南三陸町被災者支援で出来なかったこと(「弁当プロジェクト」)
2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災で、南三陸町は甚大な被害を受けました。最大避難人員は、2011(平成23)年3月19日に、消防団などによる状況把握により、33の避難所に9,753人(全町民の55.2%)が確認されています。ライフラインの水道は、町内全域で断水。一部地区の仮通水(飲用不可)から復旧を開始し、8月中旬にほぼ全域を飲用可能として復旧しました。また、電気は、町内全域で停電。平成23年4月中旬から復旧が開始され、同年5月末にほぼ全域で復旧となっています。ライフライン断絶を考えると、南三陸町民全員が被災者と言っても過言ではない状況でした。2011(平成23)年2月末日現在住民基本台帳の人口は17,666人(5,362世帯)でした。
災害が発生すると真っ先に行われるのが衣食住の提供です。避難場所(住まいの確保)の設置と飲料水及び食事の提供は待ったなしで行われます。飲料水や食事は、初動時は自衛隊によって行われます。その後、被災自治体が行うことになります。ここで、触れるのは食事についてです。当初は、いわゆる「炊き出し」として提供されます。その後「弁当」等によって提供され、仮設住宅が整備されるまで続きます。南三陸町の応急仮設住宅は、4月下旬から提供が開始され8月下旬までで全員が入居しています。
南三陸町だけではありませんが、多くの被災地では、周辺市町村や県外に食事を発注して被災者に提供しています。よく「冷たい弁当」と指摘されるには、搬送時間を必要とすることに起因しています。戸倉地区から登米市横山地区に避難した人たちは、避難当初から「暖かい食事」が提供されたと言います。それは、横山地区には戸倉地区の住民と縁戚関係にある方々がとても多く、地域住民が率先して被災者をむかいいれてくれたからです。でも、このような状況が南三陸町全域で行われたとは言いがたく、どうしても「冷たいおにぎり」が毎食提供される等々が起きてしまいます。
こうした状況下で提案したのが「お弁当プロジェクト」です。被災者支援を行っている担当補佐を介して「お弁当プロジェクト」の提案をしました。南三陸町で食堂などを経営していた方々にまとまって頂き、被災者の弁当を作り提供してもらおうと提案したのです。
食堂などの経営者の多くは、津波で営業できなくなっていました。この為、その人材を生かして被災者への食事提供を担ってもらおうと考えたのです。これは、キャッシ・フォー・ワーク(被災者支援に要する資金を地元に落とす)の考え方でもあります。登米市に調理場所を設け、食材は近隣の大崎市や栗原市から提供してもらい、南三陸町の食堂で働いていた方々や経営者が弁当を作り南三陸町に運び入れると言うものです。登米市からだと移動時間は30分程度です。
しかし、結論から言えば、「弁当プロジェクト」が出来ませんでした。帰ってきたお話の概要としては、「協同」で作るというのは難しく、それぞれの事業者個別に食数を発注してもらうのであればやれるかもしれないと言うものでした。
私が、提案の下にした「弁当プロジェクト」とは何かをお話しします。これは、災害発生時に被災した地元業者などが連携して、被災者向けに食事を弁当として提供する事業のことです。
この「弁当プロジェクト」は、2004年の新潟県中越地震の被災地である小千谷市の鮮魚商組合が実施したものに端を発しています。小千谷市では当初、被災者への食事提供を新潟県に依頼していた。しかし、遠方から渋滞の中を長時間かけて運ばれた弁当の一部からは異臭がするなどの問題が生じた。このため、小千谷市はなんとか地元で弁当が作れないかと考え、地元の鮮魚商組合に相談したことがきっかけなっています。
プロジェクトの開始は地震から2週間後、受注個数は8000食であった。被災地はようやく水道が使えるようになった程度で、ガスはまだ全域で停止していて、組合員の中には建物が全壊して調理場が使えない者もいた。このような中、わずか20程度の業者で8000食を提供するというのは並大抵のことではなかった。そこで組合では、プロパンガスを使っていた2社に煮炊・揚げ物など火を使う行程を担当させ、他の業者では冷凍食品を詰める作業を行うなどの分業を行った。店舗が全壊した事業者は地元の卸売市場に作業場所を借りた。炊飯は地元の大手米菓企業が一手に引き受けています。このように様々な地域の業者が、被害を受けながらもそれぞれ可能なことを協力して行い、プロジェクトを無事成功させたのです。
