あの時私は!(能登半島地震から40日)

南三陸町へ行政ボランティアとして赴いていました。震災から40日頃の私は、何をしていたのか、当時記録していたものを引き出してみました。約13年前の震災から40日目頃の当時、こんなことを書いていました

『2011.04.21(第二次集団避難) 第二次集団避難の一日目。集団避難予定者は二日間で471人が予定されている。第二次集団避難は、宮城県内3市2町29箇所で約1,200人。県外は、1道4県で約4,600人分の受け皿を準備して行われた。これに対して応募したのは545人。避難決定者は、希望者多数のため第二次避難対応となった24人を除く521人となった。その後、二日間の間に辞退者が59人、辞退者分補充9人の調整を行い、避難予定者は471人となって、避難当日を迎えている。

 集団避難当日は、9時30分ことから各避難所を周り、一旦集団避難予定者をベイサイドアリーナまで集め、その後バスの乗り換えや荷物の積み込みなどを行い12時過ぎに集団避難先に出発している。第一日目の今日は、大崎市鳴子温泉、栗原市、加美町及び山形県上山市に向かい81人が南三陸町を後にした。また,町で用意したバスを使わないで自力で移動する方々は二日間で280人いる。多くは、仕事その他の理由で南三陸町に戻って来る用事があるなどの理由で自家用車利用となっている。

 集団避難の担当者は、18日の集団避難者決定から出発日の今日まで,様々な理由の変更希望やキャンセルに追われている。「第一希望から第二希望に回されたので取りやめる」「知人がいる避難所に変更してもらいたい」「鳴子温泉に変更してもらいたい」「バスから自家用車で移動したい」「既に避難所に着いている」「気が変わって行かないことにする」等々の理由に個別具体に対応している。町の担当者はこの変更に忙殺されている。』(ここまで当時の記録引用)

私の住まい兼仕事場
ガラガラの状態で集団避難先に向かうバス

私は、当日を迎えるまでに、担当者から集団避難者の概ねの様子を聞き取り、様々な課題を持って集団避難先に向かうことを知りました。特に、医療及び介護ニーズは多くの方々が該当していました。私はいたのは2階の保健福祉課です。下に保健師が中心となった係と在宅介護支援センターがあったので、そこに出向き、集団避難者の医療及び介護サマリー作成を提案しました。職員の皆さんは、忙しい様子なので基本システムは私がつくるので、了解だけをお願いしたと申し出て許可を頂きました。

そこから、仮設の診療所を廻って趣旨を説明し、集団避難者へ服薬の状況及び医療上の留意点を医師に書いてもらえるようにお願いしました。同時に、看護サマリーに相当するものは、在宅介護支援センターの職員にお願いし、介護に必要な内容をこれまでの記録を参考にして書いてもらうようにしました。その上で、避難所などを周り、集団避難者へ医師から医療サマリーをもらうように、避難所管理者に説明して周り周知を図りました。

医療サマリー及び介護サマリーを準備するのと平行して、集団避難申込書の備考欄に書かれていた内容を拾い上げ、集団避難者名簿に「特に留意して頂きたいこと」を書き加えました。

このいうにして、第一次避難では間に合わなかったのですが、第二次避難からは、避難者本人と特に留意が必要な情報がワンセット受け入れ避難先市町村に持たせて避難できるようにしました。

バスに乗り込んで、「医者からもらった書類は、着いたら保健師さんに真っ先に渡すように!」と何度も念押しをしました。自家用車に乗せられていくような方には、別途避難所にいる時に話してもらうように管理者にお願いしました。

後日談ですが、避難する皆さんは、動揺していたり、忙しく様々なことをしなければ無かったので、医療サマリー・介護サマリーは、「しまい忘れて渡せなかった」という方が多かったようでした。また、事前に避難先の役所に「特に留意して頂きたいこと」を書き加えてメールで送った避難者名簿は、文字化けして読めなかったようでした。この為、身体と情報を一緒にして避難させるという私の試みは、十分効果を果たせなかったようです。残念!。

