かじってみよう“社会学”13講目 相互作用論の世界「自我の構造」
前回は、「人はみんなブリっ子」らしいと書きました。社会学では、少し意地悪かな見方をしているかも知れませんが、他者を意識して「演技」している現実を知る事も大切かと思います。この学びの延長で、今回は、自我がどの様に構成されているかを説明します。
このパーソナリティーの核となっている部分を「自我」といいますが、自我の形成には、代表的な考え方としては、三つの学説があります。①C.H.クーリーの説です。これは「鏡に映った自己」という考え方です。他者から褒められたり叱られたりしながら、他人の評価基準を自分の内の中に取り込み、それを下にして自分の行為として見るようになる。自我(自己意識)は、あたかも他人の目を鏡にして自分を映し出すことから生じる、という考え方です。②心理学者S.フロイトの説です。彼は、人間の自我は、エス・自我・超自我の三つのパートから成り立っていると説きます。人生は快楽原則から現実原則へ移行していく過程と考え、エスは欲求、自我は理性そして超自我は規範と整理されます。③G.H.ミードは、主我(I)と客我(Me)との対話で自我が形成されるという考え方です。
ここでは、G.H.ミードのI・Me理論を下にして説明していきます。何か、今回は大学の講義っぽいですね、すいません。できるだけわかりやすく書きます。でも、私は結構このI・Me理論は頻繁に引用しているので聞き覚えがあるのでは無いかと思います。聴いたことのある方はパスして頂いて結構です。
G.H.ミードは、社会関係の中から「私」(自我)が生まれるという考え方を誰よりも明確にかつ徹底した形で提示しました。ミードは、他者との相互作用の中で他者の視点を取得することができたときに「私」(自我)が生まれるのだと考えたのです。例えば、子どもは、まず、親や兄弟といった重要な他者との「直接的な相互作用」(第一次社会化と同じような考え方)を通じて、自分の行為に対する他者の反応を先取りすることを学びます。それを何度も繰り返している内に、直接的な相互作用を超えたところにある集団や社会全体が起こす自分の行為に対する反応を先取りして行為できるようになる。この時の相互作用の相手を「一般化された他者」といいます。
ここで、「他者の視点が取得される」という言い方によってミードが言わんとしていることは、他者が「私」を見るように私が私自身を見ることが出来るようになるという事態(他者:私=私:私)です。自我というのは、したがって、他者のまなざしに映る自分自身をそれとして認知したときに生み出されるのであり、そのまなざしは現実の他者の視線である以上に、自分自身の中にある他者の視線、他者が見るように自分を見ている自分自身の視線なのです(だから「自意識過剰」ということが起こり得る)。
他者のように私自身を見るという事態は、自我を二重化したもの(私:私=見る私:見られる私)として捉えることを意味しています。ミードはこの二重性を、行為する私(主我I)と、それを見て判断・修正する私(客我Me)という対概念によって定式化しました(別添参照)。ここでいう「客我Me」は、私の行為に対する他者の諸反応を自己の内部に取り込んだ(先取りした)ものと定義されています。
ミードはこの先取りの過程を二つの段階に分けて説明しています。まず、発達の初期の段階において先取りされているのは、自分にとって「重要な他者」、例えば養育者の諸反応。次には、発達が進むにつれてこの他者は、具体的なあれこれの他者等と置き換えられない他者へと一般化・抽象化されていきます。これをミードは「一般化された他者」と呼び、これが当該自我の所属する共同体・社会の規範を代表する視線になると考えました。
このように、超簡単に言えば、G.H.ミードは、主我(I)と客我(Me)との対話で自我が形成されると考えたのです。
別添の模式図を見て下さい。私という中には、持って生まれた(第一次社会化過程で獲得した私なども含む)私(主我:I)と重要な他者との関わりの中で形成された私(客我=社会的自我:Me)という、二人の私が自分の中での相互作用によって、私という「自我」が形成されています。
この構図の中で、社会的自我(Me)は、重要な他者が誰なのかで変わってきます。誰と結婚するか、どの様な職場に就職するか、どの様な上司の下で働くのか、どの様な人と付き合うのか等々によって社会的自我(Me)は異なり、結果として自己形成に大きな影響をもたらします。
