急に視界が広がった南三陸町に続く道

2011(平成23)年3月31日(木)に退職辞令を頂きました。私の職場では、管理職のほとんどが退職又は転勤の発令が出ていました。管理職が全て変わるような状況下で、円滑な被災者支援ができるとは思えなかったので、これまでの会議の進め方や市町村支援の実際を具体的に説明する為に4月1日(金)の1日だけ職場に残りました。所長の傍にいて、対応の一部始終を見ながら必要に応じて助言を行いました。1日だけで何ができるわけでもないのですが、前任者としてこれまでの経過をしっかり後任に伝え、市町村支援に不具合が用事無いようにしたかったのです。

翌日2日(土曜日)は、以前関わりにあった本吉町前浜集落に野菜等の生鮮食料品を届けながら、南三陸町までの道順や道路事情を確かめに出かけました。野菜等の生鮮食料品は、以前お世話になった方にお願いして、リンゴやキャベツを車いっぱいに買い込み被災地に持って行きました。それから持っていったのは野菜ジュースと生卵等です。野菜が不足しているようだったので、野菜、果物を特に用意しました。

本吉町前浜の方々は、「清涼院」に自主的に避難所を開設して、避難生活を送っていました。地域住民は、避難所運営の為の自治会的な組織をつくり、組織だった避難所運営が行われていました。被災前から、この地区の方々は地域活動が熱心で、様々な地域行事をやっていた地区です。平時の取り組みが有事に機能することを証明してくれたような場所です。私が地域福祉課に籍を置いていたときに知り合った場所で、仕事としても個人的研究対象としても興味を持っていた場所でした。みなさんの様子を見てお見舞いも早々に南三陸町に向かい、道順や道路事情を確かめながら帰路につきました。

3日(日曜日)は、被災地で生活するための準備を行いました。単身赴任で生活していたアパートは、片づける余裕がなかったので、そのままにして置きました。帰る暇もなかったので、半年くらいそのままだったように思います。

南三陸町へはボランティアで行くので、食料や寝る場所は自己調達が原則なので、車いっぱいにカップ麺と水を買い込みました。野菜ジュースは欲しかったのですが、どの店でも売れ切れで買えませんでした。寝床は-15℃対応のシュラフだけです。無理すれば1ヶ月は持ち堪えられる食料を積み込みました。それ以上は何とか近隣の市町で調達しようと考えました。その他の所持品は、自炊用の食器、ガスコンロ、少々の着替え、パソコン、ノート、筆記用具、懐中電灯位です。それらを山岳用のリックに詰め込みました。食料の量を除けば、キャンプの装備とほぼ同じです。

家族への説明は、行って見ないと分からないと、説明になっていない説明だけして、4日(月曜日)の朝5時頃に自宅を立ちました。仙台から南三陸町志津川までは約100㎞2時間30分ほどです。道路事情が悪いので約3時間を予定して8時までには着けるように5時に立ちました。仙台から古川までは国道4号線。古川からは国道346号線で涌谷町へ。それから県道で前谷地、桃生を経て、柳津から国道45号線に入り、津山町横山、南三陸町戸倉、そして南三陸町志津川へという道順です。

交通量はさほど多くなく、津山町横山までは順調に進みました。この間、地震被害を感じさせる様子は、古川を走っている時に、道路の陥没や傾いた電柱が多く見られましが、家屋の倒壊などは、ほとんど見ることはありません。しかし、津山町横山を過ぎ南三陸町戸倉に近づくと、様子は一変しました。戸倉の手前にさしかかった時、急に海が見えたのです。道路沿いの川は、明らかに堤防を越えて道路にあふれ出し、倒木が重なり川縁に残されている状況でした。1989(平成元)年から2年程、気仙沼土木事務所に勤務したことがあります。南三陸町(当時は志津川町)に少しは土地勘が有りましたので、今、目にしている状況は、明らかに違っていました。こんなに離れた場所から海が見えるなんて、あり得ないことです。

それでも半信半疑のまま車を海に向かって走らせました。国道45号線と戸倉地区へ向かう国道398号線の交差点を目前にした場所にさしかかるころには、状況がハッキリしました。家屋が全くありません。遠くに小学校(戸倉小学校)校舎と鉄骨だけの体育館だけが見えました。南三陸町の入り口でこの状態です。民家が軒を寄せ合って建っていた志津川町内は一体どうなっているのだろうと、心臓の鼓動が早くなるのを感じました。

「街が消えています」という沿岸部に派遣した職員の言葉を思い出していました。消えているって一体どうなっているのだろうと思いながら車を走らせました。しだいに道が狭くなり、両脇に倒木や住宅に使われていたと思われる木材が無秩序に積み上げられています。ホテル観洋の前を過ぎで更に志津川町に車を進めると、前方の視界が開けており、あったはずの町並みが見えません。ポツン、ポツンと鉄骨造りの建物が見えるだけです。水尻川に架かっている橋は無くなり橋脚だけが海の中に建っています。替わりに自衛隊が設営した仮設橋が掛けられていました。重量制限があるようで、一度に多くの車両が乗らないように自衛隊隊員が交通整理をしていました。

遠くに見える丘の上にある志津川中学校までの平地部には、木造家屋は一軒もありません。目に入るのは、窓という窓は全て無くなり、コンクリートの塊と化した、警察所、公立市志津川病院、高野会館、町営住宅等が、水浸しの瓦礫の中に建っているだけでした。

「街が消えている」とは、このことだと自分でも分かるくらい、ハンドルを握る手が震えていました。町内の道は、震災から20日過ぎ、瓦礫を両側に押し分けただけの状態で細く続いていました。南三陸町の仮庁舎はもうすぐです。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

急に視界が広がった南三陸町に続く道” に対して1件のコメントがあります。

  1. ハチドリ より:

    5月になり、バックがさくら色から新緑になり爽やかですね。

    先生が退職なさったあと、どのようにして南三陸町に向かわれたのかがわかりました。あのような状況で野菜や果物は大変喜ばれたのではないでしょうか。炊き出しにも使われたことでしょう。

    4/3は日曜日だったのですね。とすると、私が勤務していた役所ではその前日の土曜日に総務部長などと打ち合わせをし、日曜日はバスで集団避難してくる南三陸町の皆さんとお会いしたときのためのニーズ把握票みたいなのを作成していました。それを使って、大崎保健福祉事務所の保健師の皆さんには大変お世話になりました。

    いよいよ、南三陸町の役場の仮庁舎ですね。どんな日々が待ち受けていたのでしょうか。

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