東日本大震災、その時私は(被災体験)
新年を迎えたその日1月1日午後4時ごろ、石川県志賀町で震度7の地震があり、大津波警報も出るなどして、多くの死亡者家屋の倒壊の被害をもたらし、現在懸命の救助救援活動が展開されています。
私たちは13年前に、石川県民と同様の状況に置かれていました。今、私たちが石川県に駆けつけることは出来ません。でもせめて、当時私たちは、どのような状況にあったのか、どのように振る舞ったのか等々を思い起こし、それを皆さんで共有し、今後被災県、被災者に対して何をすべきなのか、今後の備えをどうすべきなのかを考えてみたいと思います。
様々な立場の方がこのhpを読んでいます。皆さんの東日本大震災の被災体験そしてどのように振る舞っていたのかを投稿して下さい。一緒に被災体験そして関わりを共有したいと思います。
仕方のない事ですが避難生活は身を寄せた場所により、受けられる支援に格差がありました。行政直轄の大規模避難所は情報も物資も早かったようです。
個人宅で共同生活中の私達は近隣にいる16家族分の物資を中学校に受け取りに行き、各家庭から聞いた必要な物を申し出て運良く在庫が有れば頂けるシステムでした。新聞はみんなで回し読みしてと2部、1箇所に居ない私達にはそれが難しかった。また、沢山集まってくる菓子パンは毎日山のように持たせられました。(日にちの迫った同じパンを1人3個ずつ)それは有りますと断ることは出来ず、必要な物だけを頂くことは出来ませんでした。世の中の善意に感謝しつつも、必要な人に必要な分だけ物が行き渡るシステムがあればいいのにと切実に思いました。
個人宅に居る人は、それだけで自己調達できて自立していると思われがちですがそうではありません。沢山の刺激の中に居られない高齢者や小さな子供がいる家族は、集団に馴染めず避難所に行けない事情や状況がそれぞれにあるのです。東日本大震災では、そんな事もわかり、自分達と違う行動にも何かわけがあると考えられるようになったことは大きな収穫でした。
家族だけが良ければいいのではない、地域はどうなんだ、目の前の課題は何だ、私に出来る事は何だと、私はあの時からその様な想いで過ごしてきました。あの時、あの経験から生き方が大きく変わりました。毎日をより良く、あきらめずに一歩ずつ前進することを学ばせてもらった経験はとても大きいものがあります。
今現在大変な中に居る被災地の皆さんに、時間はかかっても必ず立ち直る時がやって来ることを伝えたい。必ず転機はやってくる、希望を失わずに居てくださいと心からお祈りしています。
『個人宅に居る人は、それだけで自己調達できて自立していると思われがちですがそうではありません。』
鈴虫さん,そうなんです。そのとおりなんです。
私は,このことで思い出すだけで申し訳なくて涙が出そうになることがあります。
私が勤務していた建物には,その日からたくさんの人が避難してきて,ピークで500人くらいいらっしゃいました。最初,そこでの決まりごとに「食べ物は避難してきている人の分」というのがあったのですが,次の日だったかな,「自宅にいるが食べ物をわけてほしい」と窓口にいらした方がおりました。震災直後はどこのお店も開いていませんでした。確かおにぎりが少し残っていたと思い,台所に取りに行ったときに,「あっ,避難している人ではないから一応上司に断わろう・・」とほんの数秒だけ上司と話をしていたのですが,その人は窓口からいなくなってしまったのです。私が上司と話しているのは見えていたと思うので,多分,何かいずらさを感じてしまったのだと思いました。食べ物を渡してから事後報告でも良かったじゃないか!って,ずっと後悔の念に苛まれていました。
13年になる今も,時々思い出し,あの時はごめんなさいと謝りたい気持ちでいっぱいになります。
