被災者生活支援センター始めの一歩(「奇跡のおばちゃん」誕生)

東日本大震災の発災から1か月ほど経過した2011(平成23)年4月下旬、南三陸町で最初の応急仮設住宅への入居が始まると聞き、4月中旬には「被災者生活支援センター」の設置を被災者支援の担当課である保健福祉課に提案しました。このことは前回の記事に書いたところです。

担当の課長補佐の尽力により生活支援員100名規模を要する被災者生活支援センターの設置及び運営に要する補正予算が可決され、速攻準備に入りました。委託先は、地元社会福祉協議会に決まり、職員の採用や社協内部の人選などが進められました。当時、社会福祉協議会は、災害ボランティアセンターの運営に忙殺されており、被災者生活支援センターの設置運営は、相当負担の多い事業だったと思います。また、その事業内容については、急に振ってきたような事業なので戸惑いも多かったと思います。しかし、当時の事務局長や事務局次長の適切な判断で、迅速な意思決定が行われ、早急に担当者が決まり準備に入りました。

町の人口規模1万7千666人(2011.02現在)の南三陸町社会福祉協議会は、職員数は少なく、典型的な小規模社会福祉協議会でした。そのような中で、社会福祉協議会の30代なかばから40代前半の女性職員1名が被災者生活支援センターの責任者に専任されました。その方は、その時点で100名規模の事業所を実質的に任されることになりました。被災した市町社会福祉協議会に、ほぼ共通していたのですが、災害ボランティアセンターの運営スキルは、基本的な事はほぼ習得していました。しかし、被災者生活支援センターの運営や大量の職員の管理スキルは、ほぼ皆無という現状でした。そのような中で、これまで人事管理の経験がほぼ皆無の職員が、突然100人もの部下を持ち、無知の世界である「被災者生活支援センター」の運営を任されるのです。その苦労たるや想像するに余りあります。

この様な中で、様々なシステムの運営を提案しサポートしたのです。最も重要なサポートは、「被災者生活支援センター」の運営やその性格を端的にそしてわかりやすく説明する為に示したの「三層構造」による被災者支援システムの提示です。よく、見られる様々な矢印の一杯あるシステム図は現実的ではありません。あの混乱期にあって、組織的な仕事の経験がほとんどない住民にこの役割を担ってもらうためには、細部にわたる説明は百害あって一利無しです。どこに向かっていくのか、何をしたいのかの大枠を示し、その理解を下にして少しずつ具体的な内容に入っていく必要があるのです。このことは、住民が担う生活支援員だけではなく、責任者である社協の職員に対しても必要な事でした。

このような基本設計を下にして、20人に満たない数人を先行採用しました。2011(平成23)年7月19日、生活支援員第一期生の採用及び研修が行われました。この日をもって、南三陸町被災者生活支援センターが設置されました。以前にも書きましたが、岩沼市の7月1日開設に続く、二番目の早さで設置されました。でも、組織の規模(職員数)やシステムからして、事実上の宮城県で初めての本格的な被災者支援センターの設置と言って間違いないと思います。

この生活支援員第一期生は、後の主任生活支援員の候補生となる住民が多く応募してくれました。100人もの被災住民を主戦力とする南三陸町被災者生活支援員の人財育成は、一気に100人もの人財を養成することは現実的ではありませんでした。その為、多くの生活支援員のまとめ役となる、サテライト支援センターの責任者である主任生活支援員を徹底的にしごき育成し、彼らの力を生かしてサテライト支援センターの管理を進めてもらい、そこに所属する生活支援員の育成もある程度担ってもらうシステムにしたのです。

この為、南三陸町及び登米市に設置された6箇所のサテライト支援センター(南三陸町被災者生活支援センターの出先機関)の責任者となる主任生活支援員は、とても苦労しました。被災者支援に関する何の経験もない地域住民が、突然、部下10人程の管理者になるのです。この主任生活支援員は、誰よりも多くの涙を流し、責任に押しつぶされるような想いをしながらも、南三陸町の復旧・復興に、持てるありったけの労力を注いだのです。

人財育成のプログラムは、当時ありませんでした。県社協に行って指導を仰いだりしたのですが、県社協は勿論のこと全国社会福祉協議会にもなかったのです。この為、3級ホープヘルパー養成のテキストなどを参考にしたりしながら独自に3日の研修プログラムを作成しました。今回の投稿では、当時の研修プログラムや研修の時の様子を掲載します。講師には、南三陸町に支援に来ていた医師や役場職員、そして社協職員が担いました。私も、少々加わり行いました。

一日の研修の最後には、グループワークを行い、一日の学びを自分の言葉で話してもらうようにしました。採用された生活支援員は、この時間が一番イヤだったと語っています。わかるような気がします。でも、私にはこの時間がとても大切で、皆さんには我慢して取り組んで頂きました。これは、研修期間だけではなく、事業が始まってからも、何度となく、この様な機会を設けました。

この様な甲斐もあってか、南三陸町の生活支援員は、後々立ち上がった県に委託された研修会などでは、「発言が的確でファシリテートも出来る」と評価(宮城県サポートセンター支援事務所コーディネータ談)されていたようです。この時の主任生活支援員は、石巻市、女川町、名取市、気仙沼市等々、後発の被災者生活支援センターの研修会に呼ばれて事例発表したり、グループワークのファシリテーターを担ったりしています。

こうした時期に一生懸命取り組み、被災した南三陸町民を支えたのは、同じ環境にあった町民です。この人たちは、壊滅的な被害を受けた南三陸町を支えた「奇跡のおばちゃん」(失礼、お姉様方)なのです。

服務の宣誓
採用時社会福祉協議会長訓示
責任が重い(ひたすら学ぶ)
気が重いグループワーク
認知症の理解
バイスティックの7原則(CSWの基礎基本)
車椅子の扱い
救急救命(人工呼吸)
介護支援
自律神経コントロール(リラックス法)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

被災者生活支援センター始めの一歩(「奇跡のおばちゃん」誕生)” に対して1件のコメントがあります。

  1. 鈴虫 より:

    この記事については、想いが溢れ過ぎてなかなか言葉になりません。

    振り返れば震災前の私だって、平凡だけれど毎日を一生懸命に過ごしていたつもりでした。
    でも、震災後に経験した貴重な学びの日々と、其々の置かれた場所で一生懸命に生きる人々との出逢いが、私の人生に深みを与え、以前よりは少し謙虚に、少し優しくしてくれたように思います。それは、誰かの為に何か少しでも助けになりたいと願い、もう少し出来るはずと自分の可能性を信じられるようになったからかもしれません。
    誰かの悩み事を全て理解することは出来ないけれど、わかりたいと思う気持ち、何とか出来ないかと一緒に考える行為が相手との距離をほんの少し縮めてくれるのだと思っています。

    私自身はまだまだ不足ばかりですが、カメの歩みでも一歩ずつ進んでいるところです。
    生きている限り学びの種は何処にでも有ります。それを自分のものにしなければ、そんな勿体ないことは無いと痛感しているのです。
    より良く生きる為にがんばります。

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