2023-11-27 / 最終更新日時 : 2023-11-27 welfare0622 Out Door・随筆・旅行記 第一関門通過~!(3月20日8日目) 20番札所鶴林寺と21番札所大龍寺との二ヶ所のお遍路転がし越えて傷んだ足腰をいたわりながらの行程です。徳島県(阿波の国)最後の23番札所薬王寺1霊場を巡拝し、「発心の道場」23霊場の巡拝を終えることになります。 2023-11-27第一関門通過(3月20日8日目)ダウンロード 国道沿いのとても見晴らしのよい場所でした。 皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。 “第一関門通過~!(3月20日8日目)” に対して4件のコメントがあります。 阿部 優 より: 2023-12-01 10:47 8日目おつかれさまでした。山ばかりだと海が見たくなり、海ばかりだと山が見たくなります。人間とはそういうものですね。 暗中模索の中では、キョロキョロと視線が定まらず、足下も何かしっかり土を掴めなくて踏ん張れないためか、力強く歩けない感じでスピードもでません。一方、進むべき方向が定まっていると、歩きに力づよさやリズムができて、目的とする場所への距離が目に見えて縮まってくるように思えます。 これは人生そのものです。暗中模索してフラフラしていた学生の頃を思い出します。進むべき人生の方向・目的地が決まってからは、何をやるにもスピードとパワーが違います。目的地が決まっているので、多少間違っていてもいいかなと思いながら進みます。たとえ道しるべがなくとも、ずんずん進みます。まず目的地を決めることが大事。決めずに何となく生きている人がいかに多いことか。本間さんは、そんな人たちの道標にすでになっています。 本日もありがとうございました。 返信 ハチドリ より: 2023-11-30 23:31 8日目で第一関門通過したのですね。 これまでずっと山岳のお遍路道だったので,海側は気分が変化するように思います。 『海が見えると,なぜか「ウオー」と声を出し前のめりになってしまいます。山を望んだときは「アァ~」って腕組みして反り返る感じになります』と,ほら,やっぱり! 全行程,スマホから流れるお経を聴きながら歩いたとのことですが,『歩くスピードに合わせてラップ調にアレンジして唱えます』と言うくだりは,どうしてもイメージが湧かず,『調子に乗って「フォー」とか「イエー」等と意味不明な声を上げたくなる』とは一体どういうお経なのか,興味津々です。一度お願いしたいです。 わずか直径5㌢程度の丸い中にある小さな道しるべ。それを見つけると安心と元気を復活させてくれ身体が軽くなるような気もする。それはとてもわかるような気がします。先生が書かれていたように,私たちが暮らす社会においても,自分の進む道を選び,歩んでいくときに「大丈夫!」と言ってもらえるだけで,前を向いて歩いて行けます。 「この道、この方向でいいんだ」という安堵感を持たせてくれる,そんな直径5㌢の矢印に先生はなっているのではないでしょうか。それは,さらにその何十キロ先を示す大きな標識の方向を向いているようにも思います。色あせてもいません。 明日からは,また心配な区間に入るのですね。1日で30kmはとてもきついと思います。足の裏も痛そうですが,膝が心配です。でも,大丈夫!きっとダイジョウブ! 返信 いくこ より: 2023-11-28 15:20 私もスマイルさんと同じくだりに深く共感しました。 先生がおっしゃる「ちいさな道しるべでありたい」ということ、そう願いながら暮らしたいと思います。 また、お経のリズムが音楽のようだとお書きです。息子が檀家寺の住職の送迎をしたときに音楽の話になり、息子がバンドをやっていると話すと、住職はお経も音楽と同じようなものと話されたとのことでした。詳しいお話しは忘れたのですが、住職のお経を聞くとゆったりと心がのびやかになるような気持ちがするのです、「フォー」とか「イェー」って似合う気がします、ゴスペルも祈りですものねと、思考は飛んでいきます。 今週もありがとうございました。 返信 スマイル より: 2023-11-27 21:38 お遍路道で「この道でいいんだよ」という目印の小さな矢印、それを見つけた時の臨場感あふれる喜びや安堵の記述は、誰もが共感し、また自分のことのようにホッとする文章で秀逸だと思いました。 またそれを『このことは、私達の暮らす社会においても同じ様なことが言えるのではないかと思います。多くの人は、この歩き遍路と同じように、自分の進む道を自分で選び自分で歩みます。前例のない活動をしている時などは、「これで良いのだろうか」「この選択は間違っていないだろうか」等々と、様々な不安や迷いを持って進めています。そんなとき、「それでいいよ」「間違っていない、大丈夫!」そんなことを言ってくれる人がそばにいると、どれだけ助かるかは想像に難くありません。