ハチドリさんの今だに胸の痛む失敗体験は、成功体験よりも多くのことを学ぶことが出来ます。私も失敗体験が山ほどあって、その反省から学んだことがたくさんあります。
全国から様々な支援で被災地に入って下さっていた人達には、いつも有難くて頭が下がりました。だって、家に帰れば家族がいて温かい食事が食べられるのに、お店も食堂も無い不自由な被災地で黙々と仕事をしてくださる。
私達がすでに電気も通り、缶詰やレトルト食品などを利用して温かい食事が食べられるようになっても、支援者のみなさんはまだ食事も住環境も不十分で申し訳ない気持ちになりました。
私はせめてお昼の差し入れをと、時々はお弁当を余計に作って近くに居る人に食べてもらったり、家の前で作業をする人達にはコーヒーを入れて持って行ったりしました。
被災地に居る人は、いや何処にいても、そこに居るみんなで有るものを分け合うことをあたりまえの事としていけるといいですね。
『そこに居るみんなで有るものを分け合うことをあたりまえの事としていけるといいですね』
ほんとにそうですよね(^_-)-☆
3.11のあった晩,小さな商店を営んでいた住民さんはお店にあるお菓子をみんな持ってきてくれて,子供たちはとんがりコーンを指の一本一本に帽子のように被せて,笑いながら食べていたのが嬉しかったなぁ。
アルファ米も届いたけど,お湯が沸かせないから水で戻したのね。確か3時間くらい,柔らかくなるまでものすご~く時間がかかったの。それを紙コップに少~しずつわけて配りました。でも次の日には地元の工務店さんやイオンさんからたくさんのオニギリが届き,ものすご~く有難かったことを思い出します。
能登半島地震から1週間が経ちました。
安否が不明な方がまだたくさんいらっしゃいますのでとても不安な時間を過ごされているかと思います。なんとか早く見つかっていただくことを願うばかりです。
ご自宅を無くされた方やご自宅が不安な方は,避難所やご親戚等に行かれていると思います。以下,今くらいの段階で東日本大震災で経験したことから書きます。
〇公衆電話,黒電話の利用
震災後,スマホ,ガラ携はなかなか通じなくなります。今はあまり見かけなくなってしまいましたが,ガラ携で通じない時でも公衆電話からは通じました。でも,今は本当に公衆電話は少なくなってしまいました。NTTで避難所に臨時公衆電話を開設してくださると思います。
〇感染症が増えてきます。
ノロウイルス,コロナ,インフルエンザなどの感染症が発生してきます。
水も少ないとは思いますが,アルコール消毒などは備わってきつつあるかと思うので,ぜひ消毒とマスクの着用を!寒いけど,換気も定期的に行ってください。
〇避難所のまわりの駐車場で,車の中で寝泊りしている人もいるかと思います。狭い中に長時間いると血栓ができて大きな障害を起こします。車から出て適度に身体を動かしてください。
〇避難所でのルールもできてきつつあるかと思いますが,できるだけそこにいる皆さんで話し合いをして決めていただくのがよろしいかと思います。
〇常日頃飲んでいる薬などが切れたりしていませんか?体調は?
ボランティアセンターが動き始めていたら,とりあえず遠慮しないで相談してみてください。また,お医者さんや看護師さんが回ってきたら話してみてください。避難所の受付をしている職員に話してもいいかと思います。持病が悪化しないように!東日本大震災の時,薬剤師会に助けてもらいました。
知り合いの薬剤師会にも何かできないか話をしてみます。
〇介護の必要な人も上記,話をしてください。
常日頃から認識しておくといいこと
〇通電火災
スマイルさんが書かれていた「通電火災」,私はわかりませんでした。
地震が来たらまず火を消すというのは常識になっているかと思いますが,このまさかの通電火災を防ぐためには電気類のスイッチを切る,コンセントを抜く,一番はブレーカーを上げるということが大切なことでしょうか!
