かじってみよう社会学Ⅱ第8講『近頃、社会学を意識する機会が増えた』
前回の第7講で、今さらだったのですが、以下のようなことを書きました。
『社会』とは、一人ひとり異なる私たち(人間)が、限られた空間のなかで共に住み暮らしていくことを可能にしている「知恵」あるいは「仕掛け」です。私たちは、「社会」を目で見ることは難しいです。そんな中で「社会」を何処で・何で見るのか。その答えは「社会とは、人々の振る舞いの中にある。人と人との間にある。人々の集まりの中にある。人々の心の中にある。そして人々の記憶の中にある」この為、社会を知るためには、時に「鳥の目」を用い、時に「虫の目」そして「心の目」を用いて、複眼的に対象と関わっていくことが求められます、と書きました。私を起点として、様々な関わりに中に社会学が存在するのです。
社会学という知(学び)の営みに乗り出すにあたり、社会と対峙する最初の一歩(現場)は、私=「自分」という場です。自分という視点をとおして感じ取る淡い実感、しかし確かな感覚を経由することで社会に出会えます。社会は「自分」から始まり、つねに「自分」に立ち戻って終わります。こうした視角を持って目の前に現れる様々な事象を見たとき、物事の見え方は違って見えてくるように感じています。
その時の感じ方は、私(「自己認識している私」)と社会との相互作用の中で形成されます。自分の判断だと思っていることが、多分に他者との関わり(社会との関わり)の中で、もっと言えば他者(社会)の影響を受けながら判断しています。時には、その様に知らず知らずのうちに『仕向けられて』います。其れが『世論』(多くの人が共有している考えや意見)という言葉で、あたかも多くの人の選択のように扱われます。しかしこの世論は、繰り返されるマスコミの報道や経済状況、風土的なものも含んだ文化・歴史等々が影響をしていることはよく知られています。
日本人の一般的な傾向として「みんなと同じだと安心する」という精神構造があります。これは、集団、即ち「社会」の中で一体感を感じ、そこに安心感を得るという考え方です。この「同調意識と安心感」は、集団の一員であることの安心感(仲間意識の強化)、異質の存在(他と違う)として扱われることへの不安軽減(孤立の回避)そして、いちいち言葉にしなくとも、説明しなくとも伝わる心地よさ(暗黙の了解)等により強化されていきます。
良く聞く「同調圧力」即ち、周囲から個人の意見や行動を一致させようとする無言のプレッシャーは上記の精神構造の負の側面です。日本では特に同調圧力が働きやすく、暗黙のうちに個人に影響を与えていると言われます。同調圧力の特徴は、集団の協調性を高め、コミュニケーションが円滑になる一方で、異なる意見が受け入れられにくい状況が生まれることです。個人的な話ですが、私はある組織の中では、常にこの「同調圧力」にさらされています(これは、ここだけのお話しです)。
日本では、特に同調圧力の高さの背景には、大きく三つの理由があると考えられています。
①「場の空気を読む傾向が強い」私たちの社会では、いちいち言葉にしなくてもその場にふさわしい言動や立ち居振る舞いをすること、即ち「空気を読む」ことが求められる傾向があります。これを踏まえないと「空気の読めない人」というレッテルが貼られてしまいます。
②「村社会の名残」かつての日本は、集落単位で生産や生活をしていました。この為、集団のしきたりや秩序に背いたものに対しては、村八分という制裁が加えられていました。現代でも、かつての村社会のように力のある人を中心とした厳しい秩序を守る社会、よそ者を受け入れない排他的な社会についてマスコミが賑わうことがあります。都会から自然を求めて田舎に移住した家族が、地域のしきたりになじめず、都会に舞い戻った例は多々あります。
③「和の文化を大切にする」日本では、集団の輪を乱さないこと、周囲と同じように行動すること等を「和の文化」と表現し重要視される傾向があります。飛鳥時代に制定された聖徳太子の「十七条憲法」第一条に「和を以って貴しとなす」という言葉が出て来ます。聖徳太子が活躍した6世紀末から7世紀初頭の日本では、豪族と呼ばれる有力者たちがそれぞれの勢力を広げようと争っていました。この為、国の基盤を固め安定させるためには、豪族たちが互いに争うのではなく、力を合わせて国を治めることの重要性を説く必要があったのです。
現在の私たちの社会は、個々人の振る舞いが良い意味でも悪い意味でも自己中心的になり、其れを持って「個性」や「多様化」ともてはやされたりします。地域社会の伝統自治組織「町内会・自治会」は、組織率が低下して、自由参加だけが強調され、共同体に於けるお互い様の組織化の必要性は、個人の自由意志の下に霞んできています。これはPTA、子ども会といった長い歴史のある地域で暮らすとき、子どもを育み守るときのお互い様の組織も同様に組織率を低下させています。
町内会では、会費を払うことに訴訟問題にも発展しています。ゴミ捨ては等については、町内会で設置しているゴミ捨て場を使えないときには、各自がしている場所でゴミを収集するのが行政の義務だと語る識者もいます。確かに町内会で設置したゴミ捨て場を使わせないという強硬手段は課題が多すぎるようには思いますが、だからといって使えない住民の指定する場所に行政が出向いてゴミを収集する様になったら「社会的コスト」や事業者の負担は計り知れないものがあります。其れを知っていて、個々人の指定する場所で収集するのが行政の責任という識者の見識を疑ってしまいます。個を大切にする余り「みんなが協力し合う」という社会の基本的姿勢を軽視するのは如何なものかと考えるのです。
この様に、私たちの判断や選択は社会との関わりの中で行われています。最近は、「個」を大切にする余り「社会の一員」である側面が弱くなっているように感じます。今、災害時の個々人毎(要支援者)の避難計画の策定が進められています。この策定率が上がらないと聞きます。私たちの暮らす社会は「遠くの親戚近くの他人」が一般化しています。さらに人口は減っていますが世帯数は横ばいです。即ち一人暮らし高齢者や二人暮らし高齢者が多くなってきています。高度経済成長期以降の「核家族化」は、夫婦二人に子どもという家族構成から、高齢者一人又は二人という構成に変えて「新核家族化」が更に進行しているのです。
こうした地域の実情を下にした災害時要支援者避難計画。暗礁に乗り上げてしまうのは目に見えています。一体どうするのか、その応えは私たち一人一人の「個人」又は「社会の一員」の意識に掛かっています。
こうして改めで現在の社会システムをみると、「私」と「社会」との関わり合いをもう少し真剣に考えてみる必要があると思います。私は、民生委員児童委員をしているので「遠くの親戚近くの他人」を実感しています。そんな中にあっても「個」が強調され「社会の一員」は浸透していません。日々、こうした現実の中で、私が学んだ社会学(福祉社会学)はどのような応えを出さなければいけないのか考え込んでしまいます。でも、腕組みをしたまま立ちすくんでいては何も進まないので、とにかく思ったこと可能性のあることは実践して、地域の皆さんに問い続けたいと思っています。おう~、新年の投稿らしく収まりました。今年も「小さなおせっかい」を積み重ねていきます。其れが、人々の考え方を判断する材料となることを期待して頑張ります。
