かじってみよう社会学Ⅱ 第1講 『親の顔が見たい』
皆様、「みんなの学校」へ、ようこそおいで下さいました。心から歓迎と御礼を申し上げます。ブルーになりがちが毎週月曜を皆さんと一緒に迎えられるのがとても嬉しいです。
第1月曜日は講座名 『かじってみよう社会学Ⅱ』です。生活に役立つ「地域社会と利他」を主テーマに、社会学の視点から日々の生活や地域社会での出来事を考えてみたいと思っています。
第1講目の今日は、何か不祥事をしでかしたり、常識的な行為から少々はずれた振る舞いをしている様子をみたときなど『親の顔が見たい』等と言ったりします。これは、前述のネガティブな場面だけではなく、行いを賞賛する場合などでも使われます。
『親の顔が見たい』という言い方は、額面どおり当事者の方の親御さんの顔を見たいという意味では使われていません。今目にしている行為を非難したり否定する場合や反対に評価する言葉として用いられます。
では、「なぜ親の顔が見たい」と、言うのでしょうか。ここから社会学が登場します。『社会化』です。
社会化(socialization)とは、「ひとが自分の所属する社会や集団、またはこれから所属しようとしている社会や集団に共有されている流儀・作法を学習し、自分のものにしてゆくプロセス」をいいます。以下、二つの辞書での説明を掲載します。
①「社会の基準や価値を採用したり、社会的相互作用に必要な技能を獲得したり、受け入れ可能な役割を採用することを学習することによって、子どもが社会に統合されていく過程をさす」(人間理解のための心理学事典)。
②「個人が他者との相互作用のなかで、彼が生活する社会、あるいは将来生活しようとする社会に、適切に参加することが可能になるような価値、知識、技能、行動などを習得する過程」(新社会学事典)。この様に説明されています。
社会化(学習過程)は大きく二つあります。第一次的社会化と第二次社会化です。
第一次社会化は、生まれて成長するなかにあっての学習過程です。社会規範、生活習慣、言語など、その社会全体に共通で、そして最も基本的なことがらを学習することをいいます。社会化の対象は子ども、社会化の担い手は、まずは家庭、そして近隣社会。保育園や幼稚園、学校と成長に合わせてしだいに広がっていきます。第一次社会化を通じて、一個の動物として生まれた「ヒト」は、この過程を通して「人間」になり、男や女(最近はこうした区別の言い方も避ける傾向がありますが)になっていきます。いわゆる「しつけ」は、第一次社会化の最も重要な局面です。
第二次社会化は、ある集団に固有の、だが集団には共通な規範、価値観、行動パターンを学習する過程です。貴族社会、会社、暴力団、宗教団体、政党、軍隊等々、それぞれに固有の作法や気風があります。新参者は、そうした作法や気風をしっかり身につけることで、はじめて一人前のメンバーとして認められるのです。
この様に社会化は、人間を社会や集団の一員として形成し、社会や集団のために新しいメンバーを補給し、社会や集団に秩序をもたらす決定的に重要なプロセスなのです。
これは、2021(令和3)年11月1日から始まった『かじってみよう社会学』で既に学んでいることです。私たちは、特段「社会学」等と言わなくても、生活の中で意識するしないに関わらず、あたりまえのように振る舞っている中に社会学が入り込んでいます。別の言い方をすれば、「私たち個人と社会との関わりか方」を少々小難しく説明しているのが社会学です。
今日取り上げた「親の顔が見たい」は、「しつけ」という一次社会化が、放置されていたのかしっかり行われていたのかを、この様な言葉で表しています。特段、社会学のテクニカルターム(専門用語:学問の世界でしっかり定義され会社にブレの無い言葉)である「一次社会化」という言葉を知らなくとも、生活の中であたりまえのように「一次社会化」に関する言葉を使っています。それだけ、社会学は私たちの生活の中に組み込まれているのです。
二次社会化の文脈になると、あの人は「体育系だから」「公務員だから融通が効かない」等々、どのような職場で教育されたのかや過ごしたのかで、その方の印象を決めつけたりすることはよくあるように思います。また、「田舎の子だから純朴で都会の子はスレている」等々も良く聞きます。
地域社会の持つ雰囲気も「社会化」と関係するように思っています。その地域の構成員が、如何なる地域を目指して努力を重ねているかによって、その地域の雰囲気や振る舞いが変わってきます。四国八十八ヶ寺歩きお遍路をして、私はそれを強く実感しました。地域社会は、私たち一人ひとりの振る舞いの現れなんだと確信したのです。
それらの印象を万人にあてはめて決めつけることには議論のあるところですが、社会化過程を経ることで、個々人がヒトから人へと成長し、更にはその職場や地域社会にあった振る舞い、求められる振る舞いをするようになっていくということは、その強弱はあっても現存するように思います。
