「産着」にくるまれるお遍路(4月20日39日目)

作礼山(標高300m)の山頂にある58番札所仙遊寺から、遍路道を一気に下り、それ以降は一般道と遍路道を出たり入ったりしながら歩きます。一本道ではなく、国道、県道、市町村道(遍路道)を渡り歩きながらだったので、緊張気味の歩きです。宿坊での朝の勤行から一日が始まる。こんな余韻のまま一日を歩き切った感じなので、少々距離は長かったのですが、何とか歩けました。宿坊泊まりの歩きお遍路はなかなかいいです。59番札所国分寺の1霊場を巡拝します。

58番札所仙遊寺 朝の勤行
59番札所国分寺の握手してくれる御大師様

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

「産着」にくるまれるお遍路(4月20日39日目)” に対して7件のコメントがあります。

  1. スマイル より:

    歩きお遍路、という相当の覚悟が必要な挑戦、しかも覚悟をしたところで全く予測がつかない未来へ踏み出す時、「産着」というより「死に衣装」という方がずっとしっくりくるのではないでしょうか。実際に出発前の本間先生は何度かそのような表現をなさっていたと思います。

    そして、実際に歩き始め、歩くだけで精一杯、明日はどうなるかわからないという日々で、否応なく自分と向き合う中でお聞きした「産着」という言葉。それがしっくりくる、納得いく、というように変化したことがとても感慨深く感じました。この文章を読む私は「頭の理解」ですが、それを実感し「腑に落ちる」こととして理解できるのは、実際に歩いた方だけだと思います。それがとても尊いことだと感じ、そんな「尊さ」に満ちているのが「歩きお遍路」なのだな、と思いました。

    リアルタイムで経過を追っていた時にも、「産着」はとても印象的なお話でした。

  2. ハチドリ より:

    山門から到着まで未知数だった仙遊寺の宿坊に泊まり、お勤めから始まって穏やかな気持ちで歩けた39日目もお疲れ様でした。朝、標高300mでの深呼吸はどんなにか清々しかったことだろうと思います。

    鈴虫さんも書かれていましたが、赤子に着せる「産着」のお話から、『自分自身の「取扱説明書」を客観的に読んでいる感じ』との表現、とても上手いな~と思いました。

    そして、『私にとっての「生まれかわる」とは、これまでの自分を再確認して、改めてそうした自分と付き合うことを確信することのように思います』と感じられたこと、なんだかすごくしっくりと来て、いいな〜と思いました。
    そのような時間って、単に時間があったからと言ってできるものではなく、その置かれた時、場所、空間、場面、心境等々が重なった貴重な「今」と言うタイミングだったのではないでしょうか。

    『自分と向き合う』という言葉を聴いて、あることを思い出していました。
    社会福祉士を目指して対人援助の勉強をしていた時のこと、『自己覚知』というのを学んだことがありました。
    『援助者自身が、自分の感じ方や考え方の傾向、知識や技量について意識化し、自ら把握しておくことが大切である』というものでした。それは、『対象者の主体性を大切にし、対象者自身が自ら問題解決に向けて取り組むことを重要視するためには、援助者が自分自身について理解しておかないと、対象者をありのまま理解できず、私情や偏見にひきずられて歪んだ捉え方をしてしまう可能性がある。また、援助者が感情をコントロールできずに、対象者に対してバランスの取れた関りができなくなってしまうことが危惧される』というような内容だったと思います。

    その講義は当時とてもよくわかりましたが、20年近く経った今でも「自分が好むものや苦手なもの」くらいは客観的に把握しているけど、私自身の物事の感じ方、捉え方、振る舞いの傾向などはなかなかもう一人の自分で把握はできておらず、溜まりかねて爆発した家族から言われて気づくことも゙あり、自己覚知できていません。だから家族には感謝しないといけないですね。
    講義を担当していた先生は、『歳を重ねても、それが大切だと教える立場にあっても、自己覚知ができているなどと答える自信はない』とのことでした。

    (やっぱり「一生勉強、一生青春、一生感動」かな・・・と独り言をつぶやく)

    先生、『今、私にとっても、この歩きお遍路は、どのような意味があるのか全くわかりません。』と書いてありましたが、私は、ご自身を再確認するという、とても貴重な『今(時間)』の中にいらっしゃると言うことに大きな意味があると思います。

    鈴虫さんへの返信にあった、葉祥明さんの『母というものは』、ありがとうございました。
    北鎌倉に葉祥明美術館がありますね。温かい絵と詩を見に行ってみたくなりました。

    明日もがんばってください。

  3. 鈴虫 より:

    朝霧の中、遠くから聞こえる梵鐘と仙遊寺の梵鐘が共鳴している。
    そんな清々しい光景の一部となって、心静かに朝のお勤めをする。
    想像しただけで、頭から足の先までスッと芯が入ったような静かな気持ちになります。
    宿坊泊まりの朝を私も経験してみたくなりました。

