今週心がざわついたこと(映画『PERFECT DAYS』・図書『ノモレ』)
今年もあと数日で新たな年を迎えます。今年も皆様には大変お世話になりました。有り難うございます。私の今年一年は、漢字一文字『挑』そのものでした。この一年は、残されている時間の持ち方にも大きな影響を与えるように感じています。生き方の不器用な私ですが、どうか末永くお付き合い下さいますようお願いいたします。31日に再度ご挨拶を致します。
俳優の役所広司が「第76回カンヌ国際映画祭」で最優秀男優賞を受賞した、ヴィム・ヴェンダース監督(ドイツ)の映画『PERFECT DAYS』を観ました。東京・渋谷の公共トイレ清掃員の日々を描いた本作は、日本の公共トイレのなかに「small sanctuaries of peace and dignity(平穏と高貴さをあわせもった、ささやかで神聖な場所)」を見出した作品。清掃員の平山(役所)という男の日々の小さな揺らぎを丁寧に追いながら紡いでいます。全編に、映画のタイトルにもなっているルー・リードが発表した楽曲『Perfect Day』(1972年)が流れています。
なんてことの無いルーティーンから始まり、東京のトイレ掃除をして、終わると行きつけの小さな一杯飲み屋晩酌をして銭湯に入り、文庫分を読みながら寝てしまう。こうした何でもない日常が淡々と描かれています。
以下ネタバレがあります。これから映画を観ようとする方は読まないでください。
そこには、繋がりがあるようで繋がりがないという現実が、単調な時間の流れの中で我がことと重ねるように透けて見えてきます。最後のシーンは、主人公平山の顔の長いアップで終わります。また、幾度となくでてくる木漏れ日についても書かれています。主人公平山が、「これでいいんだ」「これでいいのか」と自問自答しつつ、最終的には・・・。
私自身、自分の限界を認めたくない自分と、これも良い人生かもという自分の葛藤があったりするので、重くはないのですが、「その気持ち分かるな~・・・」って感じて来ました。
国分拓,2018『ノモレ』新潮社.を貪るように読みました。頂いた干し芋をかじりながら、直ぐになってしまったので、芋ケンピの大袋を買い込んで、ボリボリバリバリいわせながら読みました。この本は、NHKスペシャル「大アマゾン最後のイゾラド」という、アマゾンで100年語り継がれた“再開の約束”のお話です。自分の代では果たせなかった約束が代々語り継がれ、それを受け継ぎ約束を果たそうとする、二手に分かれた一方の先住民の子孫の振る舞いを追ったものです。
結論からいえば、再会したようではあるが確証がない。なぜなら、言葉は数百年も前に使われていた言語で十分に意思疎通が出来ないことと、生活習慣や価値基準が大きく異なり、お互いの振る舞いを理解するのが難しい等々の理由で、再会という確信を得ることが出来ないままで、森の奥に入ってしまい会えなくなっているからです。書名になっている「ノモレ」は現地語で友達という意味です。安心は音を伴い、危険・怖いは音がないのだそうです。この為、敵ではないと知らせるときは「ノモレ」と大きく連呼してゆっくり距離を縮めていくそうです。このような関わりをゆっくり長い時間掛けて距離を詰め信頼関係を築いていくのです。チョットした音、例えば河を走るボートのエンジン音がするだけで森の奥に逃げ込んでしまうのです。私たちの住む世界では何でもないことが、アマゾンの奥地で暮らす彼らには、全く聞いたことのない恐ろしい音になるのです。
あとがきに、このようなことが書いてありました。彼ら先住民はこういうのだといいます。
「私は今のことしか約束は出来ない。未来のことについて約束せよというのなら百年後の約束なら出来る。私は、今とずっと後のことだけを考えている。だから、明日のことは約束できない」と。
明日の約束は、いとも簡単に忘れるのに、百年後、千年後の未来については雄弁に語る。それは、現在はいくら惨めで厳しくとも、ずっと先の未来を信じる力を持っているということなのではないか。筆者はこうかたり結んでいます。何かとても気になる言葉です。
映画の紹介ありがとうございました。見てみたいなと思っていた映画です。
ネタバレ?
いえいえ、『658km、陽子の旅』の時に比べたらこの紹介はネタバレまでとは言わないと思います(笑)
『ノモレ』、現地語で友達と言う意味とのこと。私は先生のこのホームページのおかけで、この年齢になってかけがえのない友達ができました。とてもありがたいことです。
『私は今のことしか約束は出来ない。未来のことについて約束せよというのなら百年後の約束なら出来る。私は、今とずっと後のことだけを考えている。だから、明日のことは約束できない』
なぜ、明日の約束ができないのでしょう。この本を読むとわかるのでしょうか。
私は今のことと明日のことは約束をしたい。できれば来年、再来年、10年後,20年後、30年後(95歳か~)くらいまではこうありたいと言う想いは言い続けたい。
そういう話ではないと言うことはわかるのですが、ついそんなふうに思ってしまいました。
100年後の約束、一体どんな約束なのでしょう。興味津々です。