私たちは、長い期間、他者との関わりから経験則的に社会化(子どものころの典型は「しつけ」)の存在を知り「親の顔が見たい」という言葉を生んでいるのだと思います。
この言葉は、結婚するときにも使われているように思います。本人だけではなく、その親と会ってから判断したいという親の気持ちは、この様なところにもとがあるように思います。そして、それはあながち間違ってはいない(一概に間違いとはいえない)親の心情のようです。当事者は、気持ちが昂ぶり「恋は盲目」になっていたりするので「あばたもえくぼ」状態です。そのような時、誰よりも本人を知っている親の見た目は的確です。その目は、その親の振る舞いから結婚相手と息子娘との相性を見抜く生活の知恵なのではないかと思っています。相手の親とまでは行かなくとも、相手とお会いして、娘息子との相性を親が見極めるということはとても大切だと思っています。
もちろん、最終的に決める(選ぶ)のは本人です。なので、親は、息子娘の判断材料(判断の視点)を持たせてあげることが親の役割だと思うのです。
そうは言っても、昨今は、本人の意思が尊重され、結婚を決めてから、親に合わせることが多いように思います。本人の気持ちが最優先というのは分かりきったことですが、「社会化」のことだけではなく、子どもを一番知っている親の話を聞くというのもあっていいように思うのです。これから結婚をしようとする人、またその親は、頭の片隅に「社会化」という言葉を置いていて損はないように思います。
また、地域社会も同様です。地域社会の持つ雰囲気や近隣関係は、二次社会化の構成員である私たち一人一人が関わり醸し出しているのだと言うことを知っておくことが必要です。そう言った意味で、私たち一人一人の振る舞いでも地域社会は変えることが出来るのです。「ハチドリのひとしずく」です。

哀しい痛ましいニュースなどを見たときに「どんな育て方をされたのだろう?」と思うことが私もあります。そして同時に、その自分の心の冷たさや無関心さにハッとすることも。
今回の記事を読みながら「地域福祉」とはこの「ハッとする」気持ちが大切なのではないか、と思いました。
楽しみにしていた社会学の講座のスタートに、『親の顔が見たい』という衝撃的なタイトル。
少し腰が退けながら恐る恐る読みました。
一般的に「親の顔が見たい」と言う場面は、「いったいどんな躾をされてきたんだ!」と批判する意味で使われていると思います。ですから、「私のどの躾がいけなかったのでしょうか」と腰が退ける思いになったわけです。
私は両親から躾され、環境に揉まれながら人間らしく成長し、人生の伴侶の家とはいえ全く知らない家庭に嫁いできました。
この時から、実家で培われた価値観が私のすべてにおけるものさしであったことを思い知らされました。
家族で大事にしているものが、こんなにも違うのか!と衝撃的でした。
はじめはその違いを受け入れ難かった私も、本当に少しずつ自分の価値観を塗り変えながら今日に至っています。
子供を授かって親にさせてもらい、私はきちんと躾が出来たのだろうかと振り返ると、なんとも自信がありません。だから「親の顔が見たい」だなんて言われたら心臓が飛び出しそうになります。
私自身は両親には及ばないまでも、少しはひと様のお役に立ちたいと思いながら過ごせていることは両親の育てかたのおかげと感謝しています。
もちろんこれまで私を支えて下さった多くの人々や環境のおかげでもあるのですが、やっぱり親の影響は別格です。
そんなことを思うと、いつか子供達からこの話題について聴いてみたい気がしますが、その時も、私は恐る恐るになるのかしら。
さて、地域の居場所づくりを目指す私にも励みになる記述がありました。『地域社会の持つ雰囲気や近隣関係は、二次社会化の構成員である私たち一人一人が関わり醸し出しているのだと言うことを知っておくことが必要です。そう言った意味で、私たち一人一人の振る舞いでも地域社会は変えることが出来るのです。「ハチドリのひとしずく」です。』
細々と始めた『縁側日和』ですが、すでにみなさんがそこに楽しみを見出し、欠かさずに参加してくださっています。
特別なことなど何もない居場所ですが、みんなで相談しながらワクワクのタネ探しをするのが楽しいようです。少しずつ地域全体を巻き込んで、ワクワクの輪を大きく広げていきたいと思っています。
この居場所の活動を社会学的視点で分析してみたら、ほんの思いつきが思いつき以上の価値あるものになるに違いありません。
それに気づいたとき、ばあちゃん達の自己肯定感はさらに上がり、目を輝かせることでしょう。
私はその瞬間を是非とも見届けたいと思います!
