OOC活動事例をお寄せ下さい(1月17日~1月23日迄の分)+被災体験

OOCお世話係代表いくこさんへのお願いです。

毎週水曜日は、多くの方々の「おせっかい」を投稿していただき、其れを下に交流していただく場です。それを承知でのお願いなのですが、当分の間、それに加えて「能登半島地震」について、被災地から発信される情報に東日本大震災の体験を重ねて、被災地の方々そして支援者に心を寄せて行きたいと思っています。それぞれの立場で東日本大震災とどのように関わったのかを投稿してもらいたいのです。1995(平成7)年の阪神淡路大震災から29年でもある今日は、様々な意味で、災害と向き合う大切な機会ではないかと思っての提案です。

ハチドリさんは、沿岸部被災者を内陸部の自治体として支援していました。その時の支援内容や被災者の様子、更には行政内部の葛藤など様々あると思います。また、お友達にのり養殖をされている方がいたと思います。その方にお誘いいただき投稿してもらえると嬉しいです。

また、鈴虫さんは被災当事者として、その時々の状況や感情更には其れを下にした振る舞いなどいろいろとあるかと思います。

Naritaマルシェの増田さん、鈴木さんには、内陸部の方でも多くの困難や不安をもたらしていますので、その状況等も含めて書いてもらえれば嬉しいです。阿部さんにもです。

その他様々な体験をお持ちだと思います。小学校児童だった愛子ちゃんそして泰智さんも子どもなりに何を感じていたのかを教えてください。

今日は、能登半島地震発生から17日目です。東日本大震災(3月11日発災)に当てはめると3月27日に当たります。13年前の3月27日に何を見て何を感じどう振る舞っていたのか、包括的にではなくその時点での出来事を書いてもらいたいです。それを通して、今被災地から送られてくる情報を下に、何が足りなくて何をすればいいのか等々を考えてもらいたいのです。その上で被災者及び支援者に心を寄せていただきたいと思っています。宜しくお願いします。

通常どうりのおせっかいもいただきます。宜しくお願いします。

東日本大震災から17日目の3月27日は、職場(大崎保健福祉事務所)では、昼・夜問わず支援物資が届き、管内市町村への仕分け作業をしていました。また、職員を被災地に派遣し、その様子を聞くたびに、今、しなければいけないことは何なのかを考えていました。南三陸町に派遣した職員は「大変な状況です、待ちが消えています」と驚愕の報告でした。また、逐次入る情報は、ホワイトボードに板書して共有するのではなく、コピー用紙に月日と時間を付記して内容を書き、マグネットで貼り付けました。その日が終われば、それを外し積み上げておき、後々に必ず必要となる記録用に積み上げていました。その他様々、寸暇を惜しんで対応していた時でした。

また、再任用の斡旋を全て断り、被災地に行政ボランティアに行くとした手紙を被災市町に出していましたが、南三陸町から受け入れの返事をいただいた頃でした。

公務員最後の日(2011-03-31)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

OOC活動事例をお寄せ下さい(1月17日~1月23日迄の分)+被災体験” に対して23件のコメントがあります。

  1. キャサリン より:

    私の2011年3月末

    宮城県と山形県の県境にある加美町小野田は比較的に地震そのものの影響が小さいのでね、確か10日位後には電気水道が復旧していたと思います
    地震前後のあたりが勤務先の超繁忙期でもあり普段の年でも5時間残業が連日となるもので、兎に角がむしゃらに仕事をするしかできない時期なのに休日や何なら夜間に
    食料品やら灯油、ガソリンの確保のため情報を頼り行列に並ぶ感じ
    只々『生きる』事に精一杯の日々
    ただね
    恐怖心は強くあって、
    その事は何年もココロに溜まっていて
    というのは、河北新報が届けられたり
    5日から1週間後に復旧した
    テレビ報道の世界は想像を絶する映像ばかりで何度も何度も見せつけられて
    見ざるを得なくて
    でも私の見えていない処で
    酷い体験をしている人たちがいる
    悲しい想いをする人たちがいる
    こんなにもたくさんの人たちに対して為すすべがない自分が申し訳ない
    此処にいるだけの自分が情けない
    友達が家族が親戚がどういう状態状況になっているのか
    ソレを尋ねるのが怖ろしく感じて
    何処の誰にも連絡が出来なくなっていました
    連絡出来ない
    その恐怖心は強くあって
    その事はその後もココロに溜まっていて多分影響があるような氣がします