様々な身体的・精神的・社会的理由で、重要な他者がいなくなったりします。例えば妻・夫が亡くなる、仕事を退職して同僚との関わりがなくなる、貧困などにより地域から孤立する、自己中的性格で友人が離れる等々、理由は様々あると思います。そうすると、これまでIとMeが相互作用を行ってバランス良く「自己」形成されていたものが崩れ、I有意の自己に偏ってしまいます。その結果、頑固になったり意固地になったりと「社会性」に乏しい振る舞いが出やすくなります。
社会性のある健全な自己形成を支援する為には、こうした状況を再構築してくれる、重要な他者の存在が不可欠なのです。健全な自己形成という視点でも、社会的「孤立」が何としても防がなければいけない課題なのです。「変わり者」とラベリングするのは簡単ですが、その状況に追い込まれているMeへのサポートを忘れてはいけないのです。
今日は、このようなことへの眼差しを提案して終わりにします。
2周目の13講目
相互作用論のつづき
『自我の構造』
①鏡に映った自己 CHクーリー
他人の目を鏡にして自分を映し出す。他人の評価基準を取り込む。
②エス・自我・超自我 Sフロイト
欲求→理性→規範と移行していく
③主我と客我(IとMe) GHミード
社会関係の中から『私』(自我)が生まれる。
一般化された他者からの視点を取得できたときに、自我が生まれる。
他者のように自分自身を見る→自我を二重化したもの
主我と客我が対話して自我が形成される。このため、客我が変化もしくは
失われた場合、バランスが崩れて主我が強くなりすぎる。
社会性が欠如し、孤立した頑固な変わり者を元にもどすには、重要な他者の存在が必要である。
本間先生と同じように社会福祉につなげて考えてみると、IMeのバランスが崩れてしまう原因のひとつは孤独である。独居老人に限らず、家族で暮らしていても孤独は存在するし、老人でなくとも孤独な人もいる。明らかに孤独な自立支援が必要な方々はアプローチしやすい。問題は一見普通に見えている人々だ。きっと孤独な若者の主我が強くなりすぎて、とんでもない自分勝手な理由で事件を起こしているのだ。ここに重要な他者として介入するにはどうしたらよいのだろうか?この孤独な若者にも当然家族はいるだろうし、友人もいただろう。身近な人に注意を払う、気に掛けることで孤独は救えるし、事件も減らすことができるということを広く知らしめることが、いま僕にできる最大限の行為と思う。
みなさま、今回もコメントを寄せて頂き有り難うございました。13講目 相互作用論の世界「自我の構造」に対して10件のコメントがありました。とても有り難いことです。互いのコメントに互いのコメントに「すっかげている」(わかるな~・・)のも面白いですネ。
第13講は少々難しい所もありましたが、わりと思い当たる節もあり、書きやすかったかも知れないと思っています。みなさまのコメントを読んで、東北学院大学修士課程に在籍した頃、指導教官に言われたことを思い出していました。その指導教官は、社会人の院生は、レポートに個性があってとても面白いと言うのです。なぜなら、学部生から持ち上がって来た院生と違い、社会人院生は、仕事や人生経験がレポートに反映されており、その人でないと書けない個性のある内容になっていると言うのです。
私も、みなさんのコメント(小論文)を読んで、それを感じています。それぞれの人生経験、仕事等々を下にした記述で、その人そのものを色濃く反映していると思います。別の見方をすると、人生や仕事とどの様に向き合って来たのかが読み取れる様な気がするのです。みなさんのコメント(小論文)は、社会人院生のレポートのようです。なかなか良い感じです。きっと、大学院に籍を置いて、このレポートを書いていたら「優」を頂いているでしょう。
では、始めに、頑張って一番乗りした鈴虫さんからです。
「Care/Supportの役割」に真っ先に着目したあたりはさすがです。「まだまだ伸び代がある!」鈴虫さんの存在は、自分が思っている以上に大きいです。重要な他者としてMeに働きかけ、自律を促し自己実現に意識を向けることができるよう支えて下さい。グズグズと葛藤を続ける姿は、常に問題意識を自覚し高みを目指す姿勢に必須の「足踏み」であって次の飛躍のための助走です。ポジティブに捕らえましょう。
スマイルさん。「私は戦争時代に生まれていたら、生粋の軍国主義者になっていたかもしれない。戦国時代に生まれていたら躊躇なく人を殺めていたかもしれない」。どのような時代で過ごすのかによって、こうなってしまうこの怖さを示してくれました。私たちは、ほんの少前の太平洋戦争の時に、こうした考え方で多くの国民が戦場に赴いていました。そして、人を殺(あや)めることを「勝利」と言ったのです。
