今週の一枚(能登半島地震)

2月25日(日)から能登半島地震のボランティアを兼ねて現状把握に石川県に行ってきました。金沢市にベース基地を据えて、七尾市、門前町、志賀町、能登町、輪島市に行きました。石川県は、能登半島が日本化に突き出るように南北に長い形をしています。この為、金沢市から現地までは80㎞から100㎞あり、片道3時間の位置にあります。

道路は、志賀町付近から、陥没や隆起が著しく、至るところで応急処置の施された場所を速度を落として進みます。あらかじめ通行止めは回避したルートを選んでいるので、バリケードで立ち往生することはありませんでしたが、補修の跡が生々しい状況を横目に走っています。

早朝5時半に出発して18時頃に戻り、19時から当日の活動の振り返りと翌日の確認を行います。この時間が2時間ほど行われ、22時過ぎに寝る部屋に戻り、就寝は24時近くになるという日程でした。現地では、工事現場でよく見る仮設トイレなので、私たちは、出来るだけ使わないようにして、水分摂取を押さえる感じでした。

津波被災とは異なる現状があり、東日本大震災とは異なる支援が求められている様にも感じています。現地に入っての感想などは、改めてご報告したいと考えています。ここでは、数枚の写真を添付するに留めたいと思います。

不審車両の出入りを阻止するために高速道路1車線を止めて警察がチェックしていました。
この為、高速道路は長い渋滞が起きています。
漁港が隆起して使えない状態です。
本来、波に隠れる波消しブロック(テトラポット)が、
海底隆起で露出しています。
家屋倒壊
孤軍奮闘の指定避難所責任者(マスクを掛けた男性)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

今週の一枚(能登半島地震)” に対して3件のコメントがあります。

  1. ハチドリ より:

    先生、大変お疲れさまでした。
    行っていただき、ありがとうございました。

    能登半島地震が起きた時、また大変な災害が起きてしまったけど、東日本大震災の経験や教訓が生かされ、復旧・復興がピッチを上げて進んでいくものと思っていました。しかし、倒壊した住宅もそのままの所が多いようですね。

    東日本大震災の時は震災から8日めには応急仮設住宅の着工が始まり、2ヶ月後には7748戸が完成していたようです。しかし、能登半島地震から2ヶ月経った今日の時点で応急仮設住宅の完成数は300戸にも満たないとか。用地不足や人手不足が課題にあるようですが、ロシアとウクライナの戦争が始まった頃から資材も高騰になり、なかなか手に入らない状況もあるのかもしれません。

    しかし、思い出したこともあります。
    まだ数少ない建設の時に元の地域性を考えないで、手を上げた順番に入居が始まったことで、その後のコミュニティ作りが大変だったと言うことです。先を急ぎたいけど、しかしその後に起きることも(先の災害の教訓を生かして)考えていかなければならないのかなとも思います。

    志賀町に家がある知り合いから、被害のあった戸の締まらない家に住みながら、物資の調整本部の仕事に行っていると聞きました。お示しいただいた地図でどの辺りなのかがよくわかりました。

    刻々と変化して行く状況のなかで、必要とされている支援の内容の把握とボランティアの要請、そしてそのマッチングはこれまでの体験からノウハウがあるように思うのですが、そこもあまりうまくいってないようですね。
    『津波被災とは異なる現状があり、東日本大震災とは異なる支援が求められている様にも感じています』と先生は書かれていました。単に人手不足だけでもないのでしょうか。

    まだまだこれから、様々な支援が必要でしょう。私にも少しでも何かできることがあればお手伝いをさせてもらいたいと考えているところです。

    1. 鈴虫 より:

      能登地方の応急仮設住宅の完成数が300余りですって、遅い!
      日本国憲法第25条では「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とあります。
      それなのに2か月もお風呂にも入れていない人が居るという現実です。これが健康で文化的な最低限度の生活なのでしょうか。
      そんな時に、溢れる程たっぷりの湯船につかる自分にも唖然としてしまいます。
      なんとか、必要としている人々に平等に水や物資、優しさや思いやりが行き渡って欲しいです。

      東日本大震災の応急仮設住宅、南三陸町では抽選で入居したため元のコミュニティが解体してしまったと当時大きく問題視されました。
      でも、今になって思うと、あの時があったからこそ仮設住宅で結ばれた新しい交流や、大変な時期を一緒に乗り越えたという仲間意識から、震災前よりも町全体を我が町と考えられるようになったのではと思うのです。
      町民が震災によりシャッフルされ、その後、また元の(あるいは新たな)地域に帰って行った。この時、町中には縦に横に様々な繋がりが布の様に折られていたわけです。
      起こった事実は変えられない、でも人々が前向きに捉え直してみることによって悪いことばかりでも無かったのではないかと思えるのです。
      震災からの復興は、なかなかスピーディーにとはいかなくとも、今日より明日と必ず一歩ずつ立ち直れる!
      被災地のみなさん、日本国中が応援しています。どうか踏ん張っていてください!

  2. いくこ より:

    今朝のラジオで、被災地に冬山用寝袋を届ける活動をしている登山家の野口健さんが、二次避難所を出なければならない人達の行く先について、行政が支援できていない様子を語られていました。
    自らも被災されている行政の方々、それから全国に点在する被災地と呼ばれる地域の多さ、民間も含めて慢性的な人手不足、年度末を迎えて毎晩帰宅が遅い家族の姿から、もっと事務仕事をシンプルにして仕事量を減らす工夫が必要ではと強く思っています。
    遠いアプローチのお話で恐縮ですが、インボイス制度のように複雑化して事務仕事が膨らむ行政の在り方にいつも疑問を感じていて、「孤軍奮闘」という文字にそんなことを考えていました。
    遠路を足を運んで頂いてありがとうございました、頭が下がります。

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