山門から境内までは未知数(4月19日38日目)
午前は今治市街地の平坦な道を歩き、四つの札所を巡拝します。五つ目の札所は標高255mにある58番札所仙遊寺で、一般的には、遍路転がしとはなっていないのですが、歩きお遍路のなかでは遍路転がし扱いになっている場所です。今日は、そこの宿坊に泊まります。54番札所延命寺、55番札所南光坊、56番札所泰山寺、57番札所栄福寺及び58番札所仙遊寺の5霊場を巡拝します。
午前は今治市街地の平坦な道を歩き、四つの札所を巡拝します。五つ目の札所は標高255mにある58番札所仙遊寺で、一般的には、遍路転がしとはなっていないのですが、歩きお遍路のなかでは遍路転がし扱いになっている場所です。今日は、そこの宿坊に泊まります。54番札所延命寺、55番札所南光坊、56番札所泰山寺、57番札所栄福寺及び58番札所仙遊寺の5霊場を巡拝します。
19.2㎞と比較的短い距離の中で、四つの札所と久しぶりの遍路転がしのような58番札所への巡拝をした38日目もお疲れ様でした。
57番札所での出来事、足を痛めていたことや昼食時なのに食べていないということをちゃんと見ていてくれた方がいらっしゃったのですね。本当にお遍路さんのことを大切に思っているからこそ、そういうちょっと困っていたり、大変そうなお遍路さんのことは目に止まり、「どうか、ご無事にお遍路していってほしい」という純粋に祈る気持ちでお声をかけていらっしゃるのだろうなと思いました。
私が以前、長距離を歩いていて膝を痛めたときに、チョコンと道路の縁石に腰をかけていたら、すぐそこのガソリンスタンドの人が気づいて、「中に入って休んでください」と声をかけてもらい、湿布をいただいたことがあります。結局そこでタクシーを呼んでもらい、最寄りの駅から電車で帰ったのですが、そのガソリンスタンドを車で通るたびに手を合わせたくなるような感謝の気持ちでいっぱいになります。四国の八十八ヶ寺をめぐるお遍路さんが往く地域では、そんな温かな感謝の気持ちの花があちらこちらで面になって咲いているのでしょうね。
またまたSpecial notesに書いてあることがとても面白かったです。
神社の入り口は『鳥居』で、それより先は神様が降臨する神聖な場所。お寺の入り口は『山門』で、あのよく見かける仁王像はお寺にあるという事や二体の像の口の開き方には『始まりから終わりという意味があった』ということもよくわかりました。でもそこで、「あれ?塩釜神社に参拝に行く時、石段の先にある朱塗りの建物の中に仁王像はいなかったっけ?」と、確か何か像がいたのではと思い出していました。あれは何でしょう?
それと、『空』『無相』『無願』の悟りの境地「三解脱門」の意味がわからなかったので調べてみました。仏教において『解説』とは、悩みや迷いなど煩悩の束縛から解き放たれて、自由の精神的境地に到達することを言うのだそうですね。その精神状態とはすなわち、「空→すべての存在は移り変わり=世の中に固定的で不変のものはない」、「無相→それゆえ、定まった姿形もなく=すべてのものを差別しないこと」、「無願→したがって執着することは何もない=要求、願いを持たないこと」なのだそうで、簡単に言うと『物事にこだわらない』、『みかけ等で差別しない』、『要求、願いをもたない』のようです。
「迷い」は最近少なくなってきたけど、「こだわりはある」「願いもある」煩悩だらけの私は、うぅ、だいぶ修業が必要なようです。でも、それを自由の精神的境地と思ってはいけないものかとも思ったりしました。
恥ずかしい話、「神社」と「寺」のことが実はよくわかっていませんでしたが、今回、そうなんだとわかったこともあり、これからは感じ方が変わると思います。ありがとうございました。
明日も頑張ってください。
美しい山門ですね。仁王像に会いに行きたいという思いがふと浮かび、「身の程知らず、よしなさい」と自分に言い聞かせています(笑)
今週もやっぱりおせったいのお話が心に沁みます。今日出会うかもしれない人のために湿布やおはぎを用意している日常の、なんと幸せなことかと思うのです、そういう地域で育つ子ども達の心根を思っています。