生まれた時代や国が変われば、今の私ではないのでしょう。だからこそ、この社会に対して、「当たり前を鵜呑みにせず」「周りの環境に流されず」自分の考えをしっかり持つことの大切さを再確認する。そういう意味で、自分を大切にすることは非常に意味のある振る舞いだと思います。「周りの環境によっては、どうとでもなりえる自分」ということを自覚することはとても大事、改めてこの言葉の重さを感じながら読ませて頂きました。
「居心地の悪さを感じる自分」が心を耕し、芯を作ってきてくれた。これは、持って生まれた社会や他者に対する嗅覚の様な能力を研ぎ澄まし磨きを掛けることも同時に必要なことと教えてくれている記述ですね。「自分を信じる」ことの大切さを示す言葉とも読み取れるように思います。
やまぼうしさん。『私の「me」に関わった人々の顔を思い出し、全ての人に「ありがとうございました」と言いたいです。』私たち「人間」は、社会的動物で感謝という言葉でつながっている。そう考えると、このやまぼうしさん感覚はとても大事ですね。次は、やまぼうしさんが、これまでのmeで形成された自分とIとを重ね合わせたNew「やまぼうし」(重要な他者)としてAさんのmeと関わる番ですね。感謝の「恩送り」をして、その知恵や経験を伝えて下さい。
いくこさん。『「me」を作り上げる一般化された他者のイメージも自分で選んでいる。少しひりひりするものを選ぶのか、楽にいられるものを選ぶのか、それを決めている私。いったい私って・・・・またしても迷宮』。わかるな~・・「この世で一番の未知、それは『私』」いくこさんはいつも自分を深く見つめる哲学者!です。いくさんのコメントを読んで、みなさん自分自身を振り返っていると思います。
迷いのヒントに「池田晶子さんの本をまた読めそうな気がして楽しくなってきた」。格好いいな~・・・!MAGYさんの0(zero)を飲みながら首をかしげる姿が見えます(霊能者?)。
追伸 ハチドリさんとのやりとりいいですね!年齢が近いのでしょうか?
ハチドリさん。前半は学生のようやコメントで後半が実体験を反映したコメント。なかなかいイイ構成だと思います。全般の理論の理解はその通りです。しっかりと理解されているようでとても嬉しいです。
そして後半は、精神疾患を抱えている方との向き合い方において、「ラベリング」や「Me」としての関わり方について事例に即して整理して頂きました。「重要な他者の存在が不可欠」をしっかり頭と心に刻んでSupportしたい。仕事だからできる。でも、仕事でもできない人は山のくらいます。「大切な仕事だと思って」の先は、こうした考え方が身についた「はちどりさん」がいることでしょう。
阿部さん。とても興味深いコメントを有り難うございました。『自分が人と話しているとき、幽体離脱のように話す自分を右斜め前からみています。話している顔を自分で見ているという変な感覚です』。この感覚は、私が考えるには「他者感覚」が非常に優れ、その姿勢が日常的になっているのだと思います。
他者感覚とは、「他人を他人の立場に立って自分として理解すること」です。他人を自分の立場から理解するのではなく、たた他人の立場から理解するのでもありません。あくまでも”他人の立場で自分として他人を理解する”のです。Aさんを見ているもう一人の他人Bさんがいて、BさんはAさんをこんな風にみているのだろうな、と私が客観的にその様子を社会想像力を持って見ている。こうした自分の考え方見方を客観視する捉え方です。
常に自制的は見方をしていることを、こうした「幽体離脱」的現象を例に説明していると理解しましました。また、I Me理論を「自立支援」につなげている所に着目して頂きましてとても嬉しいです。私が、ケアや地域福祉の場面で「I Me理論」を持ち出す理由はここにあるので、そこで唸って頂き感謝です。
みなさま、今回も有り難うございました。私は、「理論」と「現場感覚や経験」は両輪だと考えています。そのは両輪がうまくかみ合って初めて目指すべき方向性を持った推進力を生み出せるのだと思っています。様々な事例を突き詰め一般化していったところに、極めてシンプルな「解」がある。そこまでの道筋をうまく支え導いてくれるのが「理論」だと考えています。
私たちは様々な事案の課題解決の為には、丸腰では難しいので、何らかの武器(メス)を持って立ち向かうことが必要です。今、私たちが行っているのは、この武器(メス)を持つあるいは使い方を知ると言うことです。様々な社会の出来事を、みなさんの感性とここで学んでいる武器(メス)で切り裂き、核心をえぐり出して頂きたいと考えています。引き続き、お付き合いを宜しくお願いします。
本間先生
一生懸命にほめていただき有り難いです。