〇大きく揺れたらニュースは待たないでまず高台へ
私は中通りにいたので津波の体験はしていませんが,たくさんのお話を聴きました。今回の能登半島地震では揺れてからすぐに第一波が来たようですね。このことは沿岸部にたまたま遊びに行っていた人にも通じることでしょう。何度も何度も平時から呼び掛けていくことが重要だと思います。
〇最低限必要なものをリュックサックに詰めておく
冬場は特に寒さを防ぐホッカイロや薄くて軽いダウンジャケット,タオル,靴下,ペットボトルなど必要な物をリュックサックに詰めておく。どこに置いておくのがいいのかはそれぞれ考えて。私は車の中もいいのかなと思います。
とりあえず,今くらいの段階で経験したことを書いてみました。
Yahooニュースで見ましたが,近隣のホテルや旅館などの宿泊施設で、二次避難先として2500人を超える被災者の受入れが可能とのこと。
良かったです。
東日本大震災の時は約1か月後にこの受入れが始まりました。
寒さの問題,食事,トイレ,入浴・・何をとっても大変です。一刻も早く進めていただけたらと切に願います!
東日本大震災発災後は大混乱の中でも、一人ひとりが出来ることをみんなの為に行うのが日常になっていきました。
地域の男性たちは協力して瓦礫の片付けや道路の確保など、トラックや重機をもちよって整備してくれました。女性たちは家の中のことや小さな川で作業服の洗濯などがおもな仕事でした。
NPOの方々から定期的に水や野菜などを支援していただく様になると、軽トラックで一緒に倉庫からの運搬に加わりました。
この頃、自分で出来ることまで誰かにしてもらうことに慣れてしまっている自分に気がつき愕然とするのです。
誰かに依存する日常は、自分で考え自分で判断するという自律した姿から真逆にあります。だから、「水がある所までいただきに行きます、ありがとう」となったのです。
この後は何でも自主的に動くようになりましたが、それが出来る人ばかりでもないのでご近所さんのニーズを聞いたり、支援物資の中継などもしました。
ひと月位経ってから、あるNPOの方が風呂設備を近所の駐車場に設置してくれました。大きなガスボンベ2本と湯沸器付きのバスタブ2つでした。これを貸すから水と燃料は自己調達してくださいということでした。
夢にまでみたお風呂を近所のみんなで有難く使わせて頂きました。水は同じNPOから提供された給水車で町内の知らないお父さんが川から汲んで運んでくれましたが、これだけでは足りず2日置き位に軽トラで川に水汲みに行きました。瓦礫撤去には出られないおじいさんと女性で川から汲み上げるこの作業が私達には大仕事でした。
簡易銭湯は口コミで広がり色んな人に利用されましたが、よその方は小銭を持って来るのです、「ここの入湯料は水なんです。次からは水を持って来てください」と説明しました。
この様にNPOのみなさんからは自律を促す支援を見せていただき、その後の私の生き方に繋がる大きな影響を受けました。
1日の終わりには布団に入る20時頃まで、中学生から大人まで揃ってUNOで盛り上がりました。(もちろん明かりは懐中電灯ひとつ)負けた人には痛〜いデコピンが待っていた、、当時誰もスマホを持っていなかったので、これが唯一のお楽しみでした♪
東日本大震災当時のことを思い出して心に浮かぶことを書いてみたいと思います。
停電でインターフォンが鳴らないので、互いにドアを叩いたり窓を叩いたりしながら情報を交換しあったこと。家の前の道路が交流の場と化したこと。でも、それは当時も今思い出しても心が温かくなる心強いことでした。「缶詰がたまたまたくさんあったから」と届けてくれる人がいたり、同じ地域でも数軒だけ水源が違うために水が出た家の方からは「庭の水道、いつでもくんでいいから。断る必要ないから」と言ってもらえたり。こうして書きながら、人の優しさや気遣い思いやりが有事の時にどれほど心に沁みるかということを再確認しています。