    1. 鈴虫 より:

      キャサリンさんの「誰にも連絡出来ない」という気持ち、私もそうでした。
      今、目の前が地獄の様な景色だもの親姉弟や友達にも、もう逢えないのかもしれないと思ったのは確かでした。少しずつ落ち着いてからも長いこと連絡することが怖くて出来ませんでした。
       
      沢山の奇跡が重なり、私の家族は周りから「奇跡の家族」「次はあんた達の番だぞ」と囁かれていました。そんなことが耳に入るまでも無く、只ただ申し訳ない気持ちでした。
      夫は無事だったからこそ、みんなが海仕事にまた戻れるようにと進んで瓦礫撤去に出ていました。
      私も家族もよそも区別無く、私に出来ることを探してはやっていました。

      ある朝、施設に入所していた別家の叔父さんが亡くなったが火葬場がいっぱいで日程が決まらない、連れてくる家も無いから病院に預かってもらう。とその家の息子さんが報告に来ました。
      お悔やみの言葉と、一旦はそうかと聞いたものの「うちへ連れて来たらいい。そしてうちで葬儀もしよう」と提案して、にわかに葬儀の段取りをしました。その後、近隣市で荼毘にふされた遺骨が我が家に帰ってきて、発電機で小さな灯りをともしただけのところに別家とうちの家族だけ。それでも菩提寺の住職が来て真心の葬儀が執り行われました。

      葬儀のあと、支援物資の食糧を並べていると、そこに弘前の友達家族が車いっぱいの食べものや日用品を積んでやって来ました。庭先で再会を喜び、今の事情を説明したら荷物だけを置いて帰って行きました。
      その時の差し入れは『お赤飯』その他、手作りの惣菜、納豆や卵、くだものにコーヒーと涙が出る有り難さでした。
      葬儀に赤飯は御法度ですが、そんな時ですから皆で有り難くご馳走になりました。

      そんなこともありました。

      1. ハチドリ より:

        鈴虫さん,叔父さんの葬儀の提案のお話,私までありがたくて,思わず手を合わせたい気持ちでいっぱいになりました。
        お友達の差入れもほんとうにありがたかったですね。
        弘前の『お赤飯』は,甘いお赤飯ではなかった?きっと美味しかったことでしょう。

        1. 鈴虫 より:

          ハチドリさん
          あの当時は誰もが大変な人にそっと寄り添い、肩寄せ合いながら感謝の毎日でしたね。
          みなさんと、そしてキャサリンさんやマドンナさんとも当時の様子や、ひとりしまい込んでいた気持ちを打ち明けあえたことで、それぞれがみんな精一杯踏ん張っていたからこそこうして立ち直り、ご縁が繋がったのだなぁって感謝の気持ちになりました。
          これからは更に手を取り合って、楽しいことはもちろん、有事には広域で情報交換をしていけるものと思います。
          みなさん、どうぞよろしくお願いいたします🙇🏻‍♀️

          そうそう、あの日弘前から届いたお赤飯は、甘納豆がいっぱい入っていて甘党の叔父さんの供養にはぴったりでした。

      2. キャサリン より:

        鈴虫さん有難うございます
        確かに、あの必死で悲惨で過酷な時間の中にも温かく癒やされる温もりの交わりがあった事を思い出し、また新たにこの機会で知ることも出来て…そう、辛く悲しい事ばかりでも無かったのだと深く実感出来たことに今更ですが安堵しました
        改めて有難うございます✨

