不幸な言葉のすれ違い
このところ、12年前の東日本大震災を取り上げる記事を見る機会が多いです。24時間テレビと同じように、この時期だけ福祉に関する課題を取り上げるのと似ている感じで、少々首を捻ってしまう。でも、3.11を前にして当時の課題や今に続く課題を整理し国民に問うことは大切な事だと思うようにしています。
先日(3月7日)に東京電力福島第1原子力発電所事故の時、何があったのかを掘り下げたテレビ放送がありました(世界仰天ニュース)。以前、映画「Fukushima50」や映画の原作となった『死の淵を見た男-吉田昌郎と福島第一原発の五00日』(門田隆将,2012)で概要は知っていたので、今回の内容も、あの場面だと思い出しながら観ました。
今回のテレビ放送が切り取っていたのは、報告する側と受ける側の微妙な連れが、大事になっていく様子でした。また、曖昧な言葉のもつ「不安感」です。これを観ていて感じたのは、過度な忖度及び曖昧な言葉が判断ミスを招いているということです。報告する相手の表情や考え方の傾向を過剰なまでに意識して言葉を選んだり、断言に迷って曖昧な言葉を使ってその場を切り抜けようとすることの問題点です。
これを観ながら、南三陸町で生活支援員さんに言っていたことを思い出していました。当時、報告や記録を書くときの注意点として語っていたことです。それは「事実と感想をごちゃ混ぜにするな」ということです。事実は「事実」として報告・記述して、自分なりに感想があれば「感想」と明確に示して報告・記述することを求めました。私たちは、往々にしてこの辺を混同しがちなのです。報告・記述を下にして判断する人は、この辺がハッキリしていないと判断を誤ってしまいます。
特に、震災など緊急事態の際は尚更です。全ての現場を見ているわけではないので、報告・記述で判断をしなければ成りません。事実と感想は、判断するときにそれぞれ使い方が異なります。一般的には、事実をベースにして、その上でそれぞれの担当者の受け止め方や想いを生かします。判断に正確さを期すためには、事実と感想は区別しないといけないのです。
今回、取り上げていた東京電力福島第1原子力発電所事故の際のやり取りは、正しくここに焦点を置いていたものでした。この番組を観て、改めて当時の緊迫した中での判断の難しさと正確な情報を市民目線で提供してくれた生活支援員のみなさんの力量を振り返る機会になりました。
このことは、日常の些細な言葉遣いでも同様なことが言えるかもしれないと思っています。日本語は、それでなくとも言葉の持つ意味の範囲がとても広い言語です。これに、推測や遠慮、過度な忖度、思い込み等々が加わると、極めて不正確な表現又は受け止め方になってしまいます。私たちが普段、何気なく使っている言葉ですが、自分の言葉が相手にしっかり伝わっているのか受け止められているのかを考えながらお話しする又は話を聴くことも時には必要なのかも知れません。
東京電力福島第1原子力発電所事故2号機の爆発回避は「奇跡」としか言いようのない状況で起きています。今なお明確な解明は成されていません。この2号機に奇跡が起こらなければ、私たちも福島県民と同様に長い避難生活に喘いだかも知れないのです。決して福島県だけのことではないのです。
言葉や想いが伝わらないのはとても残念で悲しいことだと思います。
『推測や遠慮、過度な忖度、思い込み等々が加わると、極めて不正確な表現又は受け止め方になってしまいます』も、感情のある人間の現実的なことなのかとも思うのです。
自分の言葉が相手にしっかり伝わっているのか、受け止められているのかを考えられるのも、穏やかな平常心の時であるかと。
できれば、常にそのような心で過ごせるようにありたいものです。
ハチドリさんのコメントを深く頷きながら読みました。
感情のある人間ですから、すれ違ったり誤解されたり、を生みだしてしまうことは日常茶飯事だと思います。大切なのは、その後、かもしれませんね。
子どもたちのコミュニケーション能力が下がっている、特にコロナ禍を経てそれが顕著になっている、と言われているけれど、果たして「子どもたち」だけなのだろうかといつも思うんです。私たち大人が、互いに尊重し合う「対話」を交わす姿を見せることができていないということが一番大きな要因なのではないだろうか、と。
哀しい事件などを耳にするたびに、気に食わないことがあったからとすぐキレて人との関係を断ってしまう人になって欲しくないと心から思います。私たちの背中を見ている子どもたちのためにも、ハチドリさんが言うように私も「穏やかな平常心」でいられるようでありたいです。