なぜ南三陸町に行ったのか

特段の理由もなく、私はなぜ南三陸町に行ったのかを考えていました。ここ数日は、パソコンを新しくしたので様々なDataを移し替えたりしていました。技術が未熟で途中で消えてしまったりしたDataが沢山出たりして頭を抱えながら、当時作成したDataを読んだりしたからなのでしょうか、改めてどのような経緯で南三陸町に行くようなったのかを思い返していました。

東日本大震災の時は、管内の市町村の被災状況把握や支援物資の配布及び沿岸部被災地への職員派遣等で忙殺されていました。定年退職まで、あと20日を残すだけの時の震災です。私は上司に「再任用して沿岸部被災地に派遣して下さい」と申し出ていました。なぜなら、被災地に派遣した職員からの報告は、「町が消えています」「行政も被災して機能低下が著しいです」等々、きわめて厳しい状況が時々刻々と報告されていたからです。

しかし、震災直後は様々な人的支援のシステムが整ってはおらす、「市町村への派遣は難しい」との返事が繰り返されるだけでした。業を煮やした私は、被災市町へ手紙を書き「行政ボランティア」の申し出をしました。理由は簡単です。東日本大震災で未曾有の被害を受けている県民が瀕死の状況下にあり、この様な時こそ公務員だろうと思ったからです。

私たち公務員は、公務員として採用され仕事に就く前に「服務の宣誓」をします。県民の祉のための誠心誠意仕事をします、と言うようなことを宣誓書に署名して読み上げるのです。40年近く公務員として県民に奉職してきて、定年だからと言って、県民が瀕死の状況に置かれている状況に背を向けて「県民の祉のための誠心誠意仕事をします」から離れるわけにはいかないと思ったのです。

直ぐに返事か来たのが南三陸町でした。当時、来て下さいと言ってくれた保健福祉課長は、だいぶ経ってから話を聞いたときには、とにかく誰でもいいから行政に精通している人手が欲しかった、と話していました。防災対策庁舎で多数の幹部職員を失った行政としては、当然のことだったと思います。

退職辞令をもらって日を置かず、1ヶ月分の食料とシュラフを積み込んで南三陸町に向かいました。南三陸町に着くと受け入れの返事をした保健福祉課長は転勤して別の方が課長になっていました。引き継ぎはされていたのでしょうが、何せ混乱状態の中で「押しかけ女房」的に行ったので、決まった仕事はなく課長補佐の隣に席を頂き、ただひたすら周りの職員の声に耳を傾けて過ごしていました。

改めて当時を思い出すと、これまでの自分には考えられないほど積極的な振る舞いだったと思います。私の知っている自分にはない私でした。そして何がそうさせたのかは、制度上は「定年」だったのですが、「この様な時こそ公務員だろう」という自分の中での公務員像は3月31日で途切れなかった、ということです。身分は行政ボランティアでしたが、気持ちは誰よりも公務員的だったように思います。

この様に、南三陸町に赴いた動機やそこでの振る舞いは、特段の気負いもなく当然の振る舞いとして南三陸町にいたように思います。それで3年ギッチリ南三陸町に腰を据えて被災者支援や町づくりに関わりました。今思うと、それ以降の大学教員の時間を含めた10年間は、思いもよらない時間で、私の記憶の中ではあっという間に過ぎた10年でした。このため、60歳から目が覚めたら70歳になっていた感じなのです。とても濃い密な10年なのですが、一方で空白の10年でもあるのです。何か変なのですが、でも実感なのです。

台風で飛ばされる前のテント生活

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

なぜ南三陸町に行ったのか” に対して7件のコメントがあります。

  1. スマイル より:

    公務員も先生も「服務宣誓式」のようなものをしますよね。その時の新鮮な気持ちや覚悟をどれほどの人がその後も持ち続けているでしょうか?本間先生は、本当に稀な存在だと思います。

    同時に、宣誓の言葉は心の奥底に沈んでいたとしても、日々の職場で、地域の方や子どもたちや保護者の方達との触れ合いで育まれて成長した先に「ああ、あの言葉はこのような意味だった」と腑に落ちる、ということが理想でもあると思うのです。

    そのために、私は地域の一員としても親としても、先生や行政に関わる方達と共に支え合って成長したいと願います。双方が同じような気持ちで手を取り合った先に、温かな社会が築かれていくと信じます。

  2. 鈴虫 より:

    「県民の祉のための精神誠意仕事をします」という服務の宣誓に、これほどまでに忠実に勤め上げられた先生は、公務員の鑑です。ありがとうございます。

    私も南三陸町の被災者支援センターに初めて足を踏み入れた日に『服務の宣誓』をさせられ(本当の使命もわからず、なんの覚悟も無い一歩でしたので)一気に緊張して掌に大汗をかいたことを思い出しました。

    私の息子も遠方で公務員をしていますが、震災時には沢山の公務員が殉職されたことを思うと親としては複雑な気持ちです。「カッコ悪くても絶対生きて」と言って送り出しました。今は毎日の無事を祈ることしか出来ません。

    有事には公務員に頼るばかりでなく、地域単位の団結によって自分達の安全を確保するよう備えておけば心強いですね。嬉しいときも苦しいときも自然に隣人と手を取り合う関係を目指しましょう。

    私も日頃から虎の目鳥の目を持って、地域に関心を寄せながら暮らそうと思っています。

  3. ハチドリ より:

    写真のタイトル「台風で飛ばされる前のテント生活」を見て、エェ!台風でタープやテントが飛ばされたのですか😅?と12年が過ぎて知りました。

    先生が南三陸町に行っていただいたお陰で、こちらに避難して来てくださった方々のサマリーをいち早く送っていただき、どこにどう回ればいいか見当がつかなかったときにとても助かりました。ありがとうございました。

    気持ちは誰よりも公務員✨
    なんだか、とてもわかるような気がします。

    1. 鈴虫 より:

      ハチドリさん
      本当なんですよ!
      台風一過の朝、無惨にも潰されたテントを見た覚えがあります、、。
      写真にある様に歯磨きをしながらセンターに向かってくる姿も蘇りました。

      1. ハチドリ より:

        歯磨きをしながらセンターに向かっていた??
        鈴虫さん、そっか・・・、どういうことかわかりました(笑)

        1. 鈴虫 より:

          あら、私ったら余計なことをお話してしまいました。先生すみません。

          テントの背景に見えるのが、被災者支援センターの本部です。

  4. いくこ より:

    今日も感謝の思いがこみ上げて泣きながら読ませて頂きました。
    ありがとうございました。

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