南三陸町集団避難(二次避難所訪問)

南三陸町が苦渋の選択として行った、町外への集団避難について、まとめたもの(「帰郷の想いを支える取り組み」)があるので、それを掲載して当時を振り返ります。

1 事業実施の背景 宮城県南三陸町は,平成23年3月11日の東日本大震災で甚大な被害を受けた。死者・行方不明者は840人,建物被害は3,330戸(り災率62%)にも達した。5,362世帯(人口17,666人)規模の町で,避難者は10,368人(最大時)にも達し,町民の3分の1は,南三陸町・登米市59が所に点在する仮設住宅団地2,200戸余りの長屋型仮設住宅や県内外の973戸の見なし仮設住宅で生活し,直接被災を免れた町民も職を失い急ごしらえの社会資源の中で不自由な日常生活を送っている。町では,被災直後,浸水からまぬがれた狭い土地で長期間の避難生活を送ることは困難と判断し,二次避難所を町外に設置した。この結果,県内外56箇所の二次避難所に最大2,246人が避難した。

2 二次避難所 南三陸町では,避難生活を送る9,400人余りの町民に対して,3月26日に「仮設住宅が完成するまでの間,より良い環境で生活して欲しい」と町外避難に関する説明会を開いた。この集団避難(二次避難所)は,説明から集団避難までの時間が10日もない中で決断を求めるものであったが,4月3日の第一次集団避難から三度に渡り行われら,一部を除く概ね8月末の帰郷までに,最大時56か所(県内3市1町,県外2県2市)の二次避難所で2,246人の避難生活が続いた。町長の求めに応じた町民は,平成23年4月3日から4日間行われた第一次集団避難を皮切りに,第三次の最終日5月10日までの9日間に渡って集団避難が行われ,県内外の温泉旅館や集会施設,ビジネスホテル等に避難場所を移し避難生活が始まった。この集団避難先は,緊急の一時的な学校の体育館などとの一次避難所は異なり,温泉旅館や集会施設を利用する避難生活の場となる二次避難所で,期間は仮設住宅ができるまでの概ね4ヶ月から半年間を予定した。

3 二次避難所回りの理由 集団避難による二次避難所での避難生活は,最大時2,246人にもなった。当時,集団避難に応じた町民は,一次避難所避難者(最大時10,368人)の一部にしか過ぎず,依然として一次避難所避難者支援に忙殺されていた。この為,比較的環境の整った中での二次避難所避難者に対する支援の手は,十分ではなく避難先市町に任せっきりにならざるを得なかった。こうした中,4月に集団避難した町民からは,「町から誰も来ない」「町の情報が届かない」等々の苦情が相次ぐ事態になった。しかし,町では県内外に散らばる二次避難所56か所を回ることなど到底出来る状況にはなかった。

避難先に掲げられている大漁旗(加美町)
秋田県の避難先(学校の栖)
大崎市鳴子に設置された支援拠点
戸倉小学校避難先の学校訪問(2011/08/07)

4 二次避難所訪問の提案 行政ボランティアとして保健福祉行政の支援を行っていた私は,こうした状況を打開するために,役場職員に代わって二次避難所回りを行い,避難町民への情報提供と苦情要望等を行政に伝える役割を担う「二次避難所訪問事業」の提案を行った。町はこの提案を願ってもないことと受入,6月1日から実施することとなった。

5 事業結果の概要 二次避難所訪問事業は,平成23年6月1日から二次避難所が閉鎖になる9月までの間,週4日を基本に行った。宮城県内は,大崎市,登米市,栗原市及び加美町,県外は山形県上山市及び秋田県にかほ市にある二次避難所を訪問した。訪問時には,ビデオカメラによる町内の様子を撮影する等して、南三陸町内の情報提供や避難生活をしている中での課題や町への要望などの聴き取りを行った。また,帰郷の想いを支えることを目的に,町長の避難生活者のへメッセージを収録して,町長から避難町民へのビデオメールの配達(ビデオ再生)を行った。二次避難所閉鎖後は,仮設住宅に戻った方のフォローや外部団体への二次補難所支援の必要性の啓発などを行っている。

更に,3月下旬からは,町外見なし仮設住宅生活者のへの町の様子をビデオで伝える事業を始めた。これは,前段の二次避難所訪問の為に購入したビデオカメラの有効利用を図り事業化したものだ。取材の内容は二次避難所訪問時と同じで町の復興の様子や町長のメッセージを収録し,町を離れて暮らす町民へ見せている。この場合は,二次避難所訪問事業と異なり,本間はビデオカメラによる取材編集だけを行い,見なし仮設住の訪問事業者(社会福祉協議会)へのデータ提供を行っている。

(1)実 績

 ①訪問日程 別紙計画表のとおり

 ②訪問時の主な内容

・町民が避難している町外二次避難所を訪問する。

・町の様子をビデオや口頭又は資料で伝えると共に町長のメッセージを伝達(ビデオ再生)

・二次避難所生活での困っていることや町への要望を聞き取り,その内容を関係各課に伝える。

・介護/福祉サービス利用に関する相談に乗り手続きの前段階までの連絡調整を行う。

③全訪問日数 延べ6ヶ月間 59日

④全走行距離 10,347.0キロメートル

(2)訪問時の様子 別添,二次避難所訪問記録「二次避難所巡回訪問時の要望・質問等について」のとおり(ここでは一部抜粋のみ掲載)

