被災者生活支援センター始めの一歩(「奇跡のおばちゃん」誕生 其の二)
東日本大震災の発災から1か月ほど経過した2011(平成23)年4月下旬、南三陸町で最初の応急仮設住宅に入居が始まると聞き、4月中旬には「被災者生活支援センター」の設置を被災者支援の担当課である保健福祉課に提案しました。この提案は、担当補佐の尽力により日の目を見ることになり、20人に満たない数人を先行採用しました。2011(平成23)年7月19日、生活支援員第一期生の採用及び研修が行われました。この日をもって、南三陸町被災者生活支援センターが設置されました。以降、本格採用となる生活支援員二次採用、三次採用が立て続けに行われ、8月1日から被災生活支援センターは100人体制で応急仮設住宅の見守り訪問が始まりました。
先行採用した生活支援員第一期生は、後の主任生活支援員の指導者の役割も担い、多くの新任職員の研修等の人財育成のも関わってもらいました。先に書いたように、先行して採用した生活支援員は、後の主任生活支援員(サテライト支援センターの責任者)になって頂くことを想定し、徹底的にしごき育成しました。この様なシステムにしないと100人もの新任生活支援員の育成は難しかったのです。
社会福祉協議会が職員の募集を行い、予想に反し多くの方々が応募してくれました。当時は、緊急雇用創出事業が様々な場所で行われていました。漁港再開のために行われた、漁港周辺の瓦礫撤去作業等には、一日1万円の賃金が出されるなど、大判ぶるまいとも言えるような仕事もありました。そのような仕事がある中で、時給800円程度の生活支援員に人があるのか心配されていたのです。そのような中で多くの町民が応募してくれたのです。一応、試験はありましたが、落とす試験ではなく、何とか協力して頂きたいという「採用する」試験でした。確か、不採用だったのは、一人か二人だったように記憶しています。
私は、賃金よりも南三陸町の復興に貢献したいという町民が多く駆けつけてくれたものと信じていました。しかし、現実は少し違っていたようでした。社会福祉協議会では、仕事の内容を支援物資や飲料水の配達、応急仮設住宅の見まわりと言った、特に気を遣ったり、身体に負担を感じることのないようなものと案内していました。そのようなこともあってなのか、賃金はほどほどでも比較的負担の少ない仕事だとの判断で、気軽な感じで応募していたと後々聴きました。
しかし、初任者研修が三日もあると聞いては気落ちし、更にはその研修会に参加すると「皆さんの力で南三陸町を救って欲しい」と言われます。あれ、これってなに!間違って来たかも。多くの町民が抱いたと言います。研修が始まると、新任生活支援員の顔がみるみるうちに曇り、不安感満載で目が泳ぐのが分かりました。講師をしていると、受講者の表情は手に取るように分かるのです。
一日目の研修が終わるときに、皆さんにお話ししました。「是非、明日も来てもらいたい」と。皆さんなくして南三陸町の復興はないのですとお願いしました。これまた、重荷になると思ったのですが、私の気持ちをそのまま言葉にするとこれだったのです。この研修に来た町民の現実の生活を考えれば、毎月10万余りの現金収入はとても大きかったと思います。背に腹は代えられない、そんな考えもあったのかも知れません。でも、私は日当1万円を蹴ってここに集まって来てくれた町民を信じ、彼らの南三陸町への想いにかけたのです。
研修二日目、ほとんど顔ぶれは変わりませんでした。皆さん来てくれました。あの時は、とても嬉しく、来てくれた町民に感謝の言葉しかありませんでした。しかhし、研修は、一日目に増して重くなり、申し訳ないと思いながらも手を抜かずに進めたように思います。研修の最終日に、身分証明書用の写真を撮ったのですが、これが何とも・・・。皆さん気持ちが重くなっているので、暗い顔をした顔写真になってしまいました。多分、皆さん自身は、久々に写真を撮ることになったと思います。それが、これ?って思い、きった表には出したくない写真と思ったかも知れません。みなさん、ごめんなさい。
確かに私も先生の「是非、明日も来てもらいたい」というセリフを聞きました。
それを聞いたら、益々、明日はどうしようという気持ちになって、なんと言っておいとましようか「そんなつもりでは無かったんです」と言うべきか?と、寝るまで考えるのですが、翌朝には「乗りかかった舟だから、もう1日だけ行ってみる」と言って出かけていましたね。
