プチ誕生秘話(南三陸病院)

南三陸町の生命線である公立志津川病院は、東日本大震災で4階まで波が上がり病院機能が停止しました。震災後直ぐに、緊急時の活動を得意とするイスラエル国防軍(IDF)の医療チームが南三陸町に入り、仮設診療所を設置し、およそ2週間にわたり医療活動をしています。その後、平成23年4月18日に公立南三陸診療所を開設し、同年6月1日には、南三陸町の中心地から内陸に約20キロ離れた登米市立よねやま診療所の空いていた入院病棟に「公立志津川病院」の看板が掲げられ、登米市米山町に公立志津川病院を開設しました。

そして、台湾を始め国内外からの多くの支援のおかげで、平成27年12月14日に南三陸病院として本設復興し現在に至っています。これから書くのは、台湾赤十字からの多額の支援を下にして整備が進んだ「南三陸病院」プチ誕生秘話です。

ことの始まりは1通のメールからです。日赤本部の宮城県担当の方と何度かお会いして南三陸町の現状や課題等について情報提供や意見交換をしていました。その方から、台湾日赤が、東日本大震災被災地への支援を考えており、その支援先及び具体的な支援内容を探しているというものでした。彼らの想定している支援先は、被災三県で宮城県の沿岸部被災市町も想定されており、市町あたり1億円程度で公営住宅の整備等を考えているというものでした。その上で、南三陸町の様子を知りたいという趣旨のメールでした。台湾赤十字の意向を仲立ちして被災地を回っていたのは日本赤十字(日赤)で、福島県南相馬市で整備した長屋型公営住宅は、日赤の補助を入れて整備しており、その成功体験などから「公営住宅」が例示として出てきたのだと思います。

私は、南三陸町の概括的な状況をおはなしした上で、南三陸町が今必要としているのは「病院」の再建だと告げました。町内には診療所を再建し、入院設備は登米市に間借りして行っている状況なので、南三陸町住民は、地元に入院設備がなく不安な状況で病気と向き合っている、と言いました。また、例示の公営住宅等は、公的に整備が進められるので時間の問題だけで、急ぐべきは病院だと。

しかし、病院となると多額の費用が掛かるし、台湾日赤では想定していないとの回答でした。それは当然で、限りある財源でできるだけ多くの被災地を支援したいというのは当たり前です。そんな中で、独り占めするような提案なので戸惑うのは想像に難くありません。それを分かりつつも、他の被災地との違いなどについて、私自身が実際に住民と関わった事例や集団避難時の住民の他市町村に身をあずけなければいけない心細さ等々を訴えました。将来にわたる記憶に残る支援のあり方などについて、何度も意見交換をさせて頂きました。

最初にメールを頂いてから1ヶ月ほど過ぎた頃から、照会の内容が具体的になってきました。予定地は決まっているのか?事業規模はどの程度か?医者の確保は?等々です。私は、これまでに聞きかじった情報を下に独断で「全てクリアーしている」と応えました。それから更に具体的に聴かれるようになったので、私は「脈有り」と判断し、これまでの細かな経緯はお話しせずに「台湾日赤で支援先を探しているとのことなので引き継ぎます」といって保健福祉課の職員に引き継ぎなした。

当初は、良くある海外からの物資支援程度にとらえていたのか、さしたる関心も示していないような印象でしたが、これまでの日赤経由で上がっていた情報を下にして具体的な質問が公式に行われるようになり、町としても「脈があるかも?」に変わっていきました。その過程で、病院の規模と建設費を試算するために、若柳にある病院に出向き、設計図と建設費のデータをお借りするなどのお手伝いをしました。

この様な形で極めて具体的な受け入れ準備が整っているアピールをし、遂には台湾日赤の現地視察団が南三陸町を訪問することになりました。その際は、南三陸町だけではなく気仙沼市等も訪問しています。

そのような中で、何とか南三陸町の対応に良い印象を持って頂きたくて、県庁の国際交流課に、台湾の方が好きな色嫌いな色や台湾の方が自慢している場所等を聴いたりして、南三陸町がつくるプレゼンの参考にして頂きました。

私は、プレゼンなどには参加できないので、何かできないか考え、台湾の人が好きだという赤色を何とかつかおうと「オクトパス君」をお土産に用意しました。また、生活支援員に中国から南三陸町に嫁いできた方がいたので、その方にオクトパス君の由来を中国語に翻訳してもらい、それをつけてお土産にしてもらいました。一連のプレゼンが終わった後の帰り際にお土産を渡したところ、おおいの喜んで頂いたと聞いています。

南三陸町の視察以降、話はトントン拍子で進み、日本に予定していた支援額の多くを南三陸町の病院建設費用に頂けるようになり、南三陸病院再建が具体的に進められる大きな契機となりました。こうして、南三陸町及び日赤の丁寧な対応で台湾日赤から多額の支援を頂き、今日の南三陸病院となっています。

お詫びです。これまでの記述で分かるとおり具体的な日日等が書かれていません。実は、パソコンを買い換えた時点で過去のデータが上手く移行できず、様々なデータや記録していた大切なメールが消えてしまいました。この為、曖昧な記憶で書くのもいけないので、いつ頃の話なのか等の数値データのない記述になってしまいました。大まかなお話しだけになってしまい申し訳ありません。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

プチ誕生秘話(南三陸病院)” に対して1件のコメントがあります。

  1. 鈴虫 より:

    今現在、南三陸町民が健康不安を抱えて向かう病院がこの様な経緯で再建されたことをここに記録して下さって、ありがとうございます。

    先日の保健センターといい、南三陸病院といい、初めはそんな大規模なご支援の申し出ではなかったとのこと。もし、そのご支援を申し出通りの細々とした使い道でお受けしていたら、この町の医療はまだまだ再建に時間がかかっていたことでしょう。

    そして、本間先生が大筋を決めた後に地元の人材にバトンを渡し、さも町民が初めから成し遂げたと思わせるところが、本間先生の黒子魂なのではないかと心から尊敬と感謝の気持ちです。

    台湾の方の好きな赤色のオクトパス君をお土産に用意する細やかな心遣いにも感心いたしました。私はその時に中国語に翻訳した支援員と一緒に仕事をしていました。彼女は日常会話には殆ど困らないくらい日本語が話せていました。でも、被災者を訪問して、その感情に寄り添う微妙な言葉が上手く使えませんでした。

    例えば「家族がまだ見つからないの」と聞いた時、「その方は死にましたか?」というストレートな言葉が出てしまうのです。悪気はなく育った文化の違いなのです、本人もとても苦労したと思います。

    それでもサテライトの皆で話し合って、彼女ならではの強みを発揮してもらおうと、集会所で太極拳の先生になってもらったりしました。そんな時、本間先生から彼女に中国語の翻訳の依頼があり、くだんの大切な仕事に関われたのです。短期間でとても気を遣うミッションだった様ですが(本間先生の要求が高くて)、それを終えて戻った時の誇らしげな表情が今でも忘れられません。

    彼女が休みの日に、みんなに振る舞ってくれた餃子は、本当に美味しかったです。そんなことを懐かしく想い出しながら読ませていただきました。

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