Hp地域福祉研究所に異変!?
風邪の抜けきらない中での投稿です。意味不明はご容赦下さい。
先週から今週に掛けて、様々走り回り曜日感覚を失ってしまい、今朝のhpの投稿を忘れてしまいました。申し訳ないです。土曜日にボランティアフォーラムから帰ってきたら、疲れと倦怠感を覚えそのままベッドに入ってしまいました。翌朝日曜日も回復せず、一日中寝て過ごしてしまいました。その様なことが有り、今日がhpアップの日だと言うことをすっかり失念してしまったのです。
今日、月曜日もパットしない気分で、何も手に着かず、何となくパソコンとアマチュア無線機に電源を入れ、モニターとノイズだらけのスペクトラムスコープをただ眺めていました。いつものクセで、hpの訪問者数や閲覧数を眺めていました。そうしたら異常に閲覧数が多いことに気がついたのです。通常、一日の閲覧数は50件程度なのですが、11月20日421件、21日433件、22日602件、23日764件、そして今日17時現在で509件です。いったい、何が起きているのか全く分かりません。
一人で多くの記事を閲覧している様に感じます。最近の記事だけではなく古い記事も手当たり次第に読んでいる感じがします。読んで頂けるのは嬉しいのですが、何か、投稿記事をチェックされているような感じもして手放しでよろこんではいられないのです。何かしら記事の内容に疑問等があればコメント(返信)欄に記載があるだろうからと、静観しています。
こうした状況に出会うたびに、自分の考えだとは言え、しっかりした記述をしていかないと行けないのだと、改めて自分に言い聞かせています。
話は変わりますが、今、私の旬は親鸞です。6月に曹洞宗総本山永平寺迄歩いて行った途中、流刑の地、越後国直江の津(新潟県上越市)で親鸞に関する様々な碑を見つけ、仙台に戻ってから親鸞に関する書籍を貪るように読んでいます。関心を持ったきっかけは墓石です。お墓に刻まれているのが全て「南無阿弥陀佛」なのです。私たちが一般的に目にするのは「〇〇〇家」と大違いで、墓地全部のお墓が「南無阿弥陀佛」と刻まれているのです。幾ら宗派が違うとはいえ、これはどういうことなのかということから親鸞に関する書籍を読み始めたのです。
東北地方は「曹洞宗」が多いようですが、流刑の地ということもあってか、新潟県は親鸞を宗祖とする「浄土真宗」一色でした。文化庁「宗教年鑑」(平成28年度版)によれば、浄土真宗(本願寺派・大谷派)1,8736寺院(信者15,841万人)、浄土宗6,913寺院(信者602万人)、真言宗3,626寺院(383万人)、曹洞宗14,716寺院(351万人)日蓮宗4,659寺院(348万人)天台宗3,337寺院(136万人)となっています。曹洞宗が身近なだけに、一番多いと思っていたのですが、浄土真宗がダントツでした。
この様なことから、なぜ浄土真宗(その下となっている浄土宗も含めても良いのかも知れない)が多いのだろうかと興味を持ったのです。この為、小説『親鸞』は三人の作家(五木寛之・吉川英治・丹羽文雄)を読み、同時並行して「歎異抄」を何度も読んでいます。ものの本に寄れば「歎異抄」を理解する為には、その下になっている浄土真宗の根本経典ともいえる「教行信証」を読まなければいけないとあり、現在は非常に多くの引用で書かれ難解な「教行信証」を手に取り始めています。
実はこの「教行信証」、50余年前に購入していた日本の名著第六巻『親鸞』に治められていました。私が就職して初めて手にした給料は、本俸23,140円で手取りは2万円を軽く切り、その内1万円は下宿代だったので、手元に残ったのは数千円だったと思います。当時、学校生協が地方の学校を巡回して様々なものを月賦販売していました。初月給は、ネクタイと日本の名著を買いました。三年くらいかかって日本の名著と世界の名著を買い揃え、現在我が書斎に鎮座しています。
50年間もの間手にすることのなかった日本の名著第六巻『親鸞』をたまたまこの時期に手にしたのです。永平寺迄の行程で出会った親鸞と50年間眠っていた親鸞に、今で出会ったのです。何とも不思議です。きっと何かがあるのでは無いかと思い、しっかり読み進めようと、現在は親鸞三昧です。古い本は、活字が薄くなっており加えてポイント数が小さい。なんとも読みづらいのですが頑張って読んでいます。歎異抄はすでに三回目です。お風呂で読んだりしているので少々ふやけ気味です。何回読んでも分からないのですが、これから読み進める「教行信証」で少しは分かるところが出てくるのではないかと楽しみにしています。
現時点での親鸞の考え方の感想ですが、日本人にはとてもあっているように感じます。特に経済的にや家庭的に苦労の多い人たちには救いになるように思います。私の第一印象は、四国八十八ヶ寺歩きお遍路で感じた天才弘法大師空海とは全く違うということでした。私なんかも、持てる物が何もない俗人そのものなので、天才空海よりも人間親鸞に惹かれます。宗教的な視点では全く読めないので、人としての生き方の様な視点で読んでいます。特に親鸞は哲学的な感じもします。私には哲学の素養がないので、そんなところも「面白い」と感じているのかも知れません。