『グズグズと葛藤を続ける姿は、
常に問題意識を自覚し高みを目指す姿勢に必須の「足踏み」であって次の飛躍のための助走』ここが特に気に入りました。
また、みなさんのコメントに共感したりいいなと思いながら、一人ひとりにコメントを送れずにいましたが、先生が私の気持ちまで一緒に届けていただきました。この様に言い表わせば良いのですね、それもまた勉強になりました。ありがとうございました。
ひとつ歳を重ねたせいか、最近は変な時間に目が覚めてしまい早朝から参加しております。
みなさん、今日の一日が心静かにおくれますように。
阿部さんの幽体離脱(のような感覚)のお話、とても興味深く読ませていただきました。前に、ある資格を取得するために学んでいた時に知った「自己覚知」と言うのに似ているかもと思ったからです。
「自己覚知」とは、すごく簡単に言うと、自分が誰か相手と話をしているとして、その話をしている自分をそれこそ幽体離脱した自分が客観的に見ている。そして、自分はどういう物の言い方をするのか、どんな考えでどんな態度で相手と接しているか等、自分自身が持つ考え方や感情などのパターンを理解すると言うものです。介護の仕事で自分を理解すると言うことの大切さから始まった自己覚知のようですが、何も介護の世界だけではなく、普段の職場、家族の中、友人との間でも自分を見つめてみることは大切なのではと思っています。Meの形成にも大きく関わっているかもですね。
そして、本間先生が講評で書かれていた、「他者感覚」については初めて知りました。『他人を自分の立場から理解するのではなく、ただ他人の立場から理解するのでもありません。あくまでも”他人の立場で自分として他人を理解する”のです』とありました。他人の立場で自分として他人を理解する、とても重要な思考と言う行為(この言い方、大丈夫ですか?)、 とても勉強になりました。よく「相手の立場で考えてみる」と言う言い方をしますが、ここに何か足りないものがあると感じていましたが、自分として他人を理解すると言うことですね。
と、ここまで書いて、別の疑問が沸いてきてしまいました。今日は時間がないので、また次の時にでも書きたいと思います。
ハチドリさん、コメントありがとうございます。
「自己覚知」を勉強してみます。いつもハチドリさんのコメントを読んで、学びたいことがどんどん増えていきます。全てはやれてないですけど。
13講目、ありがとうございます。
本当は火曜日あたりにコメントしたいのに、何度も読み返しているうちにいつも土曜日になってしまいます。
『自我の構造』を楽しく受講しました。I・ME理論の説明は図解まで提示していただき、とても分かりやすく助かりました。本当にまるで大学の講義を受けているようです。タダで。
昔から思っていたことがあります。自分が人と話しているとき、幽体離脱のように話す自分を右斜め前からみています。話している顔を自分で見ているという変な感覚です。38歳を超えたあたりからは自分Aをみている自分Bを、さらに見ている自分Cを感じています。I・ME理論を教えていただき、話している自分AはIで、それを見ている自分BはMEなのだと分かりました。
さて、自分Cは一体誰なのでしょう?MINE?現在51歳ですが、この後メンバーが増えるのかとても興味があります。3人で相互作用しながら自我を形成していきます。
最後に自立支援につながっているところなどは、唸りました。
本間先生のすごいところは、社会学者でありながら実際に福祉で実践されているところです。人に役立てるために学者になったというほうが正しいでしょうか。次回も楽しみにしております。
阿部さんより5分早かった・・と喜んでいるこの私は,I?Me?(笑)
Naritaマルシェさんのウェブサイトを見て,え?もう、バッケ?と思い,急いで自分のスマホの写真をスクロールして見ていったら,昨年の今頃はすでにバッケの天ぷらを食べていたと認識し,急いで秘密の場所(誰も採らないので勝手に思っている)に行っていたら,もうこんな時間なってしまいました(汗)。土曜日はすでに講義のコメントは終了とわかっていながら,「バッケが私を呼んでいる」と思い,そちらを優先している『独自性をもった行為をしている私(I)』です。
きっと受講生の皆さんは,コメントをもう書いているんだろうな~,ダメだな,私。自分の楽しみを優先ばかりしてこんなんじゃどんな目で見られるか。なんとか日の明るいうちに書き終えて,講評してくださる先生にもご迷惑をおかけしないようにと,おやつの誘惑も我慢して食べないで頑張る・・と,『重要な他者との相互行為を通じて形成される自己(Me)』。⇐この書き方は合っていますか?
