保健事業の基盤整備(保健センターの整備)と1通のメール
富谷町・大和町による「母子保健業務請負型支援」による乳幼児検診が、6月14日にからいち早く再開する運びになる少し前から、私は健診場所が小学校等を間借りして行っていることに一抹の懸念を抱いていました。
保健師さん達が、健診を行うたびに場所が変わるので、それはそれば準備が大変だったのです。準備に追われている様子や、その都度、設置・撤収を繰り返す様子はさぞかし大変だろうと思ったのです。
そこで、何度か健診関係の備品や消耗品を提供してくれていた日本ユニセフの方に、相談を持ちかけたのです。前例はないかも知れないが、今、南三陸町の保健事業で一番必要なのは、健診等を行う場所だと。母子保健を行う場所や混乱している母親が掛けつける場所が必要だと訴えたのです。事業再開の目途は付いたので、次には其の事業を安定的に行える場所の確保だと考えたのです。
何度か、日本ユニセフの方に、「保健センター」の整備について、喫緊の課題である旨を説きました。始めは、「私たちの出来ることは保健関係の備品や消耗品だけです」の繰り返しでした。でも、担当者が南三陸町に来るたびに、健診事業の再開の目途が付いたことや近い将来、間借りしていた小学校が再開するので健診の場所の確保が難しくなること等々を訴えました。
こんなやり取りが1ヶ月ほど続いていた6月27日に、広域避難している登米市の旧嵯峨立ち小学校を訪問しているとき電話が来ました。「前向きに検討したいので詳細を聞かせて欲しい」という内容でした。直ぐに役場の戻り、文書を作り打合せの日程調整を進めました。
同時に、打合せまでの短い時間の中で、保健センターの仮図面を作成することにしました。南三陸町の本気度をアピールする為です。そこで、以前、仕事で関わりのあった設計事務所に南三陸町に来てもらい、保健センターに関わる職員に必要な部屋やその広さ・設備等々を話させ、その場でラフ図面(スケッチレベル)を書いてもらいました。そしてこれでいけるという内容になった内容で持ち帰り、2日間で平面計画と建設費を出してくれるようお願いをしました。相当無理な日程で、それも無償でやってもらいました。
数日後、保健センターの整備及び健診関係の備品を加え、日本ユニセフの方と具体的なお話しをすることができ、正式な事務手続きにまで話が進みました。全てのお膳立てが整い、あとは、決定を待つだけになったところで役場職員に引継ぎ私は手を引きました。
程なく、決定の連絡がはいり、保健センターが整備されることになりました。この建物は、約1億円の工事費で建設され、仮役場庁舎ができるまで使われ、保健事業の全てがこの場所で行われました。仮役場庁舎が出来た後は、被災者支援センターに転用し、「結の里」ができるまで、ここを被災者支援の拠点として使いました。
実は、南三陸町病院の整備の時も、これに近いことがありました。震災の翌年2012(平成24)年4月9日に日赤から1通のメールが届きました。その内容は「台湾赤十字で支援先を探している」というものでした。金額は億単位でした。台湾赤十字の支援対象は、住宅や集会所ということでした。私は、直ぐに返信しました。「南三陸町で必要なのは病院です。病院整備に支援をお願いしたい」と。日赤(森本さん)は、少し戸惑っていました。病院は想定していなかったし、沿岸部被災地に小分けした支援を想定していたようでした。何度か、メール交換を行いながら、南三陸町の医療提供状況を説明しました。
南三陸町では、震災直後にイスラエルからの支援で仮設の診療所を設置し、DMAT等の支援を受けて診療及び薬の処方・提供が行われていました。仮設診療所は、3月29日から4月10日までの約2週間,イスラエル医療支援チーム約60名(内訳:医師14名、看護師7名、その他技師、通訳、ロジステック要員等)が診療活動を行いました。活動終了後は,同チームが使用した医療機器等が,南三陸町に寄贈しています。
イスラエル医師団が撤退後は、町内の医師、東北大学病院、「国境なき医師団」の医師らが、無償供与された医療機器等を使って「公立志津川病院仮設診療所」(公立南三陸診療所)として運営を継続しました。さらに1年後には日本赤十字社の支援を受けて、仮設診療所は役場仮庁舎前に新設移転。また、隣接する登米市は、入院加療が必要な患者のために「市立よねやま診療所」の一部を南三陸町に貸し出すことを決定し、臨時の「公立志津川病院」が置かれ、医師3人、看護師30人、入院病床39床で運用が開始されました。
そして、震災から4年8カ月が過ぎた平成27年11月25日、南三陸町に新しい病院が完成しました。新しい建物の名前は「南三陸病院・総合ケアセンター南三陸」です。
この「南三陸病院・総合ケアセンター南三陸」に辿り着く、始めの一歩は1通のメールだったのです。何度か、メールのやり取りをするうちに、メール内容がとても具体的になり、病院整備に流れが向いてきたと判断した段階で、この情報を役場職員に提供し検討して頂くことにしました。
町では、当初半信半疑で「とりあえずやってみよう」程度の向き合い方でしたが、台湾赤十字で現地調査をしたいとの情報が入り、俄然スイッチが入りました。現地調査の時は、台湾の人は、どの様な色を好むのかを県庁の国際交流課に紹介し、「朱色」を好むと聞いたので、お土産に「オクトパス」を町に提案し、中国語の出来る支援員さんに翻訳をお願いし、由来などを書き込んだ解説書を付けました。現地調査のヒアリングを終えて、お土産にこれを渡したとき、大いに喜んでくれたと聞きました。
この様なことがどれだけ影響したのか分かりませんが、1通のメールから始まった病院の整備は、南三陸町への支援が決定し、多くの被災地に小分けにする予定が南三陸町に重点配分の形のなり、病院整備が実現しましました。たまに、南三陸町に行った時、病院・ケアセンターを見るたびに、当時の事を思い出します。