かじってみよう社会学Ⅱ「席を譲るあれこれ」

公園でラジオ体操や犬の散歩をしている人に、珈琲を無償で提供している団体があります。今回は、夏休み中と言うことも有り、小学生3人がお手伝いに加わり、通りかかる人たちに珈琲を持って駆け寄りお渡しをしていました。そんな中、犬を連れて散歩中の高齢者に、珈琲と作りクッキーをお持ちしたところ「ご飯食べてきたからいらない」と、お断りされ受け取ってもらえす、小学生がうな垂れて戻ってきました。それを見て何かスッキリしない私がいます。電車やバスの中でも同様に、高齢者を見て席を立った中学生に「大丈夫だから」等々といって、そのまま立っていて、中学生がばつが悪そうにしている様子を見たこともあります。

今回の『かじってみよう社会学Ⅱ』は、この様子をどのように理解すれば良いのか様々考えてみたのです。

始めに昨今のSNSに投稿された内容を拾ってみます。

質問:お年寄りに席譲るのは大事だけど、老けて見えるのってキレる人いるだろうし難しくないでしょうか?

回答:別に難しくないですというより難しく考えて「だから譲りたくない」と考えてしまうことの方が好ましくありません。こういう話があると「せっかく譲ってやっているのに固辞された。自分が恥をかいた。譲られたら座りたくなくても我慢して座れ。高齢者に席を譲ってやった自分は周りから評価されるべきだ。何故感謝や尊敬を向けないんだ」みたいな考え方をする人がいます。そして「だから席を譲る気がしない」と考えてしまうわけです。高齢者は「席を譲る側の自己満足を満たすために若い人に気を遣わなければならない存在」ではありません。

また、同様の趣旨にたいする回答には「電車の席譲るときに『どうぞ』という奴は偽善者じゃないの?自分はもうすぐ降りるから、みたいな雰囲気を醸し出して黙って席を立てばいいだけのことなのに。残念ながら、人前でどうぞといって席を譲る光景って現実にはかなり違和感ある(ID非開示さん)」。

更に「確かに妊婦とか身体障害者、病気の人など弱者のための優先席はいいが、年寄りというだけの理由で座れるような優先席は要らないのではないかと思う。気の弱い老人や年寄りは、座席を譲られると座らないと申し訳ないと思って座ってしまうかもしれないが、そこは同調圧力に負けてはいけない」。

この様な記事もあります。「高齢だから、という理由だけで優先席は要らない。50歳を過ぎたら、本当に座らなければならないほど苦しくなったときに備え、原則、電車やバスの席に座るべきではない。座らない癖をつけよ。それが自分のため、それが体力づくりのためだ。そして、自分が座っている前に若者が、なにやら疲れた様子で不機嫌そうに立ったら、すかさず立ち上がって席を譲ろうではないか。立ち上がって、次のように言うのだ。「どうぞ、お座りください。私たちがこうやって暮らしていけるのも、年金のおかげ。その年金や医療費は、あなた方のような若い人たちが一生懸命働いてくださるから。えぇえぇ、感謝してますよ。どうぞ座ってください。そして、お疲れを取って十分に働いてください」そう言って慇懃(インギン:真心がこもっていて、礼儀正しく)に話しながら座席を譲るのだ。そういう老人、年寄りが増えれば、若者は、かえって老人に敬意をもつようになるだろう(一般財団法人東アジア情勢研究会理事長江口克彦)」。

また、高齢者には「座ってしまうと立ち上がるのが難しく、座席からドアに移動するのもかえって危険だから」というのが理由も少なくないと言います。ひざや股関節、それに腰椎の変形が進んだ場合、立ち上がる動作そのものに痛みが伴う。痛みがなくても、加齢による筋力低下で、立ち上がったり、車内を移動したりするのがつらいというお年寄りもいる。座った姿勢から立つときに重要な役割を果たす太ももは筋力低下が早く進むため、80代の男性では2割から3割ほどの人に、立ち上がるのがつらい症状があるのではないかと指摘しています。ある程度高さがあるいすなら便利なのですが、電車やバスの座席は低く、立ち続けるほうが楽なのです(国立長寿医療研究センター病院・ロコモフレイルセンター松井康素(整形外科))。

同様な視点で「いったん座ったら立ち上がりにくいので、腰かけたくないという人もいるでしょう。健康を保つため、乗り物ではできるだけ座らず、つり革などをしっかり持って筋力とバランス力のトレーニングに挑戦するよう、医師から勧められている場合もあります。また、自分は若いと思っていて、席を譲ろうと声をかけられると不愉快に思う人もいるでしょう。座らない理由はいくつもあります」(日本股関節研究振興財団理事長別府諸兄)

一方、高齢者自身の振る舞いに対する記事もあります。30代のサラリーマンという投稿者は、職場に向かう通勤電車でラッシュの時間に乗り込んでくる登山者たちに辟易し「通勤電車、基本的にお年寄りがいたら席を譲るようにしているんだけれど、明らかに『これから登山行きます』って格好の老人に関しては申し訳ないけれど譲らない。こちとらこれから地獄の労働なんだ。好きで体力使って遊びに行く人にまで座席を譲る余裕はないんよ」。投稿者の男性は、「明らかに登山に行く風貌の高齢者グループと通勤電車内で遭遇し、気のせいかもしれませんが座席を譲るようプレッシャーを受けたので、モヤモヤして投稿しました。過去にも何度か同じような経験をしています」と経緯を説明しています。