今回のみんなの学校,『親の顔がみたい』。
テーマを見て何やらおもしろそう・・と思ったのですが,ちょっと私の中で社会学の復習が必要みたいで,コメントがなかなか書けないでいました。でも,あと三つ寝ると次の月曜日が来るので,筋違いのことでもいいから書いてみようと思いました。
講義の文章を読んで,そーっと記憶のカーテンを閉じたいと思ったのが,『今日取り上げた「親の顔が見たい」は、「しつけ」という一次社会化が、放置されていたのかしっかり行われていたのかを、この様な言葉で表しています。』という部分です。
家には,適齢期(そもそも,今,こんな言葉は使っていいのでしょうか?)を大部逃した娘がいて,その娘のいろんな振る舞いを見て,しつけって何だろうと考えていました。
先ずは朝の挨拶。
余談ですが,40歳になる息子がまだ幼児の頃,私は実家の両親に預けてからの出勤で,毎朝,戦争のようなドタバタな時間を送っていました。
ある日,息子に『あいさつ』の絵本を見せていた時のことです。布団から起き出した男の子の絵を見て,「この時はなんて言うのかな?」と聞いたら,息子の答えは「じかん!じかん!」だったのです(*_*;。この時は,本当に反省させられ,「ごめんね」と泣きたい気持ちになったことを今でもよく覚えています。
話は戻って,しつけって聞くと真っ先に思い浮かぶのは,『行儀や礼儀作法』でしょうか。そう,『挨拶』に始まり・・・,あとは,実は,私は子供たちにどんなしつけをしてきたのか語れる自信がないのです。適齢期を超えてしまった娘の部屋が散らかっていたとしても仕方ないなと思ったり,でも,笑顔で挨拶ができて料理はおいしく作れるから,まっ,いっかと開き直ったりしています。
なので,第一次社会化の最も大切な局面の「しつけ」に関してはここまでで,今回,これは書いてみたいなと思ったことが,文中にあった『恋は盲目』にまつわる話です。
それは,娘の彼氏くん(Kくんとします)が私に伝えてくれた言葉です。
娘は障害があり,時々感情に起伏が見られ,調子が悪くなることがありますが,ある日Kくんが「僕は彼女のどんな状態の時も最後は必ず笑顔にしてあげられるように自然と向き合えます。その時間すらとても大切に思えます。辛く大変な時間こそ,お互い寄り添って思い合って過ごしていかないとと強く思います。そんなふうに彼女を愛おしく思える自分も大切にして毎日生きていきたいです」という内容のラインをくれたのです。もう,私の方がズキュンとなりました。
そして,先日,バーベキューをしていて娘がイスを離れた時,「彼女はこれまではおかあさんといる時が一番安心できたそうですが,最近は僕といる時がとても安心できると言ってくれたんです。もう,嬉しくて嬉しくて!」と。
いつまでもずっと『恋は盲目』でいてね!そして,素敵な二次社会化を醸し出していってほしいものです。
そのKくんのお母さんは,彼の好きなカレーとシーチキンを時々送ってくれるのだとか!ちゃんと仕事をしてお給料をもらっている子供に,好物なものを送ってくれるというKくんのおかあさん。
私はお会いしたことはまだありませんが,Kくんの言動とおかさんのそのやさしさで「親の顔は見れた」と思えるようになっています。もちろん,いつかお会いしてお話ができることを心待ちにしたいと思っています。
すみません,先生!
社会学からだいぶ外れたコメントになってしまいました。