    2. ハチドリ より:

      キャサリンさんの震災時の話,初めて聴かせてもらいました。
      小野田の方も電気水道が復旧するのに10日もかかったのね。それはやはり大変な災害を同じように体験していたということだと思うんです。
      あのような未曾有の災害が起きた時は,通常なら当たり前にできることができなくなったり,またその逆で通常ならしないようなことをしていたりなど,普段では考えられないことがたくさんあったはず。恐怖心から連絡をとることもできなくなっていた・・って,それはキャサリンさんがとっても怖い,辛い思いをしていたということで,私はキャサリンさんも一人の被災者だったんだと思う。

      私は何とか実家と家族の安否が確認できてからは,あとは目の前のことをするだけで,誰かに連絡をしなきゃ・・とすら思い浮かばなかった。私の所もテレビは職場でも見れなかったから,次から次へととんでもない状況を新聞で知ったんだけど,私は,目の前のことを精一杯することで現実から恐怖心から逃れようとしていたのかもしれない。

      ガラ携も通じにくくなり,数日経って事務所の床に敷いた寝袋の中で他県の知り合いからの溜まったメールを確認。やっと返信できたら,「良かった~!」ってすぐに返信が来て,「私も心配かけていたんだ・・」とハッと思ったことを思い出しました。

      1. ハチドリ より:

        だからね、キャサリンさん!

        『こんなにもたくさんの人たちに対して為すすべがない自分が申し訳ない
        此処にいるだけの自分が情けない』

        とは、思わなくていいのだと私は思います。

        1. 鈴虫 より:

          キャサリンさん
          私もハチドリさんと同感です。

          「あなたが元気でいてくれて良かった」
          私は5月に東京から来てくれた支援者に、こう言って抱きしめられて初めて声を上げて泣きました。
          心のうちを吐き出すことの大切さに気づかせてもらった瞬間でした。

          キャサリンさん、これからはみんなで分かち合っていきましょう。

        2. キャサリン より:

          ハチドリさん有難うございます✨
          そうなんですよね
          アタマではそう考えてはいたツモリですが、今回の記載をきっかけに、ココロの奥底に澱んでいた想いが浮かび上がり、また、私に対して皆さんの体験や想いにも触れる事ができて感謝でいっぱいです
          どんな自分も話す事は『放す』ことになったようです
          コレ驚きです

    3. スマイル より:

      キャサリンさん、「連絡出来ない、その恐怖心は強くあって、その事はその後もココロに溜まっていて多分影響があるような氣がします」という文章を読み、すぐに返信したいと思いつつ、なんと声をかけていいのか、と思う日々。そう、あの経験をした人はみんな、今でも心に何らかの影響を及ぼしていると思います。自分のことだけでなく、キャサリンさんのように「知っている誰かを思って」ということの方がずっとずっと大きいこともあると思います。

      あの時、次女は小学4年生で、学校に残っていました。迎えに行き校門をくぐると校庭から号泣する声が・・・「みんな怖かったよねえ」と思って急ぎ足で向かうと、泣いていたのは次女でした。後から聞いたところ、怖くて泣いていた、というより、あまりの地震の大きさに「もう日本は終わってしまうのでは」と感じ、その時家で飼っていた「犬」と「文鳥」はどうなっただろうか?と思い浮かべたらもう号泣になっていた、とのこと。その言葉にハッとして、「ああ、そういうものかもしれないなあ」と思ったことが忘れられません。

      きっと、子どもたちの心にも何らかの影響を残していることでしょう。語り部をしている若者たちも増えてきています。この先、このような想いをする人がありませんように、という願いが災害への備えになること、備えにすることが大事なのだとあらためて私も自分に言い聞かせているところです。

      1. キャサリン より:

