東日本大震災との向き合い「現職最後の20日間」其の二
前回は、職場内での振る舞いについて二、三例を挙げて当時の様子を書きました。全く書き切れなかったので、今回も大崎保健福祉事務所で行ったことを書きます。とは言っても書き始めると様々なことが思い出され、なかなか南三陸町支援に辿り着かないような気がしています。わずか20日間だけのことなのですが、あれもあったこれもあったと頭がいっぱいになる感じです。その中から、今後有事に向けた備えとして考えておくべきことを幾つか選んで書かせて頂きます。
東日本大震災は、沿岸部に甚大な被害をもたらしました。特にリアス海岸沿いの市町は、海と直ぐに迫る山の間にわずかばかりの平地部があるという地形です。南三陸町を例に取れば、津波で町の75%が浸水しています。南三陸町は、来たから「歌津地区」「志津川地区」「入谷地区」そして「戸倉地区」の四つのまとまった地域から成っています。この内、内陸部の入谷地区(罹災率2%)を除いた歌津地区、志津川地区及び戸倉地区は、海に面しており、高台を切り拓いて住宅を建てている場所を除いたほとんどが津波で流されました。なので、南三陸町では、内陸部にある「入谷地区」を除き、ほぼ全滅状態だったのです。こうした状況は、女川町でも同じです。
石巻市や気仙沼市も被害が甚大でした。しかし、市内は奥が深くて内陸部もあり、市内での避難も可能でした。一方のリアス海岸の中にある南三陸町や女川町は、狭い平地が津波で浸水し、仮設住宅を建設する場所にも限りがあり、町外避難を余儀なくされたのです。この為、近隣の登米市、栗原市、大崎市が支援の申し出を行い、二次避難所(ある程度長い期間避難できる場所)が開設されました。
こうした経緯から、私がいた大崎保健福祉事務所管内では、鳴子をもつ大崎市が早段階から支援の申し出を行い、鳴子温泉の旅館・ホテルに集団で避難できたのです。これほど大規模で組織的に行われたのは、これまでの余り例はなく、手探りの中で、ほとんどが受け入れ市町の全面的な支援で進められました。大崎市の保健福祉担当課のみなさんには大変お世話になりました。もちろん、登米市や栗原市そして加美町の皆様方にも大変お世話になりました。
南三陸町の被災者が鳴子温泉に集団で避難してくるというお話しは、年度末ぎりぎりに聞きました。その段階では具体的な内容は分からず、そのような自体になれば、県としても大崎市を支援する体制を整える必要があると考え、保健福祉部にその情報を伝え、事前の準備を指示したりしていました。
一方、喫緊の課題として具体的対応が迫られていたのが、津波で浸水して機能停止した特別養護老人ホーム入居者の受入でした。前述したように沿岸市町の被害は甚大で、個人住宅だけではなく介護施設も同様に大きな被害を受け、機能停止状態になっていました。この為、入居している要介護状態の方々の受入が気仙沼市などから保健福祉事務所経由で要請されたのです。被災地では、一刻も早く要介護高齢者を安全な場所に移すことが求められていました。私たちも即座に対応しようとしたのですが、受け入れる特別養護老人ホームが難色を示しました。決して理解がないわけではなく、現実的な対応資源が乏しく責任ある対応が難しかったのです。
その時の様子でこれからも必要になるであろうことを二、三取り上げてみます。第一は、被災高齢者だけが送られ介護職員が付いてこないという状況がありました。受け入れる内陸部の特別養護老人ホームでは、三交代で休んでいる職員を呼び出しても人数が足りず、瞬間的に短期間でなら対応できても長期間となると難しい状態でした。他県からの介護職員のボランティは、多くが被災地に向かい、避難先の内陸部には来なかったのです。これに対して、行政側には、所管している長寿社会政策課に現状説明の申し入れを行い、職員配置人数の一時的緩和措置をお願いしました。これは、当然に行政としても考えており、早い段階で通知を出してもらいました。施設側には、同一法人内での人員の融通及び内陸部社会福祉法人に協力の要請を行いました。また、できるだけ多くの施設で受け入れてもらえるように、被災者を少人数に分けて受け入れるようにしました。大崎保健福祉事務所管内では、避難者数が増えることも予想し、受入要請人数以上を目標に定め、多くの法人に協力してもらい受入体勢は整えることができました。避難元の特別養護老人ホームとしては、できるだけ一箇所にまとまって避難したかったようです。その方が、把握しやすいので事情は理解できたのですが、受け入れ側は少人数でないと難しいので、私たちが十分把握するようにするからと説得し、分散避難を受け入れてもらいました。
