日常のあたりまえが、一気に失われる被災地での生活
ここでは、被災地での私のことを書いています。町民の様子は別の機会に書きます。被災地、南三陸町に行った其の瞬間から、これまでの「あたりまえ」は、遙か先の姿になりました。被災で着の身着のままで避難した状況下では、「命が助かった」だけで、もう十分という様子でした。私が、当初、支援員の方々に講義をしたときのタイトルは「これ以上,尊い命を失いたくない」でした。
この様な状況下にあったので、最も大切な「水」「食べもの」「排泄」そして「睡眠」は、大変な状況にありました。水は、「飲み水」と「生活用水」の二種類必要になります。当然、物資支援で頂いた限られた共有量の中なので「飲料水」が最優先で、その他の水は「あればラッキー」という状態です。この為、洗面や頭を洗う等は、極端に制限されるようになります。
良く、被災地でお風呂に入った方を映して「気持ちよかった~!」という声を拾っていることが多く報道されますが、あの気持ちがとてもよく分かります。頭をシャンプーする、お風呂に入るといった、これまで毎日していたことが、突然、出来なくなるのです。日本人は、特に清潔意識が高いので、毎日お風呂に入り、頭から足の先まで洗います。それが、何日も出来なくなるのです。私も、自衛隊のお風呂には入れたのは、南三陸町に行って2週間くらい経ってからでした。それまでは、近くの川にいて身体をあたっていました。私は男なのでそれが出来ましたが、女性はそうしたことは難しく、とても大変だったと思います。
食事は、いわゆる「炊き出し」でお世話になりました。始めのころは「塩おにぎり」や「パン」。しだいに、ワンプレートの少し手の入った食事になりました。当時は、食べられるだけで「嬉しい」「助かった」そんな感じです。私は、ボランティアで入ったので、食事はパップ面を車いっぱいに持参し、燃料はキャップ用のガスストーブを用意していました。でも現地に入ると、水が思いの外少なかったのでなかなか長期間は難しかったです。見かねて、役場の方が炊き出しを持って来てくれたりしてくれました。私は、ボランティア出来ているので自分で用意しますと、頑なに断っていたのですが、「そんなこと言っていると倒れるよ」と、有無を言わさず持って来てくれました。
私は、初めて「食事を取らないと倒れる」と言うのをこの時体験しました。遠慮して、と言うより「ボランティアのあるべき姿」に沿って、行動していたら、少しずつ食事の機会が減ってきました。そうすると、バッテリーが切れるように、突然、思考停止に陥るのです。お腹がすいた感を超えてから、空腹感を感じなくなり、なんか身体に力が入らなくなりフラフラしてくるのです。食事をしないとこの様な状態になるのだと言うことを初めて体験しました。そのようなことから、南三陸町に入って3週間位で、ボランティアの身で有りながら「炊き出し」を頂くという恥ずかしい状態になりました。
それから「排泄」。私が南三陸町に入ったときには、仮設トイレが配置されていました。それまでは、体育館の裏に穴を掘って用を足していたりしたと聞きました。職員が交替で掃除をしていました。派遣職員も其の役割を担っていたりしていました。派遣職員の中には、被災者の役に立ちたいと思ってきたのに「トイレ掃除」は心外だと言っていた方もいました。高い志で支援に来た方々です。特に、初期の支援者は例外なく自ら志願して来た方々で、そのような気持ちになるのもわかるような気がします。一方、地元の役場職員が、思う存分被災者と向き合えるように、縁の下の力持ちになることも、大切な支援だとも思うのです。実際、黙々とトイレ掃除や仕事場の掃除やゴミ集めをして、役場職員の仕事が迅速に進むように環境を整えることを一所懸命していた方もいます。人それぞれだとは思うのですが、私は後者の方を支持します。
睡眠は、一日疲れを癒やし明日に備える大切な時間です。でも、役場の人たちは、避難者と同じく体育館等の避難所にいました。この為、24時間休むこともなく仕事して、仮眠に帰ってきても、住民の「いつまで寝ているんだか」等と言った声を耳にして、ふらふらになりながら職場に戻ってきたりしていました。私は、保健福祉課に寝泊まりしていたので、町民と顔を合わせることは無かったので、床に寝袋に包まれて一目気にせずに休めました。ただ、寒さとの闘いでなかなか眠れなかったこともありますが、日数が経つにつれて、疲れがあってか床の堅さも寒さも感じることなく眠ることが出来ました。
役場職員は、南三陸町にいる間は、気持ちも身体も休まりません。なので、お休みを計画的かつ強制的に取らせ、町を離れた場所で休ませる。そうした仕組みが必要だと思います。なので、隣町や仙台などにホテルを貸し切り、そこで町民の目を気にせずしっかり休ませる、こうした環境を整えないと、長期間の仕事は難しいように感じました。
私は、たまに仙台に帰りました。主な理由は洗濯でした。南三陸町にいるときは、全く疲れを感じないで過ごしました。きっとアドレナリン(adrenaline)が出まくっていたのでしょう。アドレナリンは交感神経が興奮した状態、すなわち「闘争」ホルモンと呼ばれ、動物が敵から身を守る、あるいは獲物を捕食する必要にせまられるなどといった状態に備えるよう、全身を興奮状態にするホルモンです。家に帰ると翌日の昼過ぎまで微動だにしないで寝ていたと良く言われました。疲れが一気に吹き出すのでしょう。
私は、仙台に帰れば家族もいるし、ベッドも美味しい食にも水もお風呂にも入れます。しかし、被災地は、その多くがありません。そうした状況が長く続きます。身体も心もくたくたになります。苛立ち声を荒げる。無理もありません。彼らに対して出来ることは、ただただ、「申しわけないです、もう少しの辛抱です」と言い続け、身を削るしかないのです。これが被災地の初期の状況です。