        スマイルさん有難うございます✨
        大人の自分ですらうまく表現出来なくなっています
        ましてや小さい方々にとってはいかばかりかと改めて胸にせまります
        いつも周りをよく感じているに違いない小さい方々のお話をたくさん聴いてさしあげたいと心に誓います

  2. 鈴虫 より:

    私の長男の嫁は小学生の時に神戸市東灘区で被災しています。昨日の阪神淡路大震災から29年の日に、そのお母さんから届いた話です。

    「あれから29年が経った今でも、震えるほどの恐怖を忘れることはありません。高台に避難して西の方角を見れば、長田の空が真っ赤に燃えていて絶望的な気持ちになりました。東日本大震災から次々と、まだ復興が完了していないのに今度は石川県です。国の対応はそれでいいのかと腹立たしい気持ちになっています」

    私は彼女の気持ちがよくわかります。自分達の被災体験から何を学んできたのか、ちゃんと生かしてください!というもどかしさを感じるのは、何十年経とうが、被災者達の共通の想いなのですね。

    昨日のニュースでは中学3年生が集団避難する場面を映していました。親子が抱き合う別れのシーンにもらい泣きをしました。私の次男も高校入学を間近に控えていましたが、目の前の景色も高校のある隣町もあまりにも甚大な被災状況に「もう高校なんて行かなくていい、土方でもなんでも仕事をするんだ」と言った時期がありました。子供が希望を失ってしまっていた状況は、私達大人まで目の前が真っ暗になりました。それでも「今すぐには無理でも必ず遅れは取り戻せる、一年先でも必ず学校は再開するから今は辛抱しよう」と励ましていました。

    昨日のニュースは確かに明るい希望を繋ぐもので心から良かったと思いつつ、これはほんのひと握りの幸運な人達の話だということを忘れてはいけないと思い直しました。このひとつのニュースが被災地全体の事と誤解して支援の手を緩めてはいけません。私達は、最後のひとりまで希望に繋げるまで、注意深く見守り支援する気持ちでいなくてはと思うのです。どうかみなさん、私達も手を取り合って心を寄せていきましょう。

  3. ハチドリ より:

    阪神淡路大震災から29年も経ったのですね。
    あの頃に生まれたお子さんは結婚をし,新しい命を授かっているかもしれません・・などと,1.17を迎えるたびに私の中で特別な感情が去来してきます。

    さて,能登半島地震から17日が経ちました。
    東日本大震災の時の17日目は3月27日(日)でした。少し長くなりますが,このあたりから10日めくらいの出来事を書きます。

    私が勤務していた大崎市は,震災の被害は大きかったものの,避難所も大きな体育館ひとつに集約され,3月末には,4月に向けて乳幼児健診などの通常業務ができる体制ができていました。
    そしてその頃入って来た情報が,『4月に入ってすぐに沿岸部で被災した人たちを二次避難所として鳴子温泉地域のホテルや旅館で受け入れる』ということでした。最初私は,「それはいいね」と単純に喜んだのですが,おいでになる予定の方々の名簿を見せていただいたら,高齢者の人が多く,障がいを持っている人もいらっしゃることがわかりました。

    すぐさま,「ん~!知らない土地で過ごすということは,不安や困りごとが出てくるはず!」という想いがこみ上げてきて,「その二次避難してくる人たちお一人おひとりに会わせてもらい,身体面の他に困ったことや必要なことがないか確認させてほしい」と総務部長に提案!即,OKをいただいたのでした。そこから4/1(土)・4/2(日)の2日くらいで聴き取り用のシートの作成や他に必要なものを準備し,4/3(月)に第一陣の皆さんが到着した次の日あたりから,大崎保健福祉事務所の保健師の協力ももらい,ニーズ調査を開始しました。

    困ったことで一番多かったのが「医療機関がわからないこと」だったので,ただちに鳴子地区の地図に医療機関を載せたマップを作成したり,人工透析の必要な人には近い病院の情報提供を行ったりしました。