それを言ってもらえるだけで、特別な支援がなくとも元気百倍、自分の持てる力を思う存分発揮できます。』と暮らしや社会に結び付けているところ、「本当にそうだなあ」と思いました。 本間先生が自分もそんな矢印のような存在になりたいと願っているように、私もそうありたいと思います。 返信 コメントを残す コメントをキャンセルメールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目ですコメント ※ 名前 ※ メール ※ サイト 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。 コメントに返信があったらメールで通知する。
8日目おつかれさまでした。山ばかりだと海が見たくなり、海ばかりだと山が見たくなります。人間とはそういうものですね。
暗中模索の中では、キョロキョロと視線が定まらず、足下も何かしっかり土を掴めなくて踏ん張れないためか、力強く歩けない感じでスピードもでません。一方、進むべき方向が定まっていると、歩きに力づよさやリズムができて、目的とする場所への距離が目に見えて縮まってくるように思えます。
これは人生そのものです。暗中模索してフラフラしていた学生の頃を思い出します。進むべき人生の方向・目的地が決まってからは、何をやるにもスピードとパワーが違います。目的地が決まっているので、多少間違っていてもいいかなと思いながら進みます。たとえ道しるべがなくとも、ずんずん進みます。まず目的地を決めることが大事。決めずに何となく生きている人がいかに多いことか。本間さんは、そんな人たちの道標にすでになっています。
本日もありがとうございました。
8日目で第一関門通過したのですね。
これまでずっと山岳のお遍路道だったので,海側は気分が変化するように思います。
『海が見えると,なぜか「ウオー」と声を出し前のめりになってしまいます。山を望んだときは「アァ~」って腕組みして反り返る感じになります』と,ほら,やっぱり!
全行程,スマホから流れるお経を聴きながら歩いたとのことですが,『歩くスピードに合わせてラップ調にアレンジして唱えます』と言うくだりは,どうしてもイメージが湧かず,『調子に乗って「フォー」とか「イエー」等と意味不明な声を上げたくなる』とは一体どういうお経なのか,興味津々です。一度お願いしたいです。
わずか直径5㌢程度の丸い中にある小さな道しるべ。それを見つけると安心と元気を復活させてくれ身体が軽くなるような気もする。それはとてもわかるような気がします。先生が書かれていたように,私たちが暮らす社会においても,自分の進む道を選び,歩んでいくときに「大丈夫!」と言ってもらえるだけで,前を向いて歩いて行けます。
「この道、この方向でいいんだ」という安堵感を持たせてくれる,そんな直径5㌢の矢印に先生はなっているのではないでしょうか。それは,さらにその何十キロ先を示す大きな標識の方向を向いているようにも思います。色あせてもいません。
明日からは,また心配な区間に入るのですね。1日で30kmはとてもきついと思います。足の裏も痛そうですが,膝が心配です。でも,大丈夫!きっとダイジョウブ!
私もスマイルさんと同じくだりに深く共感しました。
先生がおっしゃる「ちいさな道しるべでありたい」ということ、そう願いながら暮らしたいと思います。
また、お経のリズムが音楽のようだとお書きです。息子が檀家寺の住職の送迎をしたときに音楽の話になり、息子がバンドをやっていると話すと、住職はお経も音楽と同じようなものと話されたとのことでした。詳しいお話しは忘れたのですが、住職のお経を聞くとゆったりと心がのびやかになるような気持ちがするのです、「フォー」とか「イェー」って似合う気がします、ゴスペルも祈りですものねと、思考は飛んでいきます。
今週もありがとうございました。
お遍路道で「この道でいいんだよ」という目印の小さな矢印、それを見つけた時の臨場感あふれる喜びや安堵の記述は、誰もが共感し、また自分のことのようにホッとする文章で秀逸だと思いました。
またそれを『このことは、私達の暮らす社会においても同じ様なことが言えるのではないかと思います。多くの人は、この歩き遍路と同じように、自分の進む道を自分で選び自分で歩みます。前例のない活動をしている時などは、「これで良いのだろうか」「この選択は間違っていないだろうか」等々と、様々な不安や迷いを持って進めています。そんなとき、「それでいいよ」「間違っていない、大丈夫!」そんなことを言ってくれる人がそばにいると、どれだけ助かるかは想像に難くありません。それを言ってもらえるだけで、特別な支援がなくとも元気百倍、自分の持てる力を思う存分発揮できます。』と暮らしや社会に結び付けているところ、「本当にそうだなあ」と思いました。
本間先生が自分もそんな矢印のような存在になりたいと願っているように、私もそうありたいと思います。