住み込みで下働き

前回(5月9日)は、南三陸町役場保健福祉課に着いたばかりの様子を書きました。特段の役割が有るわけでも無いし、「これをやって下さい」と指示があるわけでも無かったので「どう振る舞ったら良いのか分からないもどかしさの中で、だだひたすら職員の話や町民の声に耳を傾け、職員の机の上にある書類や書き込みを観察していた」。このような状況で私の「行政ボランティア」は始まりました。

保健福祉課には、他県からは、東京都、関東広域連合の組織下で滝野町(兵庫県)、太子町(兵庫県)、西宮市(兵庫県)、本別町(北海道)、伊佐市(鹿児島県)。地元からは年単位の支援期間で登米市が入っていました。これは、私が確認出来ただけなので、もっと多くの都道府県・市町村が入っていたと思います。

他県から派遣された県及び市町村職員は、予め定められて業務に就いています。震災後に最も忙殺される業務が「罹災証明」の発行です。この様な業務は、南三陸町職員と一緒になって業務を進めていました。南三陸町職員も含め、ほとんどの職員は全くの未経験の状態で、災害関連例規集と首っ引きで取り組んでいます。各県・市町村からの派遣は、業務内容を継承できるように、1週間程度の期間で交替しながら同じ業務に就いていました。

仕事は、罹災証明の交付など、災害関連の公的事務に限りません。災害支援に関わる職員の執務環境を整えるゴミの処理やトイレ掃除等もあります。派遣されている職員は全て公務員で、ほとんどが派遣を志願して来ている、意識の高い人たちです。気持ちとしては、被災住民の役に立ちたいと志願し、派遣する市町村としても災害関連事務を体験し、実務経験を積ませたいという意図があったと思います。

しかし、現場は公的業務だけではなく、それを支える為の下働き的仕事も沢山あり、大切な仕事なのです。公務員としては、係長などの職位にあると思われる年齢の応援職員でも、黙々と保健福祉課のゴミ集めや掃除してりしている様子が日常的にありました。応援を受けている宮城県民として、ただただ頭が下がる気持ちで様子を見ていました。

このような中で私がやったことも、同じような下働きです。仮設庁舎2階にある保健福祉課に寝泊まりしていたので、誰よりも遅くまで、誰よりも早く保健福祉課で執務できました。

災害関連業務に忙殺される職員を見ていて、気がつくことがありました。それは、日時や曜日の感覚が無くなっていることでした。今日何日なのか何曜日なのかは全く頭に入っていない感じで、ただひたすら目の前にある仕事や被災町民にのみ目が向けられていました。処理する量より積み重なる量が多い中、支援業務に向かっていました。

なので、最初に行ったのは、お茶やカップラーメン、アルファ米用にお湯を沢山沸かすことでした。また、手書きの日めくりカレンダー、そして月日及び曜日をA4版のコピー用紙に手書きして、目につくように四方に貼り付けました。更には、知人にお願いして大きめのカレンダーや壁掛け時計を取り寄せて掲示しました。

無限に続くような終わりのない日にちと時間を区切られるように、そして日にちが着実に進んでいることを意識してもらえるように考えたのです。被災者支援の最前線で黙々と業務を遂行する役場職員の生体リズムを整えることは、メンタルのセルフケア能力を低下させないことにも役立つのではないかと考えたのです。

私の行政ボランティアは、この様な下働きから始まりました。職員の振る舞いや言葉から目や耳を離さず、何が必要なのかを必死に見ていました。そして、必要と思ったことは、些細なことでも実行に移し、知らず知らずのうちに職員の方が仕事をしやすくなったり、気持ちが滅入らなくなるようになることを願っていました。

自分が何か公的な仕事をするというよりは、被災者支援の主役である南三陸町職員の仕事が少しでも円滑に進むような環境を整えることに意識を向けました。私は、24時間役場仮庁舎2階の保健福祉課に住み込み、この様な下働きをしていました。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

住み込みで下働き” に対して4件のコメントがあります。

  1. ハチドリ より:

    s.mさんのコメントに兵庫県の保健師さんが家庭訪問に来て「家が残っていてもが不自由なのはみな同じですから、我慢してはダメですよ。つらいとか悲しい気持ちは吐き出してくださいね」と話して行ってくださったとありました。
    このコメントを読み、震災間もない時、市の施設で避難所運営をしていた私の大失敗を思い出し、胸が苦しくなりました。