いずれ、今回の能登半島地震でも、これから高い確率で起きることが予想されている、南海トラフ地震でも、必ず必要になるので、この様な経験をお伝えしたいものだと考えています。

災害から40日目頃、私はこの様なことをしていました。そして、集団避難で町民を見送ってからは、役場の各課を毎日廻って、集団避難先の町人に伝えたいことを聞き取り、それを一覧に再編集し、避難先に送付伝達するようなことをしていました。役場に入って、まだ20日くらいしか経っていないので「あなたはだれ?」の状況だったのですが、それでも必死に御用聞きをしたように思います。

そして、夜には、保健福祉課で寝袋に入りながら、「被災者生活支援センター」設置の設計図書きをしたように記憶しています。4月29日には第一期の応急仮設住宅が完成すると聞いたので、そちらも猶予がないと思ったのだと思います。震災から40日、南三陸町に来てから20日。私はこんなことをしていました。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

あの時私は!(能登半島地震から40日)” に対して6件のコメントがあります。

  1. ハチドリ より:

    東日本大震災の時から40日経った頃は,私のいた市では,97カ所あった一時避難所が集約された最後の一か所だった避難所(体育館)もまもなく閉鎖される頃でした。内陸部の中でも地震による被害は大きく,自宅に住めない方々もたくさんおりましたが,プレハブの仮設住宅の建設はしないで,みなし仮設住宅として既存の公営住宅やアパート等を借り上げての生活が始まっていきました。

    最近,当時のことをまとめた資料を読み返してみたのですが,沿岸部の方々の二次避難として,ピーク時は,南三陸町を始め,女川町,東松島市,石巻市,気仙沼市の方々を58カ所の施設で1,206人の方々を受入れしていたようでした。

    『事前に避難先の役所に「特に留意して頂きたいこと」を書き加えてメールで送った避難者名簿は、文字化けして読めなかったようでした』とありますが,私の記憶では,当市にはその名簿はファクシミリで届いたと思います。被災市町から直接だったのか,保健福祉事務所を通してだったのかは記憶がないのですが,文字化けはなく,そこには持病を抱えた高齢者の方や障がいをお持ちのかたのことが書かれていたので,「温泉旅館の部屋で過ごせるからと言って手放しで喜べない」と思い,先のコメントに書いたような行動に即移ったのでした。和室で布団で寝ていた要介護の方がいましたが,知り合いだったケアマネジャーに連絡をし,介護保険でホテルにリクライニングベットを手配してもらったり,そこからディサービスに通ってもらった方もいましたが,「忙しくてそんなことまでできない!」と断られたこともありました。その時は,確かに・・にと思うと同時に,とても複雑な心境だったことも。

     長丁場となる当市民の被災者のみなさんと沿岸部の被災者のみなさんの所に訪問して体調などの確認をしてもらうスタッフが必要と考え,募集を始めていました。

    1. ハチドリ より:

      先生がやってくれた医療・介護サマリー、あの状態でそれを作成したのはとても大変だったと思います。よくぞ思いつき、まとめてくださいましたね。しかも着任してすぐにですよね。すごいなと思います。

      残念なことに『避難する皆さんは、動揺していたり、忙しく様々なことをしなければ無かったので、医療サマリー・介護サマリーは、「しまい忘れて渡せなかった」という方が多かった』とのこと。
      プラス、遠慮もどこかにあったのかもしれませんね。

      避難者自身に伝えるのと同時に、二次避難所のある行政にも「サマリーを持たせるので声をかけてください」と一報いれることも必要かもしれないと思いました。

      でも何度も書きますが、単に名簿だけでなく、そこに持病や障がいのことが記されたものが当市にも届いてとても参考になりました。あれは本間先生が作成されたものだったのかもしれませんね。きっとそうかと!