この投稿は8000件以上のリポスト、16万件もの“いいね”を集めるなど話題に。「気持ちはわかる」「元気そうな人には譲ってない」「働いている現役世代の方が疲れてる」といった声や「優先席あるんだから譲って欲しい人はそこに行けばいい」「年寄りも元気なら健康の為にも立った方がいい」「登山の人だったら譲るのは逆に失礼かと思っちゃう」という意見、「登山の格好した老人がリュックでひと座席使ってて流石に腹たった」「あー若い人は座れてて良いなぁとか嫌味たらしく言ってくる」という体験談など、さまざまな反応が寄せられている。

さらに、当然お年寄りだけではなく、妊婦さんにも席を譲るべきだとは思うが、見た目だけでは判断つかない場合がある。「万が一、違ったら失礼になる」と考える人も多い。妊娠を周囲に知らせる「マタニティーマーク」もあるものの、それを付けていることによって、逆に妊婦さんが不快な思いをする事態も発生しているという。

なかにはマタニティーマークを見て、「幸せ自慢か?」「妊婦は偉いのか?」「不妊治療をしている人の気持ちも考えろ」と思う人もいるそうだ(産経ニュース2016年1月1日付)。個人的には妊婦は偉いと思うのだが、どうだろうか。少なくとも批判の対象になるのは、どう考えてもおかしい。しかし、世の中にはいろいろな考えの人がいるものだ。ますます公共の場での振る舞い方が、難しい時代になっている(ダイヤモンド・オンライン:フリーライター宮崎智之)。

こうした様子を数値的表した調査もあります。乗り換え案内サービス「駅すぱあと」を提供するヴァル研究所が2016年11月に発表した調査結果によると、「お年寄りなど優先すべき人がいた場合は、優先席では席を譲るべき」と考えている人は75.9%で、2013年に行われた同様の調査と比較すると、約17%も減少していることがわかっている。わずか3年で激減している。

また、「優先席以外でも席を譲るべき」と考えている人は全体で57.1%いたが、こちらも2013年調査と比較して約19%も減少している。ちなみに、優先席、優先席以外ともに女性のほうが男性よりも「譲るべき」と考えていない傾向が強いという。

その一因となっているのは、やはり「譲ろうとしたが、断られた」という苦い経験だ。同調査によると、61.0%の人が席を譲ろうとして、相手に断られたことがあると回答している。つまり、半数以上の人が席を譲ろうとした経験があるにもかかわらず、なんらかの形で拒否された経験があるため、「親切にしても、相手か嫌がるなら……」と萎縮して、その後は譲るのを控えるようになったということである。ともやりきれない。また、相手がそう感じるのではないかと忖度し、声をかけるのを萎縮することによって、本当に席を譲らなければいけない人が不利益を被ることがあるのだとしたら、それは由々しき事態である。

これらは、様々な記事や投稿から抜粋したものです。必ずしも一般的な傾向を代表する意見では無いかも知れませんが、他者との関わりの中で日常的に生じる課題のように受け止めています。ここにあるような、それぞれの考えの下になっていることは、電車・バスで席を譲る、拒否するだけのことではなく、地域社会に於ける近隣関係にも現れていると考えるからです。

私たちの身近な地域社会に於ける関係性の希薄さが様々指摘されています。その際「プライバシーの保護」がその理由として挙げられることが多いように思います。しかし、今回取り上げた、席を譲ることや珈琲を受け取らないこと等々を重ねてみると、もっと別のところにも課題が潜んでいるのではないかと考えるのです。

ここでは、二つの言葉に注目して書いてみます。

其の一つ目は『忖度』(そんたく)です。国会議員と行政職員との関わりの中で何度か出てきて、印象の良くない言葉として扱われていますが、忖度の本来の意味は、「相手の気持ちを推測すること」を意味する、ポジティブな言葉です。忖度には日本人の性質があらわれています。忖度のほかに相手の気持ちを推測することを意味する言葉としては、「阿吽(あうん)の呼吸」などが挙げられます。

「忖度」「阿吽の呼吸」といった言葉には、日本人の性質があらわれています。かつては、社員に対して画一化した教育を実施する日本企業が多く、相手に「忖度」し、「阿吽の呼吸」によって業務を進めていく様子が見受けられました。社員同士が、阿吽の呼吸によって成り立つ関係であれば、上司は部下に対して細かい指示を出す必要がなく、業務を効率的に進めることが可能となります。

