おてらおやつクラブ(猪苗代町「壽徳寺」)
それは、風が少し強めに吹く快晴の中、福島県猪苗代町にある真言宗豊山派 田子山 壽徳寺 で行われていました。「おてらおやつクラブ」とは、お寺にお供えされる様々な「おそなえ」を、お寺さまからの「おさがり」として頂戴し、子どもをサポートする支援団体の協力の下、経済的に困難な状況にあるご家庭へ「おすそわけ」する活動です。
趣旨に賛同する全国さまざまな宗派のお寺は、現在47都道府県に1,500カ寺ほどあるといいます。母子家庭や生活困窮者を支援する全国500ほどのNPO団体や社会福祉協議会、子ども食堂や行政窓口などと連携し、必要な方々へ「おすそわけ」しています。2017(平成29)年8月には、特定非営利活動法人「おてらおやつクラブ」として法人化しています。
同法人の機関誌「たばなす」(2022(令和4)年7月第6号)によれば、賛同寺院数は1,796寺院、支援団体数は567団体、おすそわけ物資量は52トン、おすそ分け発送数は15,846件、直接支援世帯数は5,943世帯、お寺に置いた募金箱への寄付金額は38,708,478円(2021年度実績)とのことです。
今回の開場になった壽徳寺のhpには次のように書かれています。「”なにもないのがいいところ”そんな田舎の小さなお寺です。いつでもどなたでも気軽に集える場、居心地のよい空間でありたいと思っております。車の音もなく、風の音だけが響く境内。心を開放する場、自分を見つめる場として、ゆっくりと時間を過ごしていただければと思います。お寺とのご縁を一緒に紡いでみませんか。」と。
確かに、小さなお寺で檀家数も少ないだろうと感じました。しかし、境内はとてもきれいに手入れが行き届き、「心地よい空間」という表現は、“正しく”という佇まいを感じさせてくれました。
ここのご住職は、福島県で行われている「市民CSW研修会」(CCSW)の受講生です。開講時の自己紹介では、お寺の社会貢献の在り方を学びたいということでした。私は、お坊さんによる移動傾聴喫茶「Café de Monk」と関わり、お寺が地域の社会資源となり、地域の居場所づくりに関わってくれたら、とても大きな社会資源が地域に生まれると思っています。壽徳寺の住職は、正にこれを目指し日々実践しているのだと感じました。
当日、久しぶりにお目にかかり、お話しさせて頂いたのですが、少ない檀家数であっても、丁寧に関わることで、お寺と地域との関わりはとても深くなり、よりお檀家さんのお役に立てるような気がしていると語っていました。
ご住職のお話を聞いて、「汝の立つ処深く掘れ、そこに必ず泉あり」(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ、1844~1900 独の哲学者)を思い出しました。自分に与えられた場所で、丁寧に関わることで、そこには「頼って嬉しい、頼られて嬉しい」そんな地域社会の「あらりまえ」が醸成されるのではないかと実感したのです。
普段の当たり前として行っているご先祖様への「お供え」が、人様に役に立つ「おすそわけ」に変化する空間「壽徳寺」。お檀家さんも、少しでもお役に立てるのならと、「お供物」に変化も出ていると言います。そのようなお話しの余韻を感じながら、とても気持ちよく、そして清々しい気持ちになりながら帰路につきました。
壽徳寺さま
宮城県 栗原市住民です。 すぐにでもこの素晴らしい活動に、コメントしたいと思っていましたが、もたついて今になりました。
これを読んだ時に、子供の頃の記憶がくっきり思い出されました。我が家の菩提寺は、小高い山の上にあり墓地近くには、児童公園も併設されていました。この為、お寺さんは、お墓参りだけでなく遊び場でもありました。
今は、お寺も環境整備のこともあり、お供え物はその場頂くことがルールですが、私がまだ子供の頃には、盆、お彼岸となると、多くの御供え物が並んでいました。また、そのお寺の敷地内には、屋外で暮らす方がいました。その方にとっては、盆、お彼岸はご馳走の日だったようでした。しかし、世間では、お供え泥棒と排除され邪魔者扱いされ、〇〇が居るからお供え取られるぞ。そんな会話が、普通に聞こえていました。
今、「おてらおやつクラブ」の記事を読んで、この様子を改めて思い出しています。私が子どものころに見たこの様子は、とってもシンプルで、今で言う困窮者支援のフードバンクと同じではないのかと。この御供え物で、この人の命が繋がる。このことは、今日の困窮者支援に一環で行われている「フードバンク」と何ら変わらないのではと思えたのです。
お供え泥棒と呼ばれていても、きっとお墓に眠る仏様はこのことをお許しになっていたのだと今となれば思います。昔はお供えもの泥棒、今はフードバンク。支援とはいわずに、皆が間接的に支援をし、その人の命を支えていたのですね。お盆もすぎましたが、また来る秋彼岸。御供え物を奪ったんではなく、それを許し、分けてあげていたお墓に眠るご先祖様に、ありがとうと言いたいです。