第二は、受入が決まった施設から、「実は寝具が足りないのです」という連絡が多くの施設から入りました。特に、比較的多くの人数を引き受けてくれる施設では深刻でした。介護施設で使う寝具は、多くの場合リースで対応していました。本体の布団や毛布に加えて洗濯まで含めてリースしているのです。この為、施設では、わずかな予備を置いているだけで在庫がほとんどなかったのです。全く想定していなかったので、とても焦りました。その時、思い出したのです。以前、私は泉が岳青年の家に勤めていたことがあります。そこには宿泊施設が整っており、多くの寝具が常備されていたのです。そこに目を付け、泉が岳青年の家や蔵王少年自然の家に電話を入れ、ことの事情を説明し協力を願いました。その時、費用負担等の話は「後日!」と後回にし、できるだけ早く対応してくれるようお願いしました。蔵王少年支援の家では、事情を即座に理解し、自己所有のトラックで運んで来て頂きました。本当に有り難かったです。この様な準備を整え、受け入れ体勢を早急に整え気仙沼方面からの被災者を受け入れることができました。
第三は、認知症の方の受入です。避難当初は、ご家族と一緒に避難しているのですが、途中で病院に行ったりしている内にはぐれてしまう人が出てきました。経度の認知症でも、あの混乱した中では、不安感も加わり症状が強く出ることが多かったように思います。ある方は、一人ヘリコプターで送られて来ました。乗り込むときは名前も住所も言えたのだと思いますが、着いたときに名前も住所も言えない状態でした。何処の誰かが分からないままに避難してきてしまったのです。最悪、このまま亡くなってしまったら、大変なことになってしまうと思い、ラジオを通じて特徴等をお知らせし、ご家族を探したりしていました。その方は、幸い数日経って落ち着くようになってから、少しずつ自分のことや家族のことを話せるようになり、何とか家族を突き止められました。
この様な経験もあり、避難者の本人確認システムの必要性を強く感じました。その時に提案したのが、赤ちゃんが生まれて直ぐに手に着けるバンドです。あれと同じように、被災者となって避難した場所で、本人確認を行ってその標識をリストバントにして何処に移動しても、そのバンドで所在を確認できるようにするシステムです。認知症に方だけではなくあらゆる人が行う事で、避難所での名簿作成や人数確認などが簡単にできて食事の準備等にも生かせます。また、当時は、避難場所を何度も変えて広域で移動していたので、そんな場合でも、誰が何処にいるのかを即座に把握できます。東日本大震災で大変だった一つは、所在の確認です。役場は、それができず、本人からの申し出だけが唯一に情報源でした。そのようなことも防止でき迅速な把握と適切な支援が可能になります。でも、当時はそんなシステムを作る上げる余裕など全くなかったので、仕方ないのですが、今現在もそのようなシステムついて検討すらされていません。震災が大規模化、長期化している中においては、是非検討して頂きたいと常々思っています。
あ~・・、またしても書き足りない。どうしょう・・・。
沿岸部の福祉施設では大勢の方々が津波の犠牲になっています。私の友人も。あの時得た教訓を胸に刻んで、二度と痛ましい犠牲者を出さないように備えなくてはなりません。そして、施設入所者の避難先の手配には大変なご苦労と、近隣市町のご支援があったことをここで初めて知ることが出来ました。
また、震災後に行方不明者の捜索が進むにつれ、身元に繋がる情報が無いために家族の元に帰れないというケースが沢山ありました。
それを聞いて一緒に避難していた人達と、家族が私とわかる指輪やピアスを常に着けていようと話しました。
あの当時、瓦礫だらけの中、山へ薪木拾いや川で洗濯の毎日には不似合いながら、肌身離さず指輪を着けて過ごしていました。
あの様な大混乱の中においては個人と特定できる情報はとても大切だと実感していますので、是非、何らかの策を考えなければと思います。
個人と特定出来る為の策について考えていて思い出したのですが、子供達が家族の為にお揃いのミサンガを手作りしていました。色々な願いを込めつつ、いざという時の目印の意味も大きかったと思います。
津波では持ち物では手放してしまう、ペンダントでは切れてしまったようです。どの様な形なら、情報が分かり、外れないものになるのでしょうか。
そんな事を考えていたら今朝のTVで、ウクライナから避難する母娘が娘の背中いっぱいにマジックで個人情報を書いて避難したのを見ました。娘が独りになって困らないようにと。
なんて悲しい現実かと胸が痛くなりました。
みんなで真剣に考えなければいけませんね。
おはようございます。
当時のことが甦りますね。
何週に渡っても良いので書き綴ってください。記録を残してください。
よろしくお願いいたします。