このノウハウは、2007年の新潟県中越沖地震の被災地である柏崎市の鮮魚商協同組合に引き継がれた。柏崎の最大の特徴は、行政からのニーズへの対応という形ではなく、市内で弁当の製造が可能な業種組合のほとんどを巻き込んだ言わば「全市体制」で自主的に動き出したことにあります。その結果、電力会社やガス協会などライフライン事業者向けの弁当を受注することに成功しています。仕事をつくるという意味では、被災者向けにこだわる必要はない。弁当プロジェクトは、行政に依存したものではなく地域の自立的な取り組みとして進化を遂げました。
弁当プロジェクトがもたらすのはお金だけではありません。小千谷のある事業者はプロジェクトを通じて「息子が後を継ぎたいと言ってくれるようになった」と、プロジェクトの効果を語る方も出たと言うことです。弁当プロジェクトの本質とは、被災者を「お客様」扱いするのではなく、彼らの持つ技能とネットワークを発揮し、自分たちの地域の復興に自分たちで動き出すことなのである。お金はそのことへの対価として与えられるに過ぎない。プロジェクトを通じて得られる自らの仕事や地域への誇りは、お金では決して買えないものです。
「弁当プロジェクト」の仕組みは、何も弁当の枠にとどまるものではありません。経済復興にも地域の「つながり」が大切です。被災地で必要な物資やサービスはいくらでもある。ラジオ、電池、ブルーシート、衣料、医薬品、マッサージ、保育、等々。こうした被災者のニーズをうまく地元の被災事業者とつなげることが大切です。
しかし、弁当プロジェクトのような仕組みを素早く立ち上げるためには、地域の事業者間の平時における連帯や協働が必要なのは言うまでもない。地場産業、地元商店など中小零細事業者が災害時に生き残るためには、地域と一体となってその事業の継続を考えなければなりません。「弁当プロジェクト」はそのようなメッセージも我々に伝えています。
『弁当プロジェクト』が実現出来なかったことは残念でした。
さらに、先生が町に提案したことの80%が実現出来なかったとのことですが、それらの多くを阻んだものは町民の自主性と機動力の乏しさだったのかも知れないと残念に思いました。
でもあの当時、先生が町中に撒いてくださったタネは今確実に地域に根を下ろして小さな芽を出し始めていますね。
例えば華日和さんのがんサロン、みなさんご存知の通り彼女は地域に必要な居場所を行政をあてにせず自力で立ち上げました!
それに続けと私自身も、認知症の方とその家族が集える居場所(地域カフェ)を構想中です。
これまでの行政が町民の為にという常識から逆転し、町民が地域のためにという発想がまるで一から自分で始めたように自然に発生しているのです。
これはほんの一例に過ぎません。地域を想う気持ちは確実に多くの町民の心に育まれていることを実感することが出来ます。
ですから先生、時間がかかっても新しい芽がふきだす時を楽しみにお待ち下さい。
ここに私の好きな言葉を送ります。
『種をまいて一日で咲く花などありません。』種をまいて芽が出て花が咲くまで、時を待たなければなりません。
(塩沼亮潤大阿闍梨)
新潟県中越地震の時の小千谷市の話を新潟県の人から伺ったことがありますが,この『弁当プロジェクト』のことは知りませんでした。きっと他にももっともっと平時の時から知っておいたらいいという災害時の経験や実績がたくさんあるのだと思います。どうしたらそれがシェアできていくのでしょう。もっともっと知られ,話題になっていたら,いざという時に役に立つことは絶対にある!すごくもったいない事例が埋もれていますね。
でも私はここで,この『弁当プロジェクト』のことを知ることができて,良かったなと思います。
大変感銘を受けながら読みました。小千谷市に端を発した「弁当プロジェクト」はたくさんのことを私たちに教えてくれます。「プロジェクトを通じて得られる自らの仕事や地域への誇りは、お金では決して買えないものです」という本間先生の言葉を深く頷きながら読みました。災害時に関わらず、それこそ人生の生きがいというものだと思います。
また、このようなプロジェクトが受け入れられ成功するためには、平時からの連帯や協働が不可欠ということもその通りだと思いました。日ごろから自分が住んでいるところで緩やかにでいいから繋がっていることは、「災害時を無事に良い形で乗り越えるため」にも、「地域での暮らしを営みながら自分の人生をより良くするため」にも、何より大切だと感じながら読ませていただきました。