「ご先祖様へのお供え」は、壽徳寺さまを介して「おすそわけ」に変わる。こんな素敵な変換装置(お寺様)が地域にある。地域福祉は、特別なことではなく、私たちの生活習慣の中にもあるのだと学ばせて頂きました。ご住職様、有り難うございました。
話は変わりますが、傾聴移動喫茶カフェデモンクの本拠地は栗原市、私の暮らす地区にあります。ここのご住職金田さんの講話を私の業務で10月予定しております。ここにも、お寺さんの行う社会貢献の場面があります。もし、講話受講の希望がある方が居ましたら、本間先生を通じお知らせ下さい。本間先生にもこの事業に関わって頂いています。先生を仲介役に勝手に使い申し訳ありませんかせよろしくお願いします。
おはようございます
『おてらおやつクラブ』
このような活動があったのですね。
素晴らしいなと思い,私もちょっと調べてみました。
この活動のきっかけになったのは,2013年に関西で起きた母子の餓死という悲しい事件だったようです。”飽食の国”とも言われる日本で,食べることもままならずに息を引き取る親子がいるという事実に胸をえぐられ,「ひとり親家庭のためにお寺にできることは何だろう」と考えたある住職が行動を起こしたのだそうです。最初は2人で始まった活動が,今では先生が書かれていたように,寺院数,支援団体数,支援世帯数等が随分と増えているのですね。
大阪の知り合いにこんなの知ってる?とメールをしてみたら,やっぱり知っていました。そして,「送料も結構かかるようだと聴き,寄付をしているよ」とのことでした。私が知っている社会福祉協議会が行っているフードバンクともつながっているのかもしれませんが,この「おてらおやつクラブ」の存在は,初めて知りました。
この活動は,単に食べ物を届けるだけではないようです。
「おてらおやつクラブ」の活動の創始者であり,代表をしている奈良・安養寺の松島住職は,『おてらおやつクラブを通して,困窮しているご家庭とのご縁に出偶います。さまざまなご縁を通して,苦しみを分かち合い,悩み続ける存在でありたいですし,我々僧侶はこのような体験をする必要があると考えています。」と。(カフェ・デ・モンクと同じ?)
ダンボールに詰めて発送する際は,届け先にいるお母さんやお子さんの暮らしぶりに想いをめぐらせて,必ずお寺から手書きメッセージを添えるそうです。そして,事務局あてにもさまざまな手紙やメールが届くようになり,支援団体の皆さんからも「コミュニケーションがとれた」など,声が届くようになったとのこと。ひとつ,共通しているのが「見守ってくれる存在がいることがありがたい」という言葉だそうです。
この「見守ってくれる存在」というのは,大変な時を過ごしているときに支えになる,本当に大切で必要なことではないだろうかと思いました。
この活動に賛同している寺院は,私の身近ではどこにあるのだろうかと調べてみたところ,先生が行かれた福島県の壽徳寺を始め,東北六県にもちゃんとありました。そして,私ができることはなんだろう・・とちょっと考えてみました。
ニーチェの「汝の立つ処深く掘れ、そこに必ず泉あり」,いいですね。
田子山 壽徳寺のご住職様, 市民CSW研修会in福島主催者ダクルス久美様,そして本間先生,素晴らしい活動について教えていただきありがとうございました。
お寺の住職さん達の素晴らしい活動を教えて頂いて有り難い気持ちになっています。更に、ハチドリさんからは深掘りして教えて頂きましてありがとうございます。
お寺から地域への、なんて温かい心のこもった関わりなんだろうと、胸がジーンとしました。
きっと、みんなの拠り所としてのお寺の在り方も、時代と共に変化してきたことでしょう。
その中で、自分達には何が出来るかと模索されながら、また、今すぐ出来ることをひとつずつなさってこられたのでしょうね。本当に頭が下がります。
この記事を読んで頭に浮かんだ事が有ります。親による我が子への虐待のニュースでは、児童相談所等がマニュアル通りに「電話連絡はしていたのですが、、」なんて、呑気な言い訳をしている場面を見かけますが、困り事を自分事として捉えられなければ何度も失敗は繰り返されます。現に何度も何度も有りますね。
「見守ってくれる存在」を実感できるという安心感は、親達に独りじゃないと勇気を与え、我が子への愛情を取り戻させるに余りあると思います。
貧困から連鎖する虐待の問題にも、こちらの活動のような「見守っているよ」「いつでも私はここにいるよ」という働きかけが続けられるように、関係機関の方々にも是非、学んで真似て感じて頂きたいです。
私も真似から始めてみます。
いや、ちょっと待てよ。
昨日の私のコメントの様な行政頼みの姿勢が良くないのですね。至らないのは行政ばかりではありません。
地域住民一人ひとりが、いつもと違うという違和感(直感)を大切にすることで、孤立してしまう人を出さないようにしたいですね。
それに気づいた人が先ずは様子を気にかけて見てみるとか、ちょっと声をかけるとかの小さなアクションを起こしてみましょうか。
すべての家庭にまんべんなくおひさまの光が届いていて欲しいと願います。