電気が通った瞬間に通電火災が起こり、一軒が焼け出されてしまった時は、町内でいろんな方が集まってどうしたら助けてあげられるかを話し合いました。町内会館を仮住まいとすることを認め、洋服や子どもたちの制服、布団、必要な家電など提供できる人は提供し募金も集めました。その火災が起きたのは震災から3日後のことで、電気は通ったものの水道もガスもまだまだ復旧していない、という時期でしたが、一生懸命協力し合ったことが忘れられません。
沿岸部に家族を探しに行きたい、という人のために、ガソリンスタンドの情報を集めて伝え合ったこともありました。なにせガソリンが手に入らなかったので。
私が最も心動かされたことは、沿岸部に勤めていたためにその日のうちに両親が帰ってくることができず、子どもたちだけで過ごしていたところ、近所の人が「お母さんが帰ってくるまで家においで」と預かってくださった話をお聞きしたこと。子どもたちの不安、ご両親の不安を思うといてもたってもいられない気持ちになり、同時に「子どもたちは地域で守らないと」という衝動を感じました。
ここに書いたすべてが、震災の1年後に立ち上げた「Naritaマルシェ」に繋がっていきます。今でも当時感じた気持ちが色あせていないことを感じます。
またあらためて心からの感謝を伝えたいこととして、ガスの復旧のために、全国からガス局の方達が駆けつけてくださったことや、あらゆる方達が被災地のために尽力してくださったこと。中にはいまだにトラウマとなっている方もいらっしゃるのではないか、と思っています。大きな災害は私たちが思っているよりもずっとずっと広範囲でまた長い時間、いろんな爪痕を残すものですね。
この元旦に起きた震災のため、今も被災地に駆けつけて尽力してくださっている方達がたくさんいて、それを送り出してくださった家族の方達もそれ以上にたくさんいらっしゃることに心から感謝を伝えたいです。
救助を待つ方達が一刻でも早く救助され、避難所で不安な気持ち不便な気持ちで過ごしている方達の状況が少しでも良くなっていくことを心から祈っています。
スマイルさん
通電火災の恐れがあるため都市部でも停電が長引いたことを私はだいぶ後になって知りました。
震災から3日後に不幸にも焼き出されてしまったご家族に対してたちまち地域全体で支援出来たことが、より一層の地域力を育んだに違いありません。
その経験も重なり地域をみんなで支え合う関わり『成田マルシェ』へと繋がっていくのですね。
このお話を聞いて、スマイルさんをはじめとする成田のみなさんがその居場所を静かな情熱を持って育んでこられたことに納得がいきました。
ありがとうございました。
鈴虫さん、温かなコメントありがとうございます。
今も救助を待っている最も被害が大きい地域の方達にとっては、私がここに書いたことはかけ離れた大変さの中にあると思い、書くことをためらう気持ちもありました。でも、隣近所で助け合ってこの時期を乗り越えられそうな地域の方達には、ぜひ手を取り合っていただきたいと思い書きました。一人でも多くの支援を被害が大きい地域へ届けることにもつながります。そして暮らしはその先にも続いていくので、どのように乗り越えたか、ということがとても大事になっていくとも思うのです。
また、「通電火災」が怖いものだということを知っていただきたいとも思いました。必要な情報が届き、防ぐことができるはずの被害が起きることのないよう心から願います。
スマイルさん
書くことをためらう気持ち、よくわかります。そんな中書いてくださって有難うございます。実は私も同じくもっと過酷な状況下にある方を思えば、ためらいが無いわけではありません。その気持ちは被災直後から現在まで変わらず心にあります。
でもね、それぞれが置かれた立場で経験したことが今、そしてこれから同じ立場に立つ人の共感や備えに必ず役立つと考えるのです。
私には私の経験した事しかわからない、貴方にはあなたの、とそれぞれが一箇所に記録しておけば次世代へのバトンになるはずです。
