと一輪車に山盛りもらう人等々、様々なでした。お店の少ない南三陸町にとって、新鮮な野菜を手に入れることは難しいので、とても有り難い支援だろうと思います。

そんな中で一人のご高齢の方が、ボランティアさんとやり取りをしているので近寄ってみました。その方は、「いつまでもただでもらえない」と言いながら手に握りしめていた百円硬貨を差し出しているのです。ボランティアさんは「これがボランティアだから受け取れません」と言い、二人は何度も同じことを言い合っていたのです。結局、握りしめていた百円は受け取ってもらえませんでした。そのご高齢の方は、私の目には、少なくとも「ただでもらって儲かった、ラッキー」という感じは全くなく、なんか淋しそうな落胆した様な表情のまま自宅に帰ってきました。握りしめて温かくなった百円硬貨を握りしめながら。

他の皆さんも、「ありがとうございました」という言葉を残して、瞬く間に住宅に引き返していきました。連絡を取り合っていたのか応急仮設住宅団地の自治会長さんが最後まで残ってボランティアさんとお話しして残っていました。

私たちは、ものを「タダでもらう」何かを「対価を払わずやってもらう」ということに、少なからず、「申し訳ない」という、心になにがしかの引っかかりを感じます。災害などで、自分ではどうしようもない状況に陥ったときや哀しみ苦しみに打ちひしがれたときは、「申し訳ない」と思いつつも有り難く受け取ります。そして、何かあったときは何らかの形で「お返し」をしようと心に思うのです。

この高齢の方は、「いつまでも人様のお世話にはなれない」と語っていたように、「タダでもらう」ことに申し訳ないと、百円を握りしめて来たのです。私は、この姿に私たちが本来持っている他者との関わりの姿を感じたのです。小さい頃に一次社会化過程で学んだのかもしれない「結い」の習慣や「人様からただでものをもらってはいけない」といった親のしつけ等がこうした振る舞いに出ていたように感じたのです。

私は、「震災」という極めて悲惨な状況下にあっても、自分を見失わずこれまでの「あたりまえ」を持ち続けている姿に感動と敬意を感じました。災害などの極限状態の時は、その人の人となりが出る。この様なことも言われたりします。私は、災害などと言った非日常の場面だけではなく、あらゆる場面、機会に「本間さんらしいね!」って言われるような、そんな振る舞いを自然と行えるそんな自分になりたいと思っています。

現実には、相手にとっては全く意識もしていない些細なチョットしたことに、イライラしている修行不足の私です。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

100硬貨が温かい” に対して2件のコメントがあります。

  1. 黒かりんとう より:

    以前、町の小さな診療所に勤めていた時のある日のことを思い出しました。

    その日の勤務が終わり、残務整理をしてから帰ろうとしていた時に診療所の電話が鳴りました。電話に出てみると、訪問診療をしていた高齢女性の様子がおかしいと、ご家族からの電話でした。

    幸い、まだ医師も帰らずにいてくれたので、直ぐにその方のお宅に駆けつけましたが、診察を始める前からすでにお亡くなりになっていることがわかりました。

    先生は診察を終え、ご家族から最期のご様子を丁寧に確認し、私はエンゼルケアと言う、お亡くなりになったあとのお手当をさせていただきました。

    全てが終了し、帰ろうとしたときのことです。ご家族が封筒(多分お金?)をそっと持たせようとしてくださったのです。

    私は「ごめんなさい、受け取ることはできないのですよ」と何度かの押し問答のあげく、お戻して帰って来たのです。

    職場に戻ってから「今夜のような状況の時は、受け取った方がいいように思う。悲しみに包まれたご家族の心に、少しでも寄り添えるような気がするから」と一緒に行った医師から語られました。

    仕事上では、金品の受取りをしてはならないと言うことになっていたので、そのように医師から語られ、しばしどうしたら良かったのだろうかと考えてしまいました。

    先生の記事にあった「タダでもらうのは申し訳ない」と100円玉を握りしめ、結局、握りしめていた百円は受け取ってもらえず、そしてなんか淋しそうな落胆した様な表情のまま自宅に帰って行ったとのこと。

    それを読み、あ~、やっぱりあの医師が言ったことは正しかったのかも知れないと思いました。

    受け取らなかったことは、公務員として間違いではないけど、あの時は、最期まで尽くしたいと言う、その方の想いを受け取ってあげる、その方が良かったんだと思うのです。受け取って日赤にでも寄付すれば良かったと、今さらながら、とても後悔の念を抱いております。

    本間先生だけではありませんよ。一生修行は続くのかも知れません。

    1. ハチドリ より:

      似たような経験をした人はたくさんいらっしゃるのでは?
      よく、「気持ちです」と言うのがありますが、その気持ちに寄り添えることはとても大切なことだと言うことを改めて感じました。

      黒かりんとうさん、先生、ありがとうございました。

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