OOC活動事例をお寄せ下さい(8月30日~9月5日迄の分)+津島deシネマ
今年は、例年になく厳しい残暑が続いています。二十四節気のひとつ処暑(8月23日頃~9月6日頃)、暑さがおさまる頃なのですが、何となんと、28日(月)は、仙台で今年最高を更新する36・8度を観測しました。
残暑お見舞いを送る時期は、8月8日(立秋の日)から8月いっぱいが相場のようです。今年は、まだまだ「厳しい残暑」が続き、残暑お見舞いと言いたくなるような気がしています。とはいえ、朝夕はこれまでのようではなく、涼しいとは言いませんが、だいぶ暑さが和らぎます。寒暖の差は自律神経の負担を増し、体調を崩しやすいです。ご注意なさって下さい。
あっという間に一週間が過ぎました。今週もまた、皆さんの孤軍奮闘している「おせっかい」の投稿を楽しみにしています。典型的な「おせっかい」だけに留まらず、様々な日常の細な出来事を等々、日々淡々と過ぎていく一日一日を丁寧に過ごす為の振り返りの機会としても、「些細な出来事」との関わりもお待ちしています。近頃は、メールで盛り上がっているようですが、こちらにもその盛り上がりをおすそ分け(お福分け)して下さい。
上記の期間中に何編でもお受け致します。ドシドシ、書き込んでください。お待ちしています。書き込みは、この下にある「コメントを残す」にお願いします。新しい書き込みのルールは、「事務局からの連絡」に示しています。そちらをご覧下さい。
前回、津島deシネマ(野外映画会)のボランティアスタッフとして、映画会開催の準備として行われた野外映画会の会場となる旧津島小学校校庭の草刈りに行ってきましたと、ご報告しました。今回は、本番(8月26日)の様子をお伝えします。
11時30分集合でしたが1時間近く早く現場の旧津島小学校に着きましたが、本番でも「なみえコミュニティシネマ実行委員会」の中心で活動している方は、誰よりも早く現場に来ていました。前回にお会いしたときに話していた、様々な方々のご支援を頂きつつも「「自分の手で皆さんをお迎えしたい」という姿勢は今回も貫かれていました。
なみえねっぱす隊の皆さんも参加されており、映画会の運営にご尽力されていました。地元に長くいるだけあって、実行委員会のメンバーとも旧知の仲という感じで主要な役割をいました。私は、下っ端のにわかボランティアなので、「言われたことを精一杯」の姿勢で関わらせていただきました。11時30分過ぎに、「なみえコミュニティシネマ実行委員会」の代表から挨拶があり、続いて会場準備の役割分担や大まかな日程が説明されました。それ以降会場準備等々に汗を流し、映画終了後の撤収を行い、最終的には22時頃に解散となりました。
会場準備の主な内容は、観覧席のパイプ椅子並べや休憩及び懇談スペース用のテント設営、そして救護所(ハチドリさんの活躍の場)の設営等が主な内容でした。私の役割分担は、会場設営と会場(旧津島小学校)と駐車場(旧津島中学校)間800mの誘導用照明の設置です。
会場設営としては、休憩及び懇談スペース用のテントを会場から少し離れたところにある、つしま活性化センターから運び入れ、設営を行いました。そのあとは、救護所の設営に加わり、更には食事等を提供するブース用のワンタッチ型のテントも立てました。これで野外映画会の会場の外観は整う状況になりました。その間、同時並行的に、食事などを提供するブースでは、各事業者の手で着々と開店の準備が進められ15時には住民人をお迎えする準備は全て整えられています。
野外映画会会場には、キッチンカー3台、洋服屋1台、グッズ販売1店舗、食べ物販売5店舗及びドライフラワーワークショップ1ヶ所、整備され住民をお迎えしています。其他、野外映画と共に重要なブースである「津島のこれまでとこれから」と題するトークセッションの場が設けられ、映画が始まる前に、地元の方三名よる津島愛を語って頂きました。そこでは、主として浪江町津島地区に古くから伝えたれている、「田植え踊り」の伝承に関するご苦労が語られています。
浪江町津島に伝わる民俗芸能の田植踊は、国の選択無形民俗文化財及び福島県指定無形民俗文化財に指定されています。今から約200年前に会津盆地で創められ、其れが次第に浜通りに伝わったと言います。本来は、神楽と田植え踊りが一対で各戸一軒一軒廻って豊作祈願をするものでした。今日では、厄年のいる方の内を廻ったり地域の有力者の家を廻ったりしていたと言います。