そう信じるからこそみなさんに教えてくださいと呼びかけています。
被災状況は様々ありますが、最小の被害だから嘆いてはいけない我慢しなくてはいけないという呪縛が足かせとなり、更にはトラウマとなっていつまでも立ち直れないのではないか、、それは辛いことです。そうならないためにも事実をありのままに記録しておくのがいいのではないかと思います。
私達の小さなおせっかいが必ずや誰かの役に立つこと信じましょう。
鈴虫さん、そうなんです。多くの人は、毎日流れてくるニュースの前に言葉もなく、自分の経験を語るという気持ちになれないのではないか、ためらいがあるのではないか、と思ったので、敢えて私のその気持ちを書かせていただきました。
でも、まさに鈴虫さんがおっしゃるように、ここに書いたことは「今すぐ」ではなくても役に立つ時がきたり、備えになったりするかもしれない、と思います。
2011年に起きた東日本大震災のことを私自身は心に刻み、「今できること」をずっと行ってきました。それは消えることのない源となっていつも私を動かしてきました。いざという時に多くの人が少しでも安心して乗り切ることができるように、という想いからさらに広がって、実は災害でなくても今も社会問題は山積していて、そんな普段の暮らしから少しでも希望がある世の中にしたいと思いながら過ごしています。
被災地には雪が降っているようです。東日本大震災の後、気仙沼の友人が「マンホールの蓋がないのに雪でそれが見えにくくなっていてすごく心配だ」と言っていた言葉が忘れられません。支援を待つ人も支援に駆けつける人も、どうかみなさん守られますように、と祈ります。
スマイルさん,通電火災のこと,あまり知りませんでした。
教えていただき,ありがとうございました。
これ,とても重要だと思います。
今後,ご自宅に戻るかたはブレーカーをまずあげ,電化製品のスイッチを切る,コンセントを抜く。それから少しずつ電気を使ってみることがとても大切なことだと思います。
希望に燃えるはずの新年元旦に石川県能登地方を襲った大地震は、東日本大震災の記憶を鮮明に思い出してショックを受けました。被災地の皆さまには心からお見舞いを申し上げますと共に、必ず沢山の助けが入りますからどうか希望を失わずに踏ん張っていてくださいとお伝えしたいです。
被災地のみなさんの心と体は大丈夫か、いっときも早く陸路が開通し温かい食事と必要な物資が円滑に届けられます様にお願いしたいです。
東日本大震災の時の経験から沢山のニーズが目に見えて、直ぐにも手伝いに行きたい気持ちです。でも、今はグッと堪えてTVの情報に注目しながら祈る毎日です。
被災地では停電で自分達の身近な情報さえ入らないので混乱しました。ガソリンが手に入りづらく、また、自宅から直ぐの海辺の道路が寸断され中学校に息子を迎えに行ったのが2日後、親類が向こう側から車を出してくれたおかげでした。
学校はすでに避難所になっていて、体育館には沢山の人が居ました。息子の無事な姿に安心する私に「なんで迎えに来たの、ここでやる事があるのに」と息子は避難所運営のひと役を担っていることを強い口調で訴えてきました。でも、少ないおにぎりや物資を帰る家のある人が居て減らすわけにはいかないと連れて帰りました。
今思えば息子の言うことにも頷ける。自分が出来ることをする、出来る人ができる事をして集団避難を支えていくのです、ほんのいっときでもこれを経験出来たことは将来に必ず役に立ちます。
私達はあの当時の経験から、誰もがかゆい所に手が届く支援者になれるはずです。毎日の様々な場面で被災者に寄り添うことが出来るはずです、時を待ちましょう。
被災当時の経験から沢山のことを書き留めておきたいので、何度かにわけて書き込みさせてください。
今だからこそ私も、みなさんの経験を是非お聴きして共有したいです。そして、いつ来るか分からない災害に備えたいです。よろしくお願いします。