避難先登米市で町長のビデオ上映(2011/06/25)
残っている町民からのメッセージを伝える(2011/06/25)
待ちに待った帰郷(2011/08/04)
避難先旧増淵小から中瀬町へ帰郷(2011/08/04)
栗原市老福センター(2011/09/12)

6 事業を終えて

(1)二次避難所周りで感じた負の視点 

二次避難所回りで感じた主な負の視点を整理すると,大きく以下の三点に集約できる。

■二次避難所では「退屈」が最も過酷な試練 二次避難所は,様々な社会資源が活用された。その中には,大崎市が準備した温泉を活用した二次避難所がある。避難場所が温泉という事で,「湯治」が出来ていいねと言った言葉が聞かれる。体育館で避難所生活をしている避難者からすればそのように見えるかも知れない。しかし,避難している当事者にしてみれば,何をすることもなく小さな部屋で過ごすのは時間を持て余し大変なことであった。「湯治気分」はとんでもない誤解なのである。プライバシーの保護と引き替えに,他者との関わりが希薄で「退屈」な時間を持て余すことになる。「俺たちは動物園の檻の中の動物だ」と言った避難者がいた。自分で何かしらの仕事を見つけ出せば解決できることと言うのは簡単だが,現実はそう簡単ではない。自分から何かを起こそうとする力を失いかけているほど,家屋を失い,仕事を失い,なにより肉親を失う被災の現実は厳しいのである。

■仕事・学校・病院を巡って苦渋の選択  二次避難を選択した世帯は,それぞれが三者三様の事情を抱えている。特に,それぞれの家族では,仕事,学校及び病院(医療)という三つの生活課題を重複して持っている。この生活課題は,住まいの場に大きな影響を持ち,その深刻度によっては家族が離ればなれにならざるを得ない事態も生じさせている。至るところで苦渋の選択を強いられるのが被災者避難の現状である。集団避難する際も,戻る時も,家族内でその優先順位が異なり,結果として,家族が別居を強いられることも多かった。その際,世帯単位での住宅補償の原則が足かせになり,親の住宅は仮設住宅で無料だが,若夫婦と子どもの住宅は個人負担になってしまうなど,二重三重の生活費をかける必要が出るなど,仕事や住まいを失った被災者には大きすぎる負担となるケースが珍しくない。

■慣れない環境は,要援護者の自立力を低下させる 二次避難所は,旅館などの宿泊施設を一泊二食付きで5,000円で二次避難所として借り上げるケースが多い。この為,避難生活は,上げ膳据え膳状態になる。ここには,日々細々とした日常生活はなく,「家事の手順すら忘れてしまう」何もしないですむ日常がある。また,認知症の人には過酷な環境になっている。二次避難所での生活環境は,生活これまでの慣れ親しんだ生活環境とは全く異なり,迷路のような通路に同じ形の部屋が並ぶ。見当識障害を持つ認知症高齢者には,大変暮らしにくい環境になっている。また,日常生活行為が著しく減少することは,生活活動量を減らし廃用性状態を助長し自立力を低下させる事にもなる。

(2)目立った地域の力

一方,フォーマルサービスに比して,インフォーマルな関わりが自治会や地域の伝統的団体(婦人会等)レベルで行われ,多彩な関わりが持たれていた。保健・福祉面は行政を中心とした支援で行われ,日常生活の潤いに関する分野については、地域の力が大いに発揮されていた。行政サービスとは異なり,地域の様々な組織/団体は,何処にでもあるありふれた日常を醸し出す役割を担う大きな力を発揮した。「特別」感を見せない支援は,気持ちが沈みがちな被災者を和ませ,非日常に中にあっても日常の雰囲気を作り出す貴重な関わりであった。

(3)被災者受入市町の取り組み

南三陸町の被災者を受け入れた県内外市町の取り組みは,一応にきめ細やかで徹底したものであった。各市町では,被災者支援に関わる部署を設け一元的に行っていた。財源措置はそれぞれではあるが,十分な支援スタッフをそろえ見守り支援を行うと共に,保健師等の専門職を加えるなどして,早い段階から手厚い支援を実現していた。災害規模が大きく被災範囲が広範囲に渡る場合は,今回のように他市町村に支援活動を委ねざるを得ないことが容易に想定される。この為,今回のこの経験は,予想されている大震災への備えとして,貴重な機会になっている。

 まとめにかえて 今回,行政ボランティアとして駆け込んだことに始まり、集団避難者支援の機会を得ることが出来た。この活動支援は,ふる里を離れ限られた情報の中で望郷の想いを募らせていた方々に,多少なりともふる里との繋がりを支えることが出来たものと思っている。レルフ(Edward Relph)は「『住まいの場所』は全く人間存在の基礎であり,すべての人間活動の背景となるだけではなく,個々人の存在保証とアイデンティティを与える」(1976)と語る。ふる里を離れて暮らす被災者への支援は,生活設備の充足だけの問題だけではなく,慣れ親しんだ地域にある環境や人と人との関わり等,有形無形の関係性を保つ為の支援が求められることを学ぶ貴重な機会になった。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

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