八甲田山遭難から120年(河北新報記事2022-04-03)
河北新報記事「八甲田山遭難から120年」に目が止まりました。東日本大震災のことを書き始めようとしている矢先だったので、とても興味深く、そして極めた大切な示唆を含んでいると思い取り上げました。
1977(昭和52)年、故高倉健さんの主演で映画「八甲田山」が上映されました。原作は、新田次郎著『八甲田山死の彷徨』です。映画は観ていないのですが、1978(昭和53)年にテレビで放映されたのと原作を読みました。また、子どもが小さい頃に八甲田山に連れて行き、原野に立つ捜索隊の目印になるよう雪のなかに仮死状態で立ち続けた後藤房之助伍長をモデルにした像「雪中行軍遭難記念像」を見た記憶が有ります。
小説『八甲田山死の彷徨』は、日本陸軍が八甲田山で行った雪中行軍の演習中に起きた、参加部隊が記録的な寒波による吹雪で遭遇し、210名中199名が死亡するという凄惨な八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした山岳小説です。演習当日には、北海道で史上最低気温が記録されるなど、例年の冬とは比べ物にならない寒さだったといわれている。この演習は、日露戦争直前の1902(明治35)年に、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習及び陸奥湾沿いの青森から弘前への補給路をロシアの艦砲射撃によって破壊された場合を想定して行われたものでした。死亡した199人の多くは、岩手県、宮城県の出身者でした。
本事件については、新田の小説に先行して、青森県の地元紙記者だった小笠原孤酒が長年にわたる資料収集や第5連隊の生還者(小原元伍長)への聞き取り調査などに基づいてまとめた書籍『吹雪の惨劇』が存在し、これを知って取材を申し入れた新田次郎に対し、小笠原は資料提供や現地案内など多くの助力を提供しています。新田もあとがきで小笠原に対する謝辞を記しています(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)「八甲田山死の彷徨」』)。
これを今取り上げたのは、東日本大震災を経験して、有事の際に指揮する者の判断が極めて重要だということを身にしみて感じたからです。現場指揮の原則は、「指揮一元化」と「統合指揮」という二つの概念が大切です。指揮一元化は垂直方向の統合で、統合指揮は水平統合の要となります。この、縦と横における指揮をしっかり理解し運用することが重要なのです。
今から遡ること14年前の2008(平成20)年6月に発生した岩手宮城内陸地震で支援に入ったときの現場の混乱した様子が頭にこびりついています。多くの支援者が集まっている中で、指揮する人達が何人も集まって頭を寄せ合いながら、長い時間協議しているのです。更には、一度伝えられたことが、直ぐに訂正されたりするのを何度も繰り返し、結局元に戻ったり等々、指揮に一貫性がない様子を目の当たりにしました。また、現場で決めて伝えられたことが、上層部に却下され修正を余儀なくされるなども多々ありました。
そのような場面を見てきたので、東日本大震災の際には、現場指揮の大切さを強く意識して振る舞ったように思います。情報の出入りを一箇所にすることや指揮は一人の口から行う事等々は、それまでに見聞きした内容を身体に染みこませていたことが自然と出たように思います。時には、強引と言われたりもするのですが、首尾一貫した指揮は、後々の信頼につながるように感じます。
こうした首尾一貫した行動・振る舞いは、平時において繰り返し確認しておくことが大切で、身近に指揮者(親・大人)が居ないときは、それまでの話し合いの内容や事前に言われていたことを頼りにするしかありません。事前に教わっていたことや指示されていたことを信じて、自らの判断で行動することが大切になってきます。「てんでんこ」はこうした事前のぶれない学びが前提にあって成り立つのだろうと思っています。
臨機応変は、時として混乱や誤った誘導につられるリスクがあります。想定外を想定することはなかなか難しいことですが、これを避けるためには、「安全側に間違う」という考え方を持つ必要があると思います。迷ったときは、留まる選択ではなく逃げる選択を選ぶ。避難に「早すぎる」は無い等々、無駄になることを恐れない選択が必要です。
八甲田山遭難から120年。東日本大震災と同様にその惨事を振り返り、大切な命を持って私たち教えてくれたこの教訓を、安心安全な生活に生かすことが必要なのではないかと思います。私たちの身の回りには、様々な学びの機会があります。ほんのわずかな時間で良いので、目にとめて自分の生活を振り返る機会になればいいなと思っています。
臨機応変!
浪江町の東日本大丈夫の犠牲者の85%は津波によるものだったそうです。その沿岸部にあった請戸小学校も津波に襲われましたが、一人の犠牲者も出ませんでした。
あの時、校長先生の指示で2キロ離れた高台の大平山に避難しようとしたそうですが、途中、車で渋滞する県道、通称「浜街道」が行く手を阻み、教師たちは車を制止して児童たちを渡らせ、中には、車いすの児童もいておぶって大平山へ向かったようです。
そんな時、一人の児童が山のだいぶ手前のところで「こっちに近道がある。先生、ここから山に入れるよ、練習で来たことがある」と言ったのだそう。先導の先生はその道を知らなかったので「本当に入れるのか」と聞いたら「入れる」と言うのでそこから登って行ったようです。その先生は、その子の担任をしたことはなかったのですが、学年の垣根がなくどういう子がよく知っていたので、彼を信じてすぐに受け入たとのことでした。
本来の避難ルートは、山の外側を回る形で頂上を目指すものでしたが、男子児童から聞いた道を通ることで10~15分ほど、避難場所に到着するまでの時間を短縮できたといいます。
さて、私の当時の勤務先でも東日本大震災の時、災害対策本部が置かれました。部長、課長など上層部の集まりです。一夜明け、そこに指示を仰ぎに行ったのですが、私が見たのは頭からシュッシュッと蒸気が出ている、まるで沸騰したヤカンのようになって腕組みをしている指揮官役の姿でした。その時はとても私なんかが話ができる状況ではなく、「ダメだ、又あとで来よう」と、そぉっと事務所に戻ったことを思い出しました。
そして、まさに本間先生が書かれていたような『身近に指揮者(親・大人)が居ないときは、それまでの話し合いの内容や事前に言われていたことを頼りにするしかありません。事前に教わっていたことや指示されていたことを信じて、自らの判断で行動することが大切になってきます』で、現場では行動をしたことを思い出しました。
平時からの、日頃の話し合いってとっても大切だなと実感したのでした。あまりに想定外の災害で、それが役に立たないこともあるかもしれません。でも大切なことは、日頃からの関係性なのだと思います。それは地域の中でも同じことが言えるのだとも思っています。