この田植踊は、浪江町津島の、上津島、下津島、南津島、赤宇木の四つの集落に伝わる豊作祈願の予祝芸能(よしゅくげいのう)です。「予祝」とは、あらかじめ祝福する(農作業のあらましをあらかじめ一通り演じて順調に稲が実るように祈願する)ことで、そのことの実現を祈るもので、その背景には言霊の信仰・思考法があると言われています。
本来は、女人禁制の踊りでしたが、後継者問題が深刻になり、この伝統を継承する為に、震災後に女性も加わることになったとのことです。その際、その厚い伝統の扉を開けることに一役買ったのが南津島出身の大学生です。継承のきっかけになったのは、8歳まで南津島で育ち、原発事故で避難して浪江を離れています。
その学生が田植踊を始めたのは2018(平成30)年、中学3年生のときでした。伝統的に踊り手は男性と決まっていましたが、避難で住民は離散し、人が足りず、保存会の方から踊り手として誘われたと言います。保存会の代表は、「女性や津島以外の人を入れ、継承させていいのかと不安と抵抗を感じた。でも避難でいつ帰れるか分からず、住民だけで継承するのは難しい。踊りを知る人もほとんどが高齢者だ。『やるなら今しかない』とみんなで決めた」と、当時を振り返っていました。
その学生は、東北学院大学に福島県の伝統芸能を研究されている先生がいるので、その先生に指導を請いたくて東北学院大学を選んだと言います。この様な縁を聴くと、学問が伝統の継承や其れをするために厚い扉を開けることに大きな役割を担ったと言えます。学問とは、この様なものなのだと改めて感じる話でもありました。
一時期、大学教育に身を置いたものとして、例え、大学教員を終えたとしても、若者と接するに際しては、この様な振る舞いが出来るようにしたいものだと切に思いました。
私は、会場設営の他に大きな役割として、映画会場と駐車場の間800mの連絡通路の照明があります。映画会会場、駐車場及び其れを繋ぐ道路に、街路灯などの照明は全く、持ち込みの照明器具に頼らざるを得ない状況でした。
津島地区は、東京電力福島第1原発事故に伴う帰還困難区域のうち、浪江町の特定復興再生拠点区域(復興拠点)の避難指示解除が今年の3月31日に行われたばかりの地区です。街灯がない、人が住んでいる気配がないのも当然と言えば当然の様な気がします。
この様なことから、800mの間には、ガソリンエンジンで発電して明かりをつくる「バルーン型投光器」8台、その間を繋ぐ電池式電灯40個及びソーラー型電灯20本を設置して、夜間の通路を安全に歩けるようにしています。私や他の皆さんと一緒に、その設営及び撤去を行いました。
バルーン型投光器は、初めて操作したのですが、たまたま設置しているときに、その操作方法を聞いたので、なんの問題もなく行えました。とはいえ、バルーン型の投光器や其の他の照明器具が確実に点灯しているかどうかは、確認が必要なので、映画上映中に何度か確認して廻りました。
映画終了10分前に、何らかのトラブルで消えていたのでは大変なことになるので、最終確認を行うべく点検をしていました。その為、映画のクライマックスは知らないのですが、あとから皆さんとても感動していたとか、涙なくして観られなかった。さらには、最後のシーンで激しいジャズの音色と共に発光するシーンでは、スクリーンの向こう側にある山付近で稲妻が走ったようで、其れを見た住民は「神様が降りてきた」と語っていたと聞きました。
私は、そのようなことは全く分からず、バルーン型の投光器等を点検して廻りました。そして、住民が帰り始めてからは、校門付近にいた実行委員の方に「歩道は道が荒れているので、車道の真ん中を歩くように」とお願いして、旧津島中学校に向かい、帰路を急ぐ自家用車の誘導をしていました。自家用車は、暗い中でバックしたり、左右から車が出口に向かったりしていたので、大変危険だと判断し、バックの誘導や左右からの車両を止めたり進めたりの手信号で誘導していました。その後、全ての車が帰ってから、バルーン型投光器のエンジンを止め、小さなライトを回収して廻りました。途中から心配して迎えに来てくれたハチドリさんと合流しバルーン型の投光器確認を行い、更に皆さんが作業を終えて待っていると車で迎えに来てくれたなみえねっぱす隊の主要メンバーに拾ってもらい旧津島小学校に戻りました。皆さん既に作業を終了し私の帰るのを待っており、遅くなってしまい大変ご迷惑をおかけしてしまいました。貴重な時間を待たせてしまい申し訳ありませんでした。