相手の気持ちや状況を配慮する日本人の性質が業務効率化にもつながっており、仕事においても大切な言葉だと考えられます(働き方改革ラボ20250901)。

こうした「忖度」には、『社会学的想像力』(アメリカの社会学者C. ライト・ミルズが提唱した考え方)が必要です。社会学的想像力とは、身近な出来事を広い文脈と結びつけて考える能力、またそれとは逆に、広い世界の出来事を身近な問題として考える能力のことです。誤解を恐れずに簡単に表現すれば、個人が抱える課題を、個人の問題としてだけではなく、家族関係の視点から、近隣関係との折り合いの視点から、制度の欠陥の視点から等々、様々な視点から時間軸なども加えながら課題に接近していくことです。

前述した事例は、「忖度」(相手の気持ちを推測すること)及びその下となる「社会学的想像力」が弱くなっているからなのではないかと考えるのです。相手の気持ちを様々な角度から推し量り、理解しようとする気持ちが少々弱くなり、物事を目の前にある事象でしか理解しない。あるいは、一つの事柄をことさら大きく取り上げ、その負担の大きさに尻込みをしてしまい、「いっそ、関わらない方が楽」との選択に走ってしまう。

近隣関係の希薄さを語るときに持ち出される個人情報保の件は、個人情報保護法そのことよりも、(本来の意味での)「忖度」「社会学的想像力」を妨げるものあるいは言い分けとして使われているだけで、地域社会に於ける最大の課題は「忖度」「社会学的想像力」が弱くなっているところにあるのではないでしょうか。

其の二つ目は『中庸』(ちゅうよう)です。中庸とは儒教を起源として「極端に偏らず、また過不足なく調和がとれていること」を意味します。これまた誤解を恐れず簡単に表現すれば、「バランスを取ること、偏りがないこと」即ちバランス感覚です。

この考え方が、別の形で出てしまったのが「同調圧力」です。日本人は、同調圧力に弱い傾向があります。そもそも、皆と一緒でないと浮いてしまうのではないかと不安になり、同じ行動を取る傾向があります。同調圧力とは、ある特定の同等集団(地域社会・職場など)において意思決定、合意形成を行う際に、少数意見を有する者に対して、暗黙のうちに多数意見に合わせるように誘導することを指します。別の言葉では、文筆家山本七平の「空気」、歴史学者阿部謹也の「世間体」という概念も、同調圧力に通じる考え方です。また、「出る杭は打たれる」もこれに近いかも知れません。

地域社会において、自分では必要だと思っても、周りから何を言われるか分からない、自分だけ他と違ったことをすると浮いてしまうのが不安などは、良く聴くお話しです。こうして、せっかく「社会学的想像力」で課題に気づき行動を起こそうとしても、同調圧力が近寄ってきます。前例というぬるま湯に浸かっていたが方楽だし波風も立たず淡々と行えます。個人の意志でやっている分には無視されるだけで済むのですが、こと地域社会の活動(地域力)になると、この同調圧力が手強い存在となります。前例にとらわれることなく、社会的想像力を持って地域課題に取り組もうとする人は、それほど多くはないのです。

こうした「忖度」や「中庸」といった本来日本人が持っていた他者との関わりに於ける基本的な姿勢が次第に弱くなり、「忖度」は過度に人の目を気にして多くを語らないようになります。また「中庸」で言うバランス感覚は、波風立てないという形で同調圧力に変質してしまいます。こうしたことが、地域社会に蔓延して、「個人情報保護」や「自律を尊重して必要以上に関わらない」等耳障りの良い言葉で他者との関わりを閉じてしまっているのが、地域社会の疎遠とう形になっているのではないかと考えるのです。

もう少し、皆さんが本来持っている他者への気づかいを、周りを気にせず出してみては如何でしょうか。きっと、これまで以上に暮らしやすい街を作れるように思います。私たちの社会は『遠くの親戚近くの他人』が一般化しています。だからこそ他者(近隣など)との関わりづくりに踏み出す時なのだと思います。

宮城県富谷市成田地区を中心に活動している「OOC」(おせっかい・おばちゃん・倶楽部)は、そんな閉塞感のある社会に一石を投じるべく活動を展開しています。今では死語に近い「おせっかい」を復活させよう、もっと言えば東北地方の文化として定着させようと取り組んでいます。この方々が作った憲章を紹介します。

OOC健笑(憲章)

「おせっかい」は、日本が世界に誇る素晴らしい文化です。

見て見ぬふりできず、思わず手をさしのべてしまう「おせっかい」。

その先にあるのは、誰もが安心して暮らせる社会です。

ささやかな一歩から生まれる笑顔を思い浮かべ堂々と「おせっかい」に精を出しましょう。

ちょっと「おせっかいが過ぎる」と感じさせてしまった時は、素直に「ごめんなさい」をいいましょう。

塩梅(あんばい)は少しずつを覚えていけばいいのです。

自分一人で始めたとしても、あなたは決して一人ではありません。

多くの仲間が、あなたのその一歩を励まし支えてくれます。

「同じ想いの仲間がいる」という心強さこそこの活動の大きな目的のひとつです。

思い立ったが吉日。「いいね」と思ったその日があなたの『OOC活動記念日』です。

(註)「おばちゃん」には「おじちゃん、おばあちゃん、おじいちゃん、おねえちゃん、おにいちゃん」を含みます。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

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