    五十八番札所仙遊寺のご住職の「お遍路さんの着る白衣は赤子にきせる『産着』ではないか」との法話から、お遍路とは「自分自身の取扱説明書を客観的に読んでいるようだ」と感じたのですか。
    確かに私も、自分自身のことをわかっているようでいて見て見ぬふりしている部分があったり、都合の良い解釈で辻褄合わせをしている弱い自分がいます。
    そういうことも含めて、先生の感じたことがわかる様な気がします。

    産着と聞いて思い出したことがあります。
    半世紀以上も昔、歳の離れた弟妹を迎えるために、母は産着を縫っていました。
    縫い目が柔肌に当たらない様に袋縫いにして、一度水に通して柔らかくして。その光景を今思い出しても「親の愛」を感じます。
    その様な産着につつまれて、お遍路さんは守られて歩くのですね。これならお大師様とお母さんと「同行三人」の先生のお遍路がご加護に満ちているはずです。
    「白衣は産着」私もとても納得がいきました。

    「今、1000年に一度の時の中にいる。それにはきっと理由があるはずだ。今は分からないが、いつかきっと分かるときがくる。その時迄、精一杯心を尽くそう。」
    私はこの言葉をすべてが瓦礫と化した景色の中で何度となく聞いています。
    そうです、私も今もまだ分からない。
    でも、自分自身の人生をより良く生きるため、とにかく今を精一杯歩き続けています。

    私もただなんとなくではなく、物事がこういう理由からこうなるとしっかり心に刻みながら過ごしたいと思います。
    いいお話をありがとうございました。

    1. welfare0622 より:

      鈴虫様
      産着に関するエピソードをお聴きして、母と観音様が重なるように感じています。
      葉詳明の詩に「母というものは」というのがあります。
      母親というものは
      無欲なものです
      我が子がどんなに偉くなるよりも
      どんなにお金持ちになるよりも
      毎日元気でいてくれることを
      心の底から願います
      どんな高価な贈り物より
      我が子の優しいひと言で
      十分過ぎる程幸せになれる
      母親というものは
      実に本当に無欲なものです
      だから
      母親を泣かすのは
      この世で一番いけないことなのです

      また、生活支援員のときのことを、今なお心の刻み過ごしているとのこと。
      それが『縁側日和』を産んだのかなって感慨深く読みました。

      1. 鈴虫 より:

        本間先生
        葉祥明の「母というものは」の心に染みる詩をご紹介くださって、ありがとうございます。

        子供達が親になっても母親にとっては、いつまでも子は子です。そんな気持ちを言葉に乗せた素敵な詩ですね。

        そして、支援員の時の気持ちを持ち続けていることが縁側日和に繋がっていることをご理解くださって、ありがとうございます。
        私はあの経験で学んだことをもとに、今の生きかたにたどり着いたと確信しています。

        自分を取り巻く地域環境に無関心ではいられない。
        そんな気持ちを縁側日和で体現しようと試みています。

        そうなれば良いなぁ、と気づいた人がアクションを起こすことの大切さを噛みしめています。
        コメント、ありがとうございました😊

        1. ハチドリ より:

          鈴虫さん、お母様が縫われたと言う、産着。 縫い目が柔肌に当たらない様に袋縫いにして、一度水に通して柔らかくしていたのですね。なんとも深い「親の愛」を感じ、私も母親を思い出しています。

          鈴虫さんは並外れた器用な方だと思っていましたが、お母様譲りなのですね。素敵です。

          そして、『自分を取り巻く地域環境に無関心ではいられない。 そんな気持ちを縁側日和で体現しようと試みています。そうなれば良いなぁ、と気づいた人がアクションを起こすことの大切さを噛みしめています。』ということ、そのとおりだと思います。尊敬しちゃいます、鈴虫さん❣

          1. welfare0622 より:

            ハチドリさん
            ハチドリさんは、ハチドリさんのやり方で、「気づいた人がアクションを起こす」ことをやっていると思っています。
            他者への心配りや配慮を、何げない日常の中でやんわりと行っている。なかなかできることではありません。
            関わって頂いた方は、きっと期間が経ってからその優しさや配慮深さに気がつくことでしょう。

            「利他」には、次のような時制があります。
            発信者、即ちハチドリさんには、未来からやってくるものです。相手の方が、ハチドリさんの想いを知ってくれるのは、相当時間が経ってからです。子どもが大人になって親の恩を感じるのと同じように。
            そして、受信者、即ち利他を受け取った方は、過去からやってくるのです。ハチドリさんから頂いた利他は、だいぶ後になってそのことに気がつき、感謝の念を持つのです。あ~、あれがあったから今の私があるんだ、のように。

            被贈与の気づきこそが利他の始まりになります。利他は、相手次第なのです。でも、それでいいと私は思います。何かのお返しを期待している行為ではないのです。「気づいたから」しているだけですよね。

            ハチドリさんも鈴虫さんも、お互いに「気づき」に気づいている、とても素敵な関係だと思います。新たな世界が見えてきている、そんな日々を過ごせているのではないでしょうか。素敵人生ですね。

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