1,000人の遺体見つかる(3月15日河北新報)の報道に凍り付く南三陸町長
南三陸町町長は、「町議会三月定例会で閉会の挨拶をしていたその時、強烈な揺れが議場を襲った。6㍍の津波という予報は、町の防災計画の想定内であったので、防災対策庁舎の2階にいれば大丈夫だと思った」と語ります(三陸新報「巨震激流」2011/07/23)。防災対策庁舎で巨大津波の直撃を受け、翌朝、庁舎に絡まっていた漁業用ロープをつたって地上に降り、避難所に辿り着いたのはお昼近く。3月13日に南三陸町最大の避難所となっていた総合体育館(ベイサイドアリーナ)に災害対策本部を設置しました。
この時、町長に入った人的被災状況は、「行方不明者1,000人」(「三陸新報」津波特別号2011/03/13)、「河北新報」2011/03/14)という非常に深刻な状況でした。更に翌15日には、約1,000人の遺体が見つかったと報道されています。町長は、「生存者の情報は、全く入ってこない。状況は極めて厳しい」とコメントし、町民の安否確認を急ぎ、生活再建に向けて活動を開始しています。以降、毎日記者会見を開き、巨大津波で壊滅的な被害を受けた南三陸町の窮状を伝え続けています。
行方不明者の把握は、町内各地に設置された避難所を役場職員が訪ね歩き、安否が確認されてない名簿を一人ひとり消していく地道な方法で進めていました。これは、私が南三陸町で被災者支援をするようになった時も同じように進められていました。
保健福祉課の職員で、一日中あちこちから集まる紙データを必死になってパソコンに打ち込んでいる職員がいました。その職員は、突然立ち上がり「避難者名簿に生存情報878人、台帳データの内生存確認14,203人、合わせて何らかの生存確認は、14,203人となりました。住基登録者17,664人の内、生存確認が1万4千人を超えました~」と、大きな声で生存確認者数を読み上げるのです(2011年4月7日)。すると、保健福祉課内の職員が「ウオ~!」という声と共に立ち上がって拍手をするのです。1,000人の安否不明者、1,000人の遺体という未確認情報を、この様にして、一人またひとりと生存確認を積み重ねていたのです。きっと、生存確認の数が増えていく喜びをこらえきれず、大きな声で仲間に報告していたのだと思います。
こうした状況の中、町外からはひっきりなしに、安否確認の電話照会が来ていました。知人友人、遠い親戚の方、仕事関係者等々、関係は様々です。その都度、担当職員は丁寧に名簿を目と指で追っていました。当時、安否確認の照会に対応していたのは北海道の十勝総合振興局北東部の内陸に位置する本別町(人口約6,500人)から派遣されていた応援職員でした。彼はとても丁寧に対応していました。そして、その対応の仕方に気づいたことがあります。生存している場合は、とても早く回答をしていました。しかし、安否の確認が取れない方への回答にはとても時間がかかっていたのです。なぜなら、手にしている安否情報を何度も何度も繰り返して見返し応えていたからです。とてもすまなそうに、そして「今現在の限られた情報でのことです」と付け加え、希望を失わないようにとお話ししていました。
この様な中で、3月26日に町外への集団避難の説明が行われ、町長の求めに応じた町民は、平成23年4月3日から4日間行われた第一次集団避難を皮切りに、第三次の最終日5月10日までの9日間に渡って集団避難が行われ、県内外の温泉旅館や集会施設、ビジネスホテル等に避難場所を移し避難生活が始まりました。この集団避難先は、緊急の一時的な学校の体育館などとの一次避難所は異なり、温泉旅館や集会施設を利用する避難生活の場となる二次避難所で、期間は仮設住宅ができるまでの概ね4ヶ月から半年間を予定していました。
情報が必ずしも一箇所にまとめられていたわけではないので、集団避難の名簿で安否不明者が見つかるなどもありました。この様にして、南三陸町の1,000人行方不明は生存者の確認を行いながら、その数を減らしていったのです。
東日本大震災が起きたころ、私はガラ携を使っていました。ほとんどの人がそうだったと思います。
今、私が勤務している町の住民基本台帳には家の電話と携帯の電話番号が載っていますが、当時の住民基本台帳に電話番号はどうなっていたんでしょうね。家の電話番号くらいは載っていたのかもしれませんが、携帯電話の番号はまだほとんど載っていなかったのではないかと思われます。
ですので、あのような大災害が起き、家も流され、どこに避難したかもつかめないような場合、行政から連絡のつけようが無かったことでしょう。
投稿記事にあった『行方不明者の把握は、町内各地に設置された避難所を役場職員が訪ね歩き、安否が確認されてない名簿を一人ひとり消していく地道な方法で進めていました』は、まさにその通りだったんだろうなと、改めて気が遠くなるような活動をされていたことに胸がいっぱいになりました。そして、一人またひとりと安否が確認されていった喜びは思わず歓声をあげたくなったことでしょう。