    津波で母親を目の前で亡くし,声が出なくなっていた女の子がおばあちゃんといましたが,その子には,こころのケアセンターから継続した訪問をしてもらったりもしました。

    とても印象に残っているのは,沿岸部の避難所の時は大勢の皆さんと一緒に認知症のお義父さんと過ごされていた女性。「温泉旅館で落着いて過ごせるかと思っていたけど,一つの部屋で二人で過ごさなければならないなんて・・」と泣きだしてしまったのでした。
    しかし,3月末の段階で『介護施設では,定員を超えても受入れ可能』という国の通知が入っていたので,近くにあった認知症高齢者グループホームに相談し,受け入れてもらうことができました。(ドタバタの最中,その通知のことを認識していなかった介護課の職員とちょっとした衝突もありました。あの頃は命が優先で次々に舞い込む出来事に急いで対応していたのも事実で,私が無意識に僭越なこともしてしまっていたかもしれません。結果オーライではありましたが,説明はちゃんとしたほうがあとあと面倒にならなくて済むな・・とちと反省もしたのであります!「お~い,I君,あの時は勝手なことをしてごめんなさいね。」聞いていないと思いますが・・(笑))

    また,「避難所にいたときに薬をたくさんもらったけど,何の薬かわからない」という高齢者が多く,タイミングよく薬剤師のボランティアチームが支援に入ってくださり,旅館のお部屋を回ってもらって薬の効能や飲み方の説明,お薬手帳も作っていただきました。

    本日,ニュースを見ていたら,能登半島地震の避難者で『高血圧の持病をもつ高齢女性が薬を飲めなかったこととストレスが重なったこともあってか脳卒中を起こして亡くなった』と放送されていました。高血圧になる人も増えているそうですが,悲しみ,寒さ,ストレス,当然だと思います。そんな中,いろいろなお薬を積んだ薬剤師チームの車数台が,避難所周りを開始しているというニュースも流れていて,少しホッとしました。薬がすべてではないけど,今はその力も借りてこの状況から少しでも乗り越えていってほしいです。

    1. スマイル より:

      ハチドリさん、震災当時にあらん限りの力を振り絞り、それだけでなく、これまで出したことのないような力までも総動員し、全身全霊で被災した方達に向き合ってくださったこと、本当に心から感謝いたします。
      そういう方達がたくさんいたことでしょう。今も被災した方達のために寒い中で同じように奮闘してくださっている方達がたくさんいらっしゃることと思います。
      この気持ちをどのようにお伝えしたらいいかわかりません。
      本間先生が、ここに被災体験を書いてくださいとおっしゃった意味がよくよくわかります。ハチドリさんの文章を読んだだけで、いろんな状況が理解できます。そして何が必要で、どこに手が足りないかどんな困難があるのかも。
      お忙しいと思いますが、思い出すことをいろいろ書いていただきたいです。今、被災の真っただ中にいる方達の役に立つことばかりだと思いますし、社会のありようなどについても考えさせられる貴重な資料となります。
      どうぞよろしくお願いいたします。

      1. ハチドリ より:

        スマイルさん、いつもありがとうございます。
        あの時、公衆電話から辛うじて実家や家族の安否の確認ができたことで、あとはここ(避難所になった職場)で頑張ろうと、今思うとしばらく不思議なくらいアドレナリンが出ていたように思います。でも、その確認がとれなかったらどうだったろうかと・・考え込んでしまいます。

        職員の中には、実家が岩手の沿岸部にあり、道路の寸断で帰るに帰れず、電話も通じない中で頑張っていた職員がいました。その職員が家族の安否がわかったのは、少し経ってテレビが映るようになったときに、避難所の様子の映像が流れ、そこで笑顔で手を振ってるおばあちゃんを発見した時でした。みんなで手を取り合って泣いたことを思い出して、また涙があふれてしまいました。

  4. マドンナ より:

    東松島市に住んでいます。

    東日本大震災の時は、発災時すぐに1台の車に乗って七人で避難しました。
    その数日前にも大きな地震があり、私達の地区の一時避難場所は地区にかかる橋の付近でした。地区で一番高い場所という事だったんでしょうが、私達は危険を感じたのでそこに止まる事なく通り過ぎ、小学校の体育館もきっと川から水が来るような気がしてもっと高台を目指しました。

    石巻の高台にある住宅地で一夜を過ごして、翌日夫が自宅を見に戻った時は45号線の道路は車で通れる状況ではなく、「住んでいた地区は津波で壊滅状態だから行けない」と言われ、自宅まで辿り着けず戻って来ました。自宅はもう無かったのですが・・

    だったら、心配しているだろう実家に行こうと思って実家に移動しました。一緒に逃げた妹家族や同業家族も行くところがないというので大崎市田尻に避難して、そこから実家の近くの避難所だった公民館に入れてもらいました。全部で20人くらい。地元の人は家が壊れたと言うより、「不安」で避難してるようでした。そこも水道電気も止まってはいたけど毛布を貸してもらって、逃げて来たままの服で過ごしてましたね。

    公民館への支援は、最初アルファ米の保存食と缶詰と水だったように覚えてます。ボランティアの近所の方がアルファ米でおにぎりを作って下さいました。夜、発電機で携帯電話の充電ができて、モバイル携帯がつながったので近くの友だちに連絡をし、何かしら届けてくれたりしてました。牛農家さんは、牛乳が出荷できないからと言って持って来てくれたり、炊き出しとかはなかったけど、災害のための保存食を食べていたと思います。2〜3日経ってからは自分達でお年寄りの方のお世話しながらトイレの掃除したり食事を作ったりしていました。一週間くらい過ぎたくらいにそこの避難所は閉鎖することになって、一緒に避難して来た友達家族と別れて、私達は実家にそのまま残る事にしました。友達家族も勿論行くところが無かったので、塩釜の仕事の取り引き先に仮住まいすると言って帰って行きました。避難所になった公民館の方等にとてもお世話になり感謝の気持ちでいっぱいでした。

    まだ断水や停電も続いていたので田尻の役場まで行って水をもらって来たり、加護坊山の頂上の水道は普通に水が出てたので洗濯しに行ったり、そんな感じで毎日歩けるところには歩いたり、車のガソリンを入れるのに並んだりしていました。

    これと言って支援は無かったかもしれませんが、何せTVも見れないから皆んながどうしてるかの情報も無い感じでした。
    新聞が唯一の情報源だったと思います。

    4月になって、少しでも自宅の近くの方にいたいと思い、空き家を友達家族と一緒に借りて一度住みましたが、『避難所にいない人は避難が完了した』と市役所で言われて、避難所に来た支援物資は何ももらえませんでした。一番最初に何かをもらった記憶は、台湾の人が義援金を持って来てくれたのを受け取りに行ったことです。

    市からの支援物資(ストーブ、冷蔵庫、洗濯機)がアパート等のみなし住宅に届くようになったのは夏くらいになってからだったと思います。仮設住宅ができて皆んなが入った後から、みなし住宅避難の私達に支援物資が届きました。

    1. マドンナ より:

      さっき、途中で送信してしまいました。

      東日本大震災の時も今回の能登半島地震でも、帰る家がなくなった人はほんとに大変な思いをしていると思います。普通に生活していたら、お年寄りだって細々と家の何かしらの事に目を配って動きまわってたと思うし、何もする事がないというのが一番大変だと思います。慣れないところを歩くだけでも疲れますよね。お年寄りにも何かできることがあるといいなと思います。

      避難所運営されてる人達は不自由がないように気を配ってくれていたと思います。私もあとで他の避難所にいた人に聞いたら、「お葬式するための礼服や靴がないと言ったらすぐ持って来てくれたり色々気遣って用意してくれた」と言ってました。
      支援物資の配り方は避難者の人数に合わせて避難所に配達してもらっていたようですが、「あっちにはあるのにこっちには届かない」とかだんだん文句も出たみたいです。
      難しいですね。