この様な感じで、私の津島deデシネのボランティアに徹した一日は終了しました。ホテルに戻ってからは、ビールでご苦労さんをして、心地よい疲労感の中で深い眠りに入りました。携帯していた歩数計を見たら、会場と800m離れた駐車場を歩き回っただけの狭い空間でしたが、15㎞(約1,000㎉消費)程歩いた計算になっていました。
夏祭りのような写真の向こうに、ねっぱす隊のみなさんや先生の姿を感じて幸せな気持ちで読ませて頂きました。
照明器は町内会の夏祭りで使われていたあれだなぁと想像しながら、先生の安全対策の様子は町内会の防犯部と交通安全協会のみなさんの様子を思い出しながら、暑い中での運営に頭が下がる思いです。映画会に参加されたみなさんの心に長く残る夏の思い出でとなることと思います。
ちょうど今朝のラジオで、東京新宿のオフィスビルで行われている会社対抗のカラオケ大会の話を聞きました。昭和から続く夏の行事で主催はビルのオーナー、災害などの非常時に助け合えるように、コミュニケーションの場として続けてこられたとのこと。シュレッダーの紙吹雪が舞い予選を勝ち抜いたチームが歌う舞台は本格的な装置が整えられ、客席には同じ会社の応援団が声援を送る盛大なものだそうで、この大会に出たいために入居するテナントもあるとか。
大変だけど、やっぱりお祭りっていいなぁ、関わった思い出は何ものにも代えがたいですもの。
いくこさん、『スクリーンと観客席』と言うタイトルの写真をもう一度見てください。真っ暗闇の中、映画はクライマックスで音も映像も超盛り上がっている時に、遠くに見える山の向こうが何度か光ったんです。まさに『神様がおりてきた』と言う感動を味わうことができました。
昨日、実行委員長からアンケート結果が届きました。様々な所から参加してくださっていたようでした。感想のほとんどが『楽しかった!』『素晴らしかった!』と言う言葉が書かれていましたが、『この12年間止まっていた広大な山や自然の中に、これだけのスクリーンと音響を作り上げ、今間違いなく熱気や音に溢れていると思うとすごく感動しました。この音はどこまでも届くような気がして最高でした』と言う感想に私は感動してしまいました。
中には『帰り道の夜道を照らす光源も雰囲気がありました。諸々準備をありがとうございました』と書いていた方もおり、そこは本間先生が私物の穴掘り器具を持って来てソーラーライト設置してくださったところで、こちらも胸が熱くなりました。照明がないと漆黒の闇になるところ。この場を借りて、先生、本当にありがとうございました。
いくこさんが書かれていた『映画会に参加されたみなさんの心に長く残る夏の思い出でとなることと思います。』は、本当にそう思いました。暑い夏の日でしたが、参加して本当に良かったと思いました。
本文を読み、本間先生のまさに「陰ながらのご尽力」に言葉もない、というくらい圧倒されていましたが、私物の穴掘り器具持参してまで、だったとは・・・。みんなが心ひとつにして感動したという奇跡のクライマックスシーンを、はるばる宮城から駆けつけた本間先生にも共に味わってほしかったなあ、と思いましたが、こういう協力があるからこそ、最後まで無事に大きなイベントを終えることができるのですよね。
私なら「最後まで見てから・・・」と思ってしまいそう。でもやっぱり、運営側だったらそこは諦めたのかな・・・。なんだかそんなことを考えながら読みました。いろんな方の熱い熱い想いがあって大成功に終わったこと、本当におめでとうございました。
アンケートの「帰り道の夜道を照らす光源も雰囲気がありました。諸々準備をありがとうございました」という感想を読ませていただいて「ああ、気が付いてくださってありがとうございます!」と思いました。
スマイルさん、少し涼しい夜になって映画が始まったから、救護所には誰も来ないかもと思い、そっと抜けて映画が見れる所に移動して見ていたら、『ダメです。戻るように』と先生からの連絡があり、スゴスゴと戻りましたが、最後のクライマックスの音には負けてしまい、救護所が見える範囲の場所に移動し、私は「神様が降りてきた」ところまで見ていました。
でも先生は、その時には皆さんが帰る駐車場の方に移動していたのですね。(ホームページを読んでちゃんと把握したと言う現実😅)
街灯は形はあるのだけど、12年そのままだったので実際は灯りは無く、実行委員長さんの電池式のローソクと先生が設置してくださったらソーラー式ライトは本当に暗闇を照らしてくださいました。