課外活動『永平寺への未知・みち』の動機・意図が分からないへ

先に投稿した『永平寺への未知・みち』に関して、多くの方から動機や意図が分からないとのお話しがありました。確かに理解不能な行為と映るのは、分かるような気もするのです。一方、何でそのような疑問が出るのだろうと不思議に思うところがあります。

そこで、今回はそれらの疑問に応えるために、もう少し詳しくその辺の処を書いてみます。それでも、私の本心としては「キット納得しないだろうな~・・・」と思っています。

其の一 なぜ、歩いて行こうと思ったのか

仙台市(菩提寺「壽徳寺」)から福井県曹洞宗大本山吉祥山永平寺迄の約700㎞を1ヶ月掛けて歩いて行く。確かに、現代社会においては常軌を逸した行為と思われても当然のようにも思います。だからこそ、何らかの特別な想いがあったのだろうと考えるのは当然とも思います。

2年前に行った「四国八十八ヶ寺歩きお遍路」の最中に教わったことに、お遍路は札所の参拝だけではなく、札所と札所の間にこそお遍路の醍醐味があるとお聴きしました。

「虫の目、鳥の目」という言葉を聞いたことがあると思います。「虫の目」は複眼です。近づいて様々な角度・視点から物事を見るということです。また「鳥の目」とは、高い位置から「俯瞰的に全体を見回して」見るということです。

歩くと、「虫の目」的な感覚を持ちます。歩くことは、普段の時間感覚と大分違います。普段、見ているようで見ていなかったことがよく分かります。そして、何か大発見をしたかのような感動を覚えたりします。また、些細なことや小さな工夫に手を合わせたくなる感謝の気持ちが沸いてきます。

お遍路は歩く瞑想。歩行は身体を鍛え瞑想の質を高めると考えられています。この為、「座禅」と共に重要な修行となっています。私自身は「歩く瞑想」等と想いながら歩いたことはありません。しかし、結果として、「虫の目」的な物の見方や接し方を等して、今見えている物や事柄について、その深いところにある意味や役割を感じ取れるようになる気がします。こうした体験を持っているので、せっかく永平寺に行くのであれば、身体的・精神的・社会的にはキツいのですが、歩くことで得られる、または、得られるかも知れないことに重きを置いて「歩き」で行こうと決めたのです。

公共交通機関を利用したとしても、その様な意識を持って向き合えば得られるとに変わりはないようにも思います。でも、私はそれほど器用ではないので、歩くという環境下に身を置かないとなかなか難しいような気がして歩きを選択しています。なので、特別強い想いで「歩き」を選択しているわけではありません。器用な生き方、考え方が出来ないだけです。

其の二 何で条件の悪い梅雨時を選んだのか

これは簡単で、75歳は後期高齢者になる年齢なので、75歳の誕生日を記憶に残る日にしたくて、誕生日を永平寺の朝の勤行(朝課)で迎えようと考えたからです。

其の三 意識転換を図ろうとしたのは、どのようなことだったのか

私の場合、退職後は行政ボランティアとして南三陸町に赴き東日本大震災の被災者支援に関わり、自立を目指すために3年で南三陸町を去り、宮城県社協や宮城県サポートセンター支援事務所に籍を置き、支援の場を宮城県全域及び他県に移しました。また、同時並行的に東北学院大学に新設された地域共生推進機構に籍を置き、特任教授として教壇に立ち、「地域の課題」に取り組みました。退職後・東日本大震災後の10年間は、このようにして、あっという間に過ぎ去りました。

その後は、地域に軸足を置き、民生委員児童委員を拝命し地域づくり的民生委員をしています。また、様々な市町村社協等々からご依頼を頂き、地域づくりの講義や認知症学びの講座などを行って現在に至っています。また、hp地域福祉研究所を開設したのもこの時期です。近頃は「みんなの学校」を新たに付け加え、皆様と意見交換を行っているところです。

この年齢に至るまでは、現役の時代が人生の主役で、それ以降は現役時代の惰性または慣性の法則(運動している物体はいつまでも等速直線運動を続ける)で突っ走ってきたように思います。換言すれば、退職後は、現役時代に培った財産で生きている感じです。

高齢になっての生かされる能力、「結晶性知能(知識)」があります。結晶性知能(crystallized intelligence)とは、個人が長年にわたる経験、教育や学習などから獲得していく知能で、20歳以降も上昇し、高齢になっても安定していると言われています。

私は、一見ポジティブに考えられる視点だけに意味を持っていると、「痛い高齢者」になってしまう恐れがあると考えたのです。常に過去の知識や経験だけに固執した考え方や発言が知らず知らずのうちに多くなり、時代に合わない発言や振る舞いが多くなってしまう。こうなってはいけないと思ったのです。

少なくとも、結晶性知能(知識)を元にしつつも、新しい環境に適応するために、新しい情報を獲得し、それを処理し、操作していく知能である「流動性知能(知識)(fluid intelligence)」を加えながら、私らしい、私だから言えると思える発言や振る舞いが出来るように努めなかればいけないと、考えたのです。

こうしたことに、しっかり自覚すること及びそれに向けた努力を怠らないようすることを強く意識する必要があると思うのです。そうでないと、無自覚の中「痛い高齢者」の仲間入りをしてしまいます。それを避けたかったのです。

大きく三点に分けて、無謀とも思われる『永平寺への未知・みち』に向かった理由というか動機を書きました。分かってもらえるかどうか分かりませんが、こんな感じです。みなさん、私のどうでも良い体験に関心をお寄せ頂きありがとうございました。

境内に立つ観音菩薩像
大広間の天井絵

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

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