南三陸町で出来なかったこと(其の一)
東日本大震災で南三陸町に行くようになったのは、沿岸部被災地に手紙を出して受け入れの返事をくれたのが南三陸町だった。それだけで甚大な被害を受けた南三陸町に赴いたので、以前から特段の関係があったわけではありませんでした。このようなことから、南三陸町保健福祉課に席をおいても特別役割が決められていたわけではなく、職員の様子を見ながら仕事を探していました。
私が、南三陸町に入ったときには、既に東京都や姉妹都市の方々が、それぞれの市町村名を付したビブスを身に付けて支援活動をしていました。この方々は、派遣出来ているので、事前に役割が定められ、前任者との引き継ぎなども行われ、着々と仕事をこなしていました。
そのような場所に行った私は、課長補佐の隣に席を与えられ聞き耳を立てながら過ごす毎日でした。この為、南三陸町で私が行った支援活動は、全てが自発的な聞き耳を立てて感じ取ったオリジナルの支援活動です。この辺のことは、このシリーズが始まった当初に書いています。
そんな中で、提案しても賛同が得られずに出来なかったことも多々あります。私の感覚では、80%は出来なかったように思います。今回は、その出来なかった内容について書きます。
始めは、被災者生活支援センターの制度設計をしたときに組織図も作っています。その際、被災者生活支援センターの事業に対して、住民の声も反映したいと思い、自治会会長等々を構成員とする委員会を提案しています。被災者支援センターは、委託料が1億円を超えていました。また、初めてのことなので住民の意見を反映したかったし、被災者支援活動を住民にも知っていただき、協力してもらう必要があると考えたからです。
しかし、この提案は行政にも社協にも却下されました。行政は、住民の意見を聞いていたらどんな要望が出てくるか分からない、止めた方がいい、と言うものでした。また、社協は、そのようなことをやっている余裕はない、というのが理由でした。私は、提案するだけで、無理に押しつけるという考えは持っていないので、引き下がり一般的な事務分掌・組織図を作り、本部及びサテライトを設けてアウトリーチで被災者支援を行う設計を書きました。
当時、県では、中越地震の時に整備された相談センターをモデルとした相談センターを国から示され、それを元にして被災市町村に設置を働けていました。私は、それでは被災住民に寄り添った支援活動は出来ないと考え、アウトリーチ型の支援センターを設計しました。そもそも、県が来る前に設計は進めていたので、相談センター的な組織を進めていたことは後から知りました。
被災当初に提案した住民の意見を聴きながら事業を進めるという考えは受け入れられませんでしたが、その時から大分時が経った2018(平成30)年6月12日に「結の里運営協議会」として実現しています。結の里が進める各種事業について住民から意見を頂く機会が設けられています。提案から7年越しの実現です。
でも、このとき私はこの組織の設置に深くは関わっていないので、多分全くのオリジナルと思っていると思います。いずれにしても、このような組織が設置されて住民の意見を反映しながら、被災者支援や地域福祉の推進が図られることはとても大切なことだと思っています。7年越しに実った住民に参画の組織で私としてはとても嬉しいことでした。