宮城県内をくまなく車を走らせた訪問型支援員

南三陸町の被災者支援は、三つの形態の生活支援員で進められました。一般的な支援員というと、応急仮設住宅を巡回しながら被災者の様々な生活課題などの意手伝いをする生活支援員を思い浮かべることと思います。南三陸町では、こうした仮設住宅を定期的に巡回して見守りをする「巡回型支援員」は100人を超える最大で134人を雇用して、きめ細やかな対応をして来ました。このような人数を採用できたのは、町民に対して社会資源として十分やれるという視点があったからです。多くの市町村は、町民を被災者としてしか見なかったので、どこから専門職を集めてこようかと奔走したと聞きます。そのような状況にあったので設置そのものにもだいぶ時間がかかっていたようですが、南三陸町は早い段階で、そして大量の人数できめ細かな支援が行えました。

更には、昨年12月5日に書いた「高齢者の役割づくり(滞在型支援員)」でご紹介致しました滞在型支援員という制度を作っています。これは、仮設住宅に住んでいる高齢の人でも、一所懸命な人はいっぱいいらっしゃいます。また逆にどうもこのままでいたら、引きこもってしまいそうだ、生活不活発病になってしまいそうだ、と思われる人たちを意図的に滞在型支援員という役割をお願いしました。そして自分が住んでいる仮設住宅の中だけを朝と夕の二回まわります。そのような人たちを100人雇用しました。平均年齢が74歳、最高齢が82歳の高齢者が名札を付けて朝夕回って頂きました。

今日書くのは、訪問型支援員という、東日本大震災で必要になった新たな支援形態に従事する方々です。東日本大震災では、みなし仮設で避難生活をする方が非常に多くいました。その人たちもしっかりサポートする必要があるという考え方から、訪問型支援員という別の括りを作り、9名3班体制で南三陸町を離れて避難生活をする町民を毎戸訪問して、帰郷の思いを断ち切らないよう支援するものです。宮城県内については、全てのみなし仮設住宅を回りました。県外にも多くの方が避難生活をしているのですが、その人たちを訪問することはとても無理だったので、その人たちについては1ケ月に一回程度電話で訪問をしています。

当時、被災者支援の対象は、応急仮設住宅で不自由な生活を強いられている人に目が向けられ、親族の側に移り住んだり、買い物や通院に不自由しない場所でアパート暮らしする被災者は、「避難生活をしている」という視点は弱く、「自己都合」で町を離れ生活をしているという感覚で見られがちでした。こうした状況を変えて生活の場で区別することの無い支援を行う必要があると考え、9月下旬に「被災者生活支援センター運営に関する提案」(訪問型支援員の提案)を行い、その決済を受け11月下旬から試行実施(54件の訪問)し、その結果を基にして12月に本格稼働したものです。

民間賃貸住宅(見なし仮設)利用者の把握は、全国避難者情報システム、総務課への広報、郵送申し込み及び民間住宅利用申請(南三陸町及び他市町村)で把握しました。2011(平成23)年11月時点の把握では、1,007世帯(人数は情報が整っていないので不確定)ありました。

前例に無いことなので、事細かに、基本的心構え等もお伝えし実施して頂きました(別添参照)。訪問型支援員さん達が言っていたのですが、電話すると電話をなかなか切ってくれないのだそうです。いろいろと質問したり、ここの様子はどうなってるとか、そんなことを言いながら、「なかなか電話を切ろうとしないんですよ」という話をよくこの人たちから聞きました。

また、訪問時には、なかなか帰してもらえず、ついつい長居してしまうと語っていました。また、地元の言葉遣いがとても喜ばれたと語っています。「志津川に帰ったようだ」と言われた等々の報告が良く聞かれました。

町を離れ、避難生活をしている人達にとって、南三陸町から仙台市だと片道約100㎞です。この「わざわざ」家を探して来てくれたということをとても喜んで頂きました。このことは、知らない街での暮らしは如何に心細かったかと言うことです。東日本大震災では、大規模化、長期化そして広域化というこれまでに無い特徴を持ちます。訪問型支援員制度は、こうした新たな災害規模に対応する為にはとても大切なシステムであったと振り返っています。

巡回型(見なし仮設)支援員出発式(2011/12/08)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

宮城県内をくまなく車を走らせた訪問型支援員” に対して2件のコメントがあります。

  1. スマイル より:

    「見なし仮設利用者の支援」の書類、細部にわたり心配りに溢れていることに感銘を受けました。「不在時連絡票」を「ラブレター」とわざわざ付け加える、その一文だけでも、どんな想いでこの支援を行うのか(行って欲しいのか)伝わってきます。また鈴虫さんもおっしゃっているように「意識して方言を使ってください」というお願いにもそれが現れています。

    当時の本間先生の感覚、感性がすべて「南三陸町」や「南三陸町の住民」たちのために全開となっていた、という印象を受けるし、実際そうだったのだろうと思います。そういう方が「一人いる」ことと「一人もいない」ことの間に、どれほどの差が生まれることか・・・

    「一人では何もできない」という言葉もある意味真実だけれど、「一人でもやる覚悟が生み出す無限の可能性」もまた真実だと、記事を読みながら思いました。

  2. 鈴虫 より:

    みなし仮設への訪問活動が始まった頃、私は戻ってきた支援員の方々から、「訪問すれば話が弾んでなかなか帰してもらえない」と聞いたことがありました。
    それほど町からの使者を待ちわびておられたのでしょう。
    自分の居た場所が今はどうなっているのか、親しくしていたあの人達はどうしているのか、町を離れた私達を町に残った人達はどの様に思っているのだろうか。
    知りたいことが山ほどあったことだろうとその胸中を思うと胸が締めつけられます。

    私は今回初めて、見なし仮設利用者への支援についての書類を見ました。その中で『見なし仮設訪問時の留意点』の最後の一文、「意識して方言を使って下さい」に、この訪問活動の持つ意味(望郷の想いを途絶えさせてはならない)が全部集約されていると感じました。
    この訪問支援によって、たとえ今は町から離れていても、いつでも戻れる、待っていてくれると思わせてくれたことでしょう。

    『ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく』石川啄木

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