    確か、震災から2~3日目くらいだったかと思います。避難所で配る食べ物は避難所に来ている人の分なので、外から来た人にはやらないようにと言う変なルールがあったんです。確かにまだ食料が少なかったのは事実だったのですが、窓口に「家から来たのですが何か食べるものはありませんか?」と1人の男性が窓口にいらした時に対応した私。確かおにぎりがちょっとあったはずと思い、すぐに渡しちゃえば良かったのに一応確認と上司を探したけど見つからず、大丈夫あげちゃえ!と、2枚おにぎりと紙カップに汁物を入れて持って行った時にはすでに男性の姿は無く・・、わずか数分のことだったと思うのですが、いたたまれなくなって帰ってしまったんだと思うんです。私はとてもショックでした。きっと勇気を振り絞って来てくれたはず。
    私がちょっと一言「ありますから少しお待ちくださいね」と伝えれば良かっただけなのに、上司に伺いを立てることを優先した私。そんなの事後承諾で良かったんです。承諾だっていらないでしょ!!
    あ~、悲しい思い出です。泣けて来ちゃいます、

    と、前置きが長くなりましたが、本間先生のその置かれた立場で必要と思ったことを臨機応変に粛々と行われていた行為、素晴らしいと思います。

    1. s.m より:

      ハチドリさん、その様な反省はだれにも有ると思います。そして苦い思い出こそ、次からは絶対に繰り返さないための教訓になります。
      またその逆も有り、あの人の様に振る舞いたいと思える人との出会いもありました。
      震災後の断水の間、私達は山手に沢水を汲みに行くのが欠かせない仕事でしたが、ある時、一件の農家が畑にひいている沢水を汲ませてくれることを人伝に知り、行ってみました。すると「水汲みご苦労さまです。いっぱい汲んで行ってください」とご主人が畑に案内してくれました。ザーザーと流れる竹管の先から、あっという間に10個以上のポリタンクを満タンにすることが出来ました。
      その次に行った時にも「ご苦労さまです」と迎えられ、今度は足元がぬからないように渡り板が敷きつめてあって、有り難いと思いました。
      こんな博愛の気持ちを持って誰にでも気持ちよく接することは、なかなか出来る事ではないと思います。私もこの方の様に振る舞いたいと強く思いました。
      この頃に感じた反省も気づきも、今なお私の心に深く刻まれているのです。きっと、ハチドリさんも同じ気持ちではないでしょうか。

      今回もコメント頂きましてありがとうございました。

  2. いくこ より:

    「下働き」どんなところにいても何をしようとしても、場を整えるために大事なことだと改めて考えました。そこに気づき動いた人の感性が磨かれていくようにも思います、若い世代に伝えたいことと思います。
    先生の記事とs.mさんの投稿を読みながら、当時を思い出してこみあげるものがあります。デコボコのアスファルトの道で他県の水道局の車を見かけたこと、ガスの復旧作業に来た方は関西のガス局の方でした。有難いと思った気持ちを大切にしたいと思います。

  3. s.m より:

    私も学校へ提出する為の罹災証明書を頂きに役場仮庁舎に行きました。その時の、髪を振り乱して混乱した職員達と、他県からの応援職員の柔らかな応対の対比がとても印象に残っています。
    また別の用事の時には、仮設トイレで散らかったゴミを拾おうとしていると、他県のビブスの方がスッと現れ「そんな事は私達がやるから」と変わってくれました。混沌とした手続の場面で見たこの様な行為に救われ、有り難くて涙が出そうでした。
    そして、我が家に兵庫県のビブスを着けた保健師さんが来たのは3月の末でした。少し遠慮がちに「家族みなさんの体調は変わりないですか。夜は眠れていますか」と、この方も又、ゆったりとした空気を纏っていました。「はい、なんとか大丈夫です」と答えると「家が残っていてもが不自由なのはみな同じですから、我慢してはダメですよ。つらいとか悲しい気持ちは吐き出してくださいね」と「これは絶対必要だから」と衛生用品の入った袋を置いて行ってくれました。
    非日常が日常になりつつあったこの頃に、温かい声がけが本当に有り難く感じました。他県からのご支援に心が救われていたことを忘れることは出来ません。

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