OOC活動事例をお寄せ下さい(11月15日~11月21日迄の分)
先日、枯れ葉の絨毯を歩く機会がありました。冷たい空気を気持ちよく感じながら、紅葉した楓を愛でて来ました。その時の様子は、伝統的な祭りと併せてご報告したいので、少し時間を頂いてから書きたいと思っています。
今週も皆様の「おせっかい」をお待ちしています。出会いの数だけドラマがあります。些細なことと言わずにお聞かせ下さい。皆様の「おせっかい」を楽しみにしています。
上記の期間中に何編でもお受け致します。ドシドシ、書き込んでください。お待ちしています。書き込みは、この下にある「コメントを残す」にお願いします。新しい書き込みのルールは、「事務局からの連絡」に示しています。そちらをご覧下さい。
みなさん、今日は南三陸町の被災者支援制度のオリジナル、滞在型支援員として朝夕の見守り活動に励まれたHさんのお話をさせて下さい。少し長くなります。
彼女はひとり暮らしの高齢者で、自分から交流の輪に入ることが苦手な、いわゆる支援が必要とされる方でした。そんな彼女だったので、この仕組みHさんに生かせると思い滞在型支援員をお願いに行くと「責任が重いからムリ」と断られました。それでも、何度も「是非、Hさんにお願いしたい、私達と一緒に見守り活動をして頂きたいのです」と、根気良くお願いしてようやく「あなたがそんなに言うならやってみようか」と、引き受けて頂きました。
その後の活動は「みなさんが待っていてくれるから行かなくちゃ」と、実に丁寧に頑張って頂き、この様子はテレビでも放送されたほどでした。
その後、お互いに支援活動から離れて10数年の時が経ち、私は彼女に会いたいと思いながら居所も分からずにいました。ところが最近になって風の便りに彼女の居所を知り、飛びつくように会いに行ってきました。
とても久しぶりの再会にも関わらず、彼女は私の顔を見るなり「まぁ懐かしい。また会えるなんて1年ぶりかしら。よくいらっしゃったね」「まさか、また会えると思っていなかった」と目を輝かせて喜んでくれました。時間が限られていたのですが、当時を思い出すには十分な時間でした。
沢山の思い出話をしてから当時の活動の様子を見てもらうと、「これ私だ!こうして歩いたのよね、懐かしいわねぇ。良い思い出だね」と、何とも言えない良い表情を見せてくれました。私は「これからは時々会いに来ますから」と約束しました。
帰り際には「気をつけて、転んだら大変だからそこまで送りますよ」「じゃあまたね、ありがとうございました」と、手を振って見送ってくれました。
この日のHさんの様子を見れば、彼女もまた支援員の経験を誇りに他者との良い関係性を紡いで来たのであろうことが、しみじみと感じられました。そして私自身もあれからずっと支援員の心意気を持って進んで来たからこそ、胸を張ってHさんに会いに行けたのだなぁと思えました。
今回の再会でHさんは自身の輝いていた時を思い出し、さらに生き生きとこの冬を過ごせるのではないかしらという「おせっかい」の話でした。
鈴虫さん
素晴らしいおせっかいのお話ありがとうございます。
鈴虫さんとHさんのエピソードは、諦めないことの大切さを教えていると思いました。私自身もそうですが、軽い気持ちで何かに取り組むことが出来ない、そういう人ほど尻込みしてしまうものですね、昭和の教育を受けて慎ましやかにと生きてきた女性はなお更と思います。Hさん自身をも支えると信じて、鈴虫さんが諦めず根気強く伝えられその後Hさんがなさった活動がどれほど地域を支え、生きる希望の種を撒くことへ繋がっていったのかと暖かな想いのお福分けを頂きました。鈴虫さん、お幸せですね。
東日本大震災で被災した南三陸町での私達の活動は、支援する人とされる人の両者が居て成り立っていましたが、その立場はいつでも逆転するものだとその当時から感じていました。
それは、みなさんのお役に立ちたいという思いで関わらせて頂いていたのですが、支援される方たちも私を見守り気にかけてくださっていることをいつもいつも実感したからです。支援活動は、このようにお互いの関わりの中で成り立っていたのです。
ですから、支援を必要とする方にも、本人のできることを生かした滞在型支援員を担っていただき、家に引きこもらずに、何らかの役に立つことがあることを、みなさんに見てもらう知ってもらうシステムが出来上がったのだと思います。
この度、私達は再会してお互いの輝かしい時間を共有することが出来ました。それはお互いがお互いの貢献寿命を延ばすことにつながっているように思えます。私はこのワクワクする関わりに感謝せずにはいられません。