      あの時は本当にありがとうございました。

      1. 鈴虫 より:

        本間先生が出来る限りの情報を避難先に持たせたかった気持ち、他所の土地で不安が少しでも軽減させられるように、同時に、町は貴方がたを放り出したのではないことを伝えたい想いも代弁して下さっていたのではないかと、その精一杯の配慮に心から感謝いたします。
        そして、その情報をもって二次避難先で避難者のもとに駆けつけ親身になってお話を聴いて下さったハチドリさんはじめ行政の方々に、不安しかなかったみなさんがどれだけの安心を頂いたことか、本当にありがとうございました。
        あの混乱期に地元行政ではどうしても手の回らないところに、心ある人々を派遣して下さった行政間の連携に、結局は人と人の繋がりなんだと心強さを感じました。

        私は仮設住宅の訪問活動のなかで鳴子温泉から町に戻った方々から聞きました。
        当時、温泉場に二次避難することに周りからは「美味しいものを食べて、毎日温泉につかれていいこと」と皮肉を言われ、被災して先の見えない町に背を向けて逃げるような、うしろ髪を引かれる想いだったそうです。
        ところがその現実は、「当てがわれた部屋を汚してはいけない、地元のみなさんに迷惑をかけてはいけない」と肩身の狭い日々だったと。
        地元の方々からはご親切にして頂き、ブルーベリー狩り等を楽しんだこともあったそうですが、町の惨状が頭から離れることはなく素直に楽しめなかったと多くの方々が語っていました。

        それぞれに何処でどの様に日々を送っていても、失った家族、愛着の深い自分の家、町がもう其処にはないという事実は消すことが出来ません。
        今後も被災者支援を考える時、その人々がそれぞれに重い十字架を背負っていることを忘れてはいけないのだと思います。
        その上で、細くても長く心を寄せていけるようにしたいものです。

        今回のご報告の様に、その時私はどうしたかを記録しておくことは後世の安心安全に繋がる重要なことと今更ながら感じています。

  2. 鈴虫 より:

    その頃私の周りでは、何処の仮設住宅に入りたいかという話題でざわざわしていました。
    何故かというと、どの家でもそれまで何をするにも決定権を握っていたおじいさんから息子夫婦へと、家長の世代交代が進んでいたからです。
    そのため、家族が分散して世代ごとに避難先を求めることも多く見られました。
    現役世代は仕事の復興を目指して、あるいは子供達の学校のために此処へ残り、親世代は病院受診に不便のない所へと一旦町を離れて行ったようでした。

    この様なニュースを聞いても、私は震災を経験したことで、人の運命の明暗をわけるものは神のみぞ知るだと考える様になっていましたので、それぞれの家族がよくよく考えて出した結論を尊重することが良いのではないかと受け止めていました。

  3. スマイル より:

    被災地に入って、全神経を集中させやるべきことを見つけ出し、ありったけのエネルギーを注いでできることに手を尽くした様子がとてもよくわかりました。みなさん、どれほどありがたかったでしょう。でもきっと、そのありがたさがわかったのはずっと後になってからだったかもしれませんね。それどころではない日々だったこともよくわかりました。

    『後日談ですが、避難する皆さんは、動揺していたり、忙しく様々なことをしなければ無かったので、医療サマリー・介護サマリーは、「しまい忘れて渡せなかった」という方が多かったようでした。』という一文がすべてを物語っていると思いました。命にもかかわるものであっても、それどころではない混乱ぶりが伝わってきて胸が締め付けられます。

    能登もこの寒い季節に同じような混乱の中にあるのだと思うと、いっそう胸が締め付けられます。

    大災害を繰り返す日本、その経験が後の災害の2次被害を少しは防いでいるのかもしれませんが、もっともっと「教訓を生かす」「自分事として考える」「想像力を働かせる」ということを心掛け、被害を最小限にとどめられるようでありたいとあらためて思いました。

    貴重なお話をありがとうございます。

    1. ハチドリ より:

      スマイルさん,『大災害を繰り返す日本、その経験が後の災害の2次被害を少しは防いでいるのかもしれませんが、もっともっと「教訓を生かす」「自分事として考える」「想像力を働かせる」ということを心掛け、被害を最小限にとどめられるようでありたいとあらためて思いました』
      まったく,同感です。
      そのためにも,平時のときからの学びや訓練がとても大切になってくると思っています。

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