そうこうしながら少しづつ「やらなくちゃ」という使命感の様なものが芽生えていきました。
初めは気の重いだけの研修やグループワークも、いつの間にか前のめりになって参加できるようになり、ひとの話を聴くこと、しっかり考えること、自分の言葉で話すことを一つひとつ鍛えて頂いたのでした。
南三陸の人々に「この町や住民を自分たちでなんとかせねば」という気持ちになってもらうために、本間先生が命がけで向き合った様子が目に浮かび、手に汗握るような気持になります。心を鬼にして手を抜かずにご指導なさったことでしょう。ついていく人たちも「大変」と思う気持ちと、その「気迫」のただならなさに、心が大いに揺れたことと思います。
鈴虫さんが「もう一日だけいってみる」と日々を繋いでくださったこと、そういう人が他にもたくさんいらしたこと、胸がいっぱいになります。苦楽を共にした人たちにしかわからない絆や想いがあることと思います。本間先生がたまに私たちの住む町にいらしても、会議が終わればもう心がここになかった意味があらためてよくわかります。
本間先生と南三陸町そして住民の方達との出会いはまさに恩恵ですね。「ひとつひとつ鍛えて頂いた」と言える鈴虫さんのお人柄がどれほど地域の方達にとってありがたかったことでしょう。そのことを心にとどめ、私も地域のためにできることを心を込めてやっていこうと思います。
毎週貴重な報告をありがとうございます。
鈴虫さんも季節の変わり目、お体に気を付けてお過ごしください。
スマイルさん、コメントが胸にしみて涙が出そうになりました。
特別なことは何ひとつ出来ない私が、それを自覚したうえで、それでも何かしなければと思わずにはいられない状況だったのです。あの当時、同じ想いを強くしたお仲間達と貴重な経験が出来たことは、私の一生の宝です。あれからずっと、私のすべき事を探しながら過ごしてきました。
ちょっと想像してみて下さい。この地域には、見守りの得意なおせっかいおばちゃん達が、確実に100人以上も紛れていると思うと、なんと頼もしいことでしょうか。
季節の変わり目はココロにもカラダにも、いつも以上の「よっこらしょ」が必要な気がしています。ムリせず、いい塩梅で過ごしましょう。
お気遣い頂いて、ありがとうございました😊
鈴虫さんの『特別なことは何ひとつ出来ない私が、それを自覚したうえで、それでも何かしなければと思わずにはいられない状況だったのです。あの当時、同じ想いを強くしたお仲間達と貴重な経験が出来たことは、私の一生の宝です。あれからずっと、私のすべき事を探しながら過ごしてきました。』という言葉がすべてを物語っていますね。
「あれからずっとすべきことを探している」という言葉をお聞きして、本間先生と南三陸の方達が築いてきたことは、それぞれの人生を最後まで照らす灯りとなっているのだと心打たれるものがあります。そういう「消えない灯り」を持っている人はそんなに多くはないと思います。また「同じ想いを共有した仲間」ほど頼りになるものもないと思います。どちらもまさに「一生の宝」です。それも「棚ぼた」で得たものでなく、汗と涙を流しながら手にした「宝」ですね。
「道しるべとなる消えない灯り」と「心の支えや頼りとなる存在」を手にした100人以上もの「おせっかいおばちゃん」がいる南三陸町は、どこよりも強い地域だと思います。「そんな地域がある」ということが、今のような社会でどれほど人々を励ましてくれることか・・・ありがとうございます。
お昼休みにスマイルさんのコメントを読ませて頂きました。お弁当の味がわからない程に胸がいっぱいになりました。
私自身は、ここにある南三陸町社会福祉協議会が行った被災者生活支援センターには、1年という短い期間だけお世話になりました。家庭の事情で仕事を辞め、その後に進んだ介護の道でも、当時の経験や学んだ事の全てが、様々な場面で活かされ現在に至っています。常に、もっと、もう少しと楽しみつつ深掘りしながら今も歩み続けています。
スマイルさんが仰ってくださった『道しるべとなる消えない灯り』を消さないように、というご助言を大切に持ち続けていようと決意を新たにしています。
ありがとうございました。