いくこさん、コメントありがとうございました。
鈴虫さん、胸に染み入る話をありがとうございます。何度も本間先生のご講義でお聞きした話、そして動画や写真も見せていただいていましたが(あれがきっとHさん、と私も心当たりがあります)、今はじめて、まるでご本人の声が聞こえるかのようにありありと滞在型支援員さんの存在を感じることができました。鈴虫さんがこの支援員制度を深く理解し、本間先生の想いや願いを体現なさったであろうことも、さらによくわかったように思いました。
活動の様子を振り返って「良い思い出だね」という言葉が返ってきたということにハッと心打たれました。うまく言葉にはできませんが、これ以上辛いことは想像がつかないという状況の中で、それを悲しみや苦しみだけで終わらせまいとすることがどれほど大変で、でもだからこそどれほど大事で尊いことか・・・本間先生は、それまでのさまざまなご経験と学びから「孤独死というさらなる哀しみを決して生み出さない」という強い強い志があったのだと思います。今回の鈴虫さんのコメントは、どんな勲章よりも輝かしい嬉しいものだったのではないでしょうか。
鈴虫さんの「私自身もあれからずっと支援員の心意気を持って進んで来たからこそ、胸を張ってHさんに会いに行けたのだなぁと思えました。」という言葉、そう思えたこと、本当に素晴らしいと思いました。
この支援制度に関わってくださったすべての方達に心からの敬意をお伝えしたいと思います。
スマイルさん
どこかのお話として聞いていたことに少しずつ肉付けされ、Hさんの実態に迫って来られたでしょうか。
会話ひとつとってもHさんはとてもいきいきとしていると思いませんか。この様な魅力的な人々との出会いが、支援員の宝だったように思います。
この人達のために何か出来る事をと思いながら、100人以上の町民が毎日新しい事を学びながら貴重な経験を積んでいました。それだけの元支援員が、今は町内の至る所で何かしらのおせっかいに精を出していると考えると嬉しくなります。
みなさんからコメントを頂くことで、それがさらに大きな喜びに膨らんでいます。スマイルさん、どうもありがとうございました。
鈴虫さんの『滞在型支援員さんのHさん』のお話を聴いて,いつだったかこのプラットホームで紹介してもらったはず・・と思い,あたりをつけて遡ってみたら見つかりました(あたりのつけかたは,ちゃんと根拠に基づいています。(笑))。
2022年12月5日の記事で,タイトルは『高齢者の役割づくり(南三陸町滞在型支援員制度)』となっていました。そこに実際にテレビで紹介されていた映像もあり,これまでは仮設住宅で引きこもりがちで見守られていた人が,巡回型支援員さんに『自分でもできることがあると感じてほしい』と何度もお願いをされ,今度は自分が支援員として活躍!
毎日,自分のペースで仮設住宅を回ってそれが楽しみとなり,そこに住む方たちも『もう来るかな,来るかな』と心待ちにされていた様子がよくわかりました。テレビは,2012(平成24)年2月7日に放送されたものですが,当時Hさんは80歳を超えていたようなので,鈴虫さんがこの間会いにいってきたHさんは90歳を超えていたのですよね。
でも,『1年ぶりかしら・・』と思うくらいに鈴虫さんのことは鮮明に覚えていて,当時のお話のやりとりはどんなにかどんなにか嬉しかったことでしょう。居場所がわかって,ほんとうに良かったですね。そして,すぐに会いに行った鈴虫さんのおせっかい,とっても素敵だと思います。ぜひこれからも何度も会いに行ってくださいね。
そう,きっとHさん,自身の輝いていた時を思い出し、さらに生き生きとこの冬を過ごせるのではないかと私も思います。
鈴虫さんの今回のコメントで,改めて震災後に南三陸町で行われた住民さんによる支援員制度に触れることができ,昨年12/5の記事の最後に先生が書かれていた『こうしたことを、高い確率で発災が予測されている「南海トラフ巨大地震」への備えとして学んでいただきたいです』ということ,ほんとにそうだな~と思った次第です。
鈴虫さん,ありがとうございました。
ハチドリさん、コメントありがとうございました!
南三陸町の被災者支援制度のシステムは机上の空論でなく、本間先生の智慧に我が町の沢山の事例と対応の繰り返しから導き出した、きめ細やかで配慮に満ちたものと思いますので、是非よその土地でも参考にしていただき、其々の土地柄にあわせた工夫を加えて頂いたらオンリーワンの支援策になるのではないでしょうか。なんて、、、私の策ではないけど。
そうですよね、本間先生😅