プチ誕生秘話(保健センター再建)

東日本大震災で八幡川沿いあった保健センターは被災して使えなくなり、健康診査(健診)事業の実施はなかなか難しい状況に有りました。それでも保健師や栄養士は何とか頑張って学校を間借りするなどして行っていました。しかし、学校が再開するようになるといつまでの学校を間借りするわけにはいかず、今後どのようにして町民の健康を守っていくか頭を悩ましていたのです。

南三陸町保健福祉課には、ユニセフの方々が出入りし、健診に関する支援をしていました。健診で使う測定器等々の要望を聞き取り、それを整える等の支援を行ってくれていました。どのような経過か忘れてしまったのですが、ユニセフの担当者が町の保健活動の現状を聞き取りに私のところに来ました。

その際、現在の南三陸町では、健診に関わることで最大の悩みは、「健診を行う場がないこと」だとお話ししました。現在は、学校を間借りして行っているが、学校の再会も視野に入ってきているので、いつまでも間借りしているわけにはいかない。加えて健康不安を抱えている人たちが増えているので、じっくりお話しを聴く場所が必要だと訴えたのです。そして何より急がなくてはいけないのが「母子保健」にかかわる健診・相談事業だとお話ししました。

他の成人保健事業は、ある程度先送りができます。しかし母子保健に関わる健診は「月齢」で行うので、先送りはできないのです。これは、県庁に勤めていたときに母子保健の班長をしていたときに学んだことです。

この様なことをユニセフの職員に訴えたのです。健康診査の測定器具とは全く異なる要望だったので、その職員は面食らった感じで「持ち帰ります」と語り、その場は終わりました。

1ヶ月程経ってからより具体的な事業計画を知りたいというメールが入りました。直ぐに町の担当者に連絡し、建物の規模の聞き取りを行い、単線の設計図を書きたいと思いました。そこで、以前、介護保険施設を整備するときに一緒に勉強をした一級建築士高橋美紀さんに相談しました。無償、至急、積算付き設計図のお願いです。彼女は一つ返事で南三陸町に駆けつけてくれて、保健師と栄養士から保健センターに求める部屋数や広さそして配置等々を直接聞き取り、ラフスケッチをその場で描きながら担当者の考えを聞き取り、設計の下となる情報を掴んでくれました。1週間も経たない時間で3案を作ってくれました。

その設計図と事業費を下にしてユニセフに再度要望書を書いて送りました。集団避難先になっていた登米市にある旧嵯峨立小学校を訪問していた時です。電話が入り「お話しを進めるので打合せをしたい」というものでした。

こうして南三陸町保健センターは、事業費約1億円で整備されることになったのです。この建物は、南三陸町役場が新築されるまで使われ、新築後は、南三陸町被災者支援センターとして使われました。従来のプレハブの仮設事務所から本格的な建物で被災者支援事業が進めることができるようになったのです。

南三陸町に行って付近を通りかかると、当時のことを思い出しますが、時の流れは様々な景観を変え、被災者支援というのは「過去」になって消えつつあります。私は、それでいいと思っています。と、同時に、被災時にどう振る舞ったかは、平時の備えや平時の地域づくりにも役に立つのではないかと思い、こんな風にして書き残しておくのもいいかなって思っているのです。

被災した保健センター

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