沖縄返還(本土復帰)から50年
昨日5月15日は、琉球政府の解散と沖縄県の発足から50年です。とても大切な日なので、予定を変えて、沖縄返還(本土復帰)から50年を取り上げます。
NHKの朝ドラで、沖縄の通貨としてドルが使われているのを見て、ハッとしました。ほんの50年前まで、そうした状況に沖縄があったのです。私が就職したのは、1970(昭和45)年です。なので、その頃はまだ、ドルで買い物が行われていたのです。日本国内で、そのような所があると言うところに、全く意識が向いていなかったように思います。
太平洋戦争末期に米軍に占領され、戦後も米国に統治されていた沖縄は、1972(昭和47)年5月15日、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されました(沖縄本土復帰)。この日は、午前10時から、東京と沖縄をテレビ中継で結び、政府主催の「沖縄復帰記念式典」が開かれ、引き続き午後2時から「新沖縄県発足式典」が行われ、当時の屋良朝苗知事は、万感の思いを込めて、琉球政府の解散と沖縄県の発足を高らかに宣言したのです。あの日から、今年(2022年)は、ちょうど50年となります。
太平洋戦争末期の沖縄戦は、日本の国土で唯一、アメリカ軍が上陸し、防衛にあたる日本軍との熾烈な陸上戦となり、民間人にも多大な犠牲が生じました。1945(昭和20)年6月23日、日本軍の抵抗が終わると、アメリカは沖縄を軍政下に置きました。1951(昭和46)年のサンフランシスコ平和条約によって、日本は独立を回復したものの、沖縄は小笠原とともにアメリカの統治が続けられることとなりました。翌1952年、サンフランシスコ条約が発効すると同時にアメリカは沖縄を文民統治に改め、アメリカ民政府を設置、そのもとでの沖縄の自治を認め、琉球政府を発足させました。琉球政府には主席を長とする行政府と並んで立法府、裁判所が置かれ、形の上では三権分立の形態をとっていますが、政府主席の任免はアメリカ民政府長官が行うなど、限定的な自治機関に過ぎなかったのです。
アメリカの施政権にあった沖縄は、日本の主権回復後も本土と切り離され、日本に行くためにはパスポートが必要であり、また通貨はドルが使用され、道路はアメリカと同じで車が右、人は左、とされました。1953(昭和28)年にアメリカ民政府は、軍用地を拡張するため、土地収用令を出し、広大な住民の土地が収用されてたため、島民の不満は強かったようです。1956から1958年には接収された土地の使用料をめぐって全島的な抗議活動が起こり、問題が深刻になっていっています。
1960年代から活発な祖国復帰運動が始まりました。すでに1950年代にはアメリカ軍による土地収用に対する全党的な反対運動が起こっていましたが、この段階から運動は組織な祖国復帰運動へと転換し、1960(昭和35)年には、沖縄県祖国復帰協議会が労働組合、婦人団体などを結集して県民運動の中心となっています。アメリカは当時、ベトナム戦争(1955.11~1975.4)が激化し、沖縄の基地がますます重要になっていたため、その安定的な運用も課題となっていました。
1967(昭和42)年に日本の佐藤栄作首相とアメリカのジョンソン大統領の間で、3年以内に返還することで原則的に一致、外交交渉が続けられ、1969(昭和44)年には佐藤=ニクソンの日米首脳会談が行われ、日米共同声明が発表されました。そこでは日米安全保障条約の堅持、「核抜き・本土なみ」の返還が合意されたのです。この共同声明に基づき、1971(昭和46)年6月に沖縄返還協定が調印され、1972(昭和47)年5月15日に返還が実現しました。
この沖縄返還協定は、日米安保体制の沖縄への適用、嘉手納基地などアメリカ軍基地の継続使用、アメリカ軍政下時代の日本の請求権の放棄、日本から3億2千万ドルのアメリカへの支払いなどが決まっていました。沖縄の主権は日本返還されたものの、沖縄を冷戦下の東アジアにおけるキーストーンとする戦略と、日本をアメリカの核の傘の下に置くという日米安保体制の枠組みによって、広大な米軍基地はそのまま継続することとなったのです。
1973(昭和48)年のベトナム戦争終結、1989(平成元)年の冷戦の終結によって沖縄米軍基地をとりまく環境も変化したが、基地は依然として存在を続け、依然として沖縄県には在日アメリカ軍基地の70%が駐中しています。(出典:教材工房http://www.y-history.net/appendix/wh1602-102.html 20220513)
地元紙沖縄タイムスは、次のような記事を掲載しています。『朝日新聞などの調査では、米軍基地が「今のままでよい」と考えるのは沖縄で19%だったのに対し、全国では41%と、沖縄より大幅に多かった。県内の世代間の意識の差も目立つようになった。基地返還を重視する高年層に対し、若い層は基地よりも経済を重視する傾向が明らかになった。本土と沖縄の溝だけでなく、沖縄内部の意識の溝も顕在化してきたのである。復帰後世代が沖縄の人口の半数を超えたこと、コロナ禍で経済が落ち込んだこと、さらにロシア軍のウクライナ侵攻や中国の海洋進出などが影響したと思われる。ここから二つの課題が浮かび上がる。基地を巡る構造的差別は、戦後史を体験した高年層に憤りや屈辱感をもたらしており、「尊厳」の回復が必要だ。現役世代や子育て世代にとっては将来の「希望」が持てるかどうかが何より重要だ。ポスト復帰50年の政策課題は、「尊厳」と「希望」が達成できるような具体的施策を実現することである。』と。(出典:沖縄タイムス2022/05/15)
米軍基地問題、琉球政府、本土復帰、いづれも私たちはほとんど意識しないまま今日に至っています。しかし、観光地としてしか意識していない沖縄県には、上記の指摘にあるような、「本土と沖縄の溝だけでなく、沖縄内部の意識の溝も顕在化」があります。私たちは、もう一度、以下の史実を思う浮かべ、日本の国土で唯一、アメリカ軍が上陸し、民間人に多数の犠牲が強いられた沖縄について、考えてみても良いのではないでしょうか。
1945(昭和20)年6月、沖縄の地下に掘られた洞穴で、海軍司令官の大田実海軍中将は自ら命を絶ちました。自決直前に海軍次官にあてた電文では、沖縄戦の惨状と沖縄県民の献身をつづり、「陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。後世特別の配慮を」と、訴え、「沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように」(062016番電 発 沖縄根拠地隊司令官 宛 海軍次官)と、打電し自決しています。
政治には興味も関心もなかった中学時代。内容はほとんどわかりませんでしたが,白黒テレビ(あれ,カラーだったかも)で佐藤栄作総理大臣が国会の中で沖縄返還のことを話していたことだけはよく覚えています。そして,沖縄県になったというニュースで,日本のものになったんだ・・と感じたことも覚えています。あれから50年も経ったのですね。
今,沖縄の米軍基地が何をしているのかさえ考えたこともないので,朝日新聞の調査が私に来たら何も答えられません。ただ,東日本大震災の時のアメリカからの「トモダチ作戦」への感謝と二度と戦争を起こすようなことはあってはならないという願いは伝えたいです。