また、まだ安否が確認されていないかたの問い合わせに対応していた、本別町の職員のかたの受け答えも、お相手様の気持ちも考えながら言葉を選ばれていたのでしょうね。そして、『希望を失わないようにとお話をされていた』とのこと、本当に頭が下がります。
現在、情報はプリントアウトされた紙とパソコンの中に入っていて、さらにサーバー室にその情報が集まっていますが、そのサーバーも何もかもが失われてしまったらどうするかという最悪のシナリオを平時に考えておくことも必要かもしれませんね。
先生、今週も書いて下さってありがとうございます。
「知ることが思いやりに繋がる」ほんとうにスマイルさんがおっしゃる通りですね。
人を想い感謝の心を忘れずにいたいです。
鈴虫さんも、やさしさをありがとうございます。
やさしいなぁ。
当時の動揺が蘇る衝撃的なタイトルです。
この情報を耳にした時は、家族にも友人知人にも二度と逢えないんだと絶望的になりました。でも、この目の前の惨状を見ればしそれも当然の事なのかもしれないと思ったものです。
私がこの地に嫁いだ時、あまりの海の近さに驚き津波の心配を口にすると、義父が言いました。
「ここは海抜16mある、ここまで津波が来る時は町は全部沈んでる」
その言葉を鮮明に覚えていた私は、家の前で渦巻く津波を見た時に「もう町は無いんだな」とわかっていました。
その後、時間が経つにつれ少しずつ安否情報が集まり、泣いたり喜んだりの日々でした。
このhpに記事がひとつずつ書き込まれるたびに、感情の波が押し寄せるようです。
さて、私も鳴子温泉に避難していた方を何人も知っています。
「とても良くして頂いた」「みんなは元気か」と、当時の話を何度も話して下さいます。
そのみなさんに代わって、優しく気遣って下さった保健師さんや地域のみなさんにお礼を申し上げます。
あの当時、少し元気が出なかった方もみんな健やかに毎日を送られていますのでご安心下さい。
世の中がもう少し落ち着いたら、又、鳴子温泉に行きたいと口を揃えてお話されています♨️
鈴虫さん、当時の総務部長が鳴子のかたでした。南三陸町の方を始め、沿岸部から避難しておいでになる皆さんの健康状態の把握に関する提案はすぐにOKをもらい、保健所の保健師さんたちの協力をいただきながら実施できました。
知らない土地に来て間もない時はどこに何があるのかもわからず、ますます不安になることが考えられたので、まずは医療機関などを載せた簡単なマップ作りをして、お部屋に置いてきたことを思い出しました。
確か、最後の方は11月上旬頃まで鳴子温泉での生活が続いたと思いますが、皆さん、一言では言い表せない、本当に辛い大変な時間を過ごされたのだと思います。
鈴虫さんのおっしゃるように、もう少し世の中が落ち着いたら、のんびりゆっくり♨️に浸かりに来て欲しいなと思います。
ハチドリさん、コメントありがとうございます。
震災前は鳴子温泉は町の多くのお父さんお母さんにとって、大仕事を終えた後のお楽しみである湯治場として馴染みの場所でした。
その場所を二時避難先に決めた人々にとっても、やはり非日常の避難所であることに変わりはなく、不安と葛藤、受け入れ先への遠慮や町を離れた後ろめたさなどが渦巻く毎日だったと沢山のお年寄りから聞かされました。
そのような方々を陰ひなたになり支えて下さった方がいたことに、世の中の温かさを感じています。
鳴子温泉はお湯で温まり、人で温まる良い温泉街です。
震災直後、ご自身も被災し家族や友人の安否確認もままならないまま、住民のために奔走してくださった方達。生存が確認され、行方不明者の数が減ったことを思わず大きな声で報告せずにはいられなかった気持ち、それに対して「うぉー」と思わず拍手する気持ち、でも一方では生存者の名前に今日も知り合いの名前がないことを知る方達もいたことでしょう。
このような現実を、こうして本間先生が今書いてくださることは、とても貴重なことであると感じます。同時にこうして書かれることに葛藤もおありになることと思います。でも「知ること」は「忘れないこと」に繋がり、「思いやること」に繋がり、「この先の知恵」にも繋がっていきます。ですから、やはり書き続けていただきたいと願っています。
集団避難を受け入れてくださった方達、その心に寄り添い体を気遣い懸命に尽力してくださった方達にも心から感謝を伝えたいと思います。(新聞記事の写真を見て「もしかして」とハッとして、記事を読み「やっぱり」と知人だったことを確認)
震災の影響は今なお続いています。そのことを忘れてはいけないと、自分にできることは何か考えようと、月曜日の記事を読むたびに思っています。
いつもありがとうございます。