トレーラーハウスからの便り
トレーラーハウスからの便り
本間照雄(平成20年大学院博士課程後期3年の課程修了 南三陸町福祉アドバイザー)
公務員生活を終えようとしていた矢先の平成23年3月11日午後2時46分、宮城県沖を震源とするM9.0の大地震が発生した。現役最後の日まで職場に泊まり込み震災対応で過ごした。時間が経つにつれ沿岸部に甚大な被害が生じていることを知り、多くの公務員が波にさらわれ行政機能が著しく低下しているとの報道には、じっとしていることが出来なかった。沿岸部市町に経歴を書き込んだ手紙を書いて支援を申し出た。すぐに返事をよこしたのが今いる南三陸町だ。
退職辞令を受けた翌日、単身赴任で借りていたアパートの片付けもしないまま、寝袋と1ヶ月分の食料を車に積んで南三陸町に入った。町では、町外集団避難という宮城県では例のない避難対策の最中だった。
認知症が疑われる、介護の継続が必須、避難先で要通院等々、飛び交う会話が気になる。気づいたときには、避難先市町にある社会資源や保健福祉関係課と連絡を取り合っていた。以降、5月中旬までは、一次から三次までの集団避難要援護者リストの作成と避難先市町保健福祉担当課との連絡調整役を担った。
集団避難に一定のめどがついた頃、集団避難した人達が置き去りになっていることに気がついた。さぞかし疎外感にさいなまれていることだろうと、町外二次避難所周りを申し出た。6月1日から県内4市町、県外2県2市に散らばる50カ所1,470人が住む二次避難所を訪問した。
「町長に協力して町を離れたのに、町から誰も来ない」「情報が全くなく孤立している」「支援物資が届かない」等々、堰を切ったように苦情が襲いかかる。めげずに、町長のメッセージ、地元に残っている町民の声、町の復旧の様子をビデオで伝えた。帰郷の想いを持ち続けられるようにしたいと思ったからだ。
町内外に建設される2,000戸を超える仮設住宅での生活が気になった。孤独死、自殺、アルコール依存等々、阪神淡路大震災の教訓があるからだ。100名を超える人員を要する被災者生活支援センター設置を提案した。現在では130名を超える職員が60カ所の仮設住宅団地を巡回し、生活相談やコミュニティづくりの支援をしている。
こんなことをしている私は、プレハブの仮設庁舎、テントを経て現在は給排水や電気のないトレーラーハウスを生活の場にし、日本の名水で歯を磨きカップ麺を主食にしている。南三陸町に来てから6ヶ月になり、社会学研究室の机が主の不在を嘆いている。先ほど「今年度いっぱい支援をお願いしたい」と言われた。この生活はもう少し続きそうだ。
毎週月曜日の南三陸町での被災者支援について書いている中で、正確な情報を書きたいと思って資料探しをしていて、たまたま見つけたので、これを掲載しています。
これは、2011/10発行 社会学研究室「同窓会報」の原稿です。
大学院に在籍していたときに所属していた文学研究科社会学研究室の取りまとめ役を担っていた長谷川教授からお話しを頂き、執筆したものです。少ない字数ですが、南三陸町でやっていくことを網羅的に簡単に書いています。この様なことがあり、仙台に戻ってから行った、復興庁「心の復興」補助事業では、社会学研究室所属の院生及び学部生と一緒に、東日本大震災の被災者支援で中心的役割を担った「生活支援員」の聞き書きを行い、『支え手になったあの日から 地域をみまもる支援員の語り』を発行(2018/03/26)しています。
このトレーラーハウスは、急遽、私に回ってきました。当時、町長もトレーラーハウスで生活していたのですが、「町長が支援されたトレーラーハウスを私的に利用している」と言うような事を言われ、おかしな話しですが、使うのを止めざるを得なくなり、私に回ってきたのです。
自分の体験を次代を担う若者に伝えられることはとても嬉しいことです。これも、大学にいたから出来たことで、とても有り難く思っています。自分が頂いた学びを時代に繋ぐことは、その場に居合わせた者の「責任」だと思っています。大学院での学び被災地で見聞きしたこと、これを生かし備えに繋ぎ、その先にある「生活文化」にする。このことは、1000年に一度に居合わせた私たちの責任だと思っています。