      1. スマイル より:

        マドンナさん、当時の大変な状況や体験をお伝えいただいたことに心から感謝いたします。発災時のリアルな様子だけでなく、少しずつ落ち着きを取り戻した後に出てくる様々な問題や困難についてもとてもよくわかりました。
        これらすべては、今被災している方達、それを間近で支援してくださっている方達、力になりたいと願う人たちの何よりの情報となると思います。
        このような、経験の前に、何と言葉を紡いで良いのかとなかなか文章が続きません。
        書いてくださったことを生かせることを私も考え続け、できることは行動していきます。
        いくこさんが書いてくださったように、笑顔のマドンナさんにお会いできたことが、胸いっぱいに思い出されます。またお会いできる機会があったら、いろいろ語り合いたいです。
        あらためて、経験の共有をありがとうございました。

      2. ハチドリ より:

        ひょんなことから再会でき、お家もお店も立派に再開して明るく頑張っているマドンナに再会できたこと、その後のお付き合いはとっても楽しくて、また会える日を楽しみにしている私です。13年前のことを思い出し、ここで、こんなやりとりができることが夢のようです。
        本当に良かった、マドンナ!!

    2. 鈴虫 より:

      マドンナさんの被災時の様子、時が経った今だからさらっとお話されていますがその当時の沢山の葛藤が目に見えるようです。

      個人の判断で安全な場所への避難は本当に良かったです。問題はその後ですよね、集団から離れた途端に自立出来ているとみなされ支援が届かないという現実は、きっと現在の石川県でもあるのではないかと思っています。そこに居れば一律の支援が受けられるという安心感は絶大ですもの。でも、個人でいち早く安全な居場所を確保した人にも必要な支援は届くようになって欲しいと切に願います。

      長引く停電で被災地では必要な情報がタイムリーに入りづらく、目の前の課題しか見えていませんでした。今、私達が被災地の様子を毎日見ているように、あの時も他所の人達のほうが被災地の様子に詳しかったのだろうなと、なんだか不思議な感じがしています。

      被災地からの学びが次々と引き継がれ、ひとつでも活かされていくことを祈るような気持ちでニュースを見守っています。

  5. いくこ より:

    おはようございます。
    もちろんご提案に賛成です。
    あの年、平成7年生まれの娘は平成23年の震災の日は中学校の卒業式の日でした。さかのぼれば、私自身幼稚園児だった新潟地震の日、一日の仕事を終えようとうしていた宮城沖地震の日、幾度も思い出し備えたいと思い続けています。
    先日スマイルさんが、被災され辛い思いをなさった方を思うと被害が小さかった地域の者は体験を話しにくいけれど、あえて共有したいとおっしゃって下さいました。ひとめぐり12年の時を経て未来のために様々な立場の方からのお話を伺いたいです。
    投稿はちょっと気が張るかとは思いますが、みなさんぜひどうぞ。

    1. マドンナ より:

      いくこさん、あの時の私のおせっかいは、友達家族や妹家族を実家のある田尻に一緒に避難させた事だと思っています。

      1. いくこ より:

        マドンナさん、お久しぶりです。
        呼びかけに応じて下さってとっても嬉しいです、瞬時の判断が大切なおせっかいに繋がったこと素晴らしいです。そしてその判断は日々の暮らしの中に常にあったことなのでしょうね、そのようにありたいです。私は今日も東向きの窓の前にパソコンを置いて作業をしています、見慣れたお向かいさんの風景、これが一瞬にして失われ慣れ親しんだ居心地の良い家が失われたらと、想像しただけで胸がつぶれる思いがします。
        そんな苦労を乗り越えていらしたのですね、お遍路報告会でお会いしたおしゃれで明るいマドンナさんを思いうかべています。

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