①C.H.クーリーの『自我(自己意識)は,あたかも他人の目を鏡にして自分を映し出すことから生じる』と②S.フロイトの『エスは欲求,自我は理性,そして超自我は規範』というのも,そのフレーズからなんとなくわかるような気がしますが,今回の講義で③G.H.ミードの『主我(I),客我(Me)との間で自我が形成される』という考えを詳しくお聴きし,もしかして,以前にもこのI・Me理論を聴いたことがあるかもしれませんが,さらに深めることができました。そして,『この構図の中で、社会的自我(Me)は,重要な他者が誰なのかで変わってきます』とありました。
そこでまた頭に浮かんだのが,相田みつをさんの「ひとの世のしあわせは 人と人とが逢うことから始まる よき出逢いを」と「そのときの出逢いが 人生を根底から変えることがある よき出逢いを』という詩です。なんだか,社会的存在としての人間を語るのにぴったりだと思ったりしています。
そして今回の講義で一番強く印象に残ったのが,『社会性のある健全な自己形成を支援する為には,こうした状況を再構築してくれる,重要な他者の存在が不可欠なのです』ということです。この教えは,しかと頭と心に刻んでおきたいと思います。今,13歳で精神疾患を患い,親にも兄弟にも見放されて一人で地域で生活を送っている40代後半の方がいます。まさに「困った人,変わり者」とラベリングされてしまっていますが,その状況に追い込まれてしまったその人の「Me」の部分の理解になんとか近づき,サポートをしていきたいと思いました。でもこれは,仕事だからそのようにできるのかもしれません。でも,大切な仕事だと思っています。
13講目もありがとうございました!
今回もうんうんうなってなかなか言葉になりません。
先生、遅れないようにと言いながら、完全に遅れています。
「me」を作り上げる一般化された他者のイメージも自分で選んでいるのですよね?
少しひりひりするものを選ぶのか、楽にいられるものを選ぶのか、それを決めている私を形作っているものは何か…またしても迷宮。
迷宮の中に居ながら、ここをもう少し考えていくとしばらく前に投げ出していた池田晶子さんの本をまた読めそうな気がして楽しくなってきました。
今回もありがとうございます。
追伸
先日9日のページでコメントをを頂いていた、ハチドリさんと鈴虫さん、後の方を見逃していて失礼いたしました。いつも暖かなコメントありがとうございます。
やりとりさせていただく中で、親を見送った姿をひとつひとつ取り出して丁寧に心にしまっているように感じています。
いくこさん,母が生きていた頃には感じていなかった想いが,私も皆さんとのやりとりで蘇り丁寧に心の中にしまっていますよ。ありがとうございます。
追伸 ソバージュの頃に出会わなくてよかったと先生から言われてしまいました(笑)
( *´艸`)
私もありますよ。
ソバージュでワンピースとジャケット両方に肩パット、ハイヒール、シャネルの赤い口紅、全身黒ずくめというのもあります。で、夜な夜な六本木というおまけつきです(笑)
先生、絶句ですね。
オー、いくこさんも?なんか嬉しいです。
おーい、先生、聴いてますか~(笑)
あっ、真面目な講義なのにまたふざけてしまいました。
12講目で、「地」は変わらないものでしょうか?と初めに質問しました。
自分の対人関係の経験から、自分自身の中に居心地の悪さを実感し、役割演技を変えて、その自分自身が変わったこと(と、自分では思っている)も「地」と言っていいのかなという疑問でした。
まさに、今回の講義に書かれている「I」と「me」なのだと理解しました。
前回の講評の中に先生が書いてくださっておりましたが、なぜそのように振る舞うのか、なぜそれが好きなのか、なにがそれを選ばせているのか等々、私の「me」に関わった人々の顔を思い出していました。全ての人に「ありがとうございました」と言いたいです。
『社会性のある健全な自己形成を支援する為には、こうした状況を再構築してくれる、重要な他者の存在が不可欠なのです』
本当にそうですよね~としみじみ思っております。
葉祥明美術館、とても素敵な表札?ですね。私も行ったことがあります。初めて横浜に行った時に足を伸ばし、確か北鎌倉あたりにあったような記憶。すぐ隣でくず餅を食べて帰って来ました。
よく思うことがあります。私は戦争時代に生まれていたら、生粋の軍国主義者になっていたかもしれないと。戦国時代に生まれていたら躊躇なく人を殺めていたかもしれないと。生まれた時代や国が変われば、今の私ではないのでしょう。そうであれば、やはり他者との関りによって(あるいはその時の社会によって)自分は形成されていくということはそうなのだろうと思いながら読みました。
だからこそ「周りの環境によっては、どうとでもなりえる自分」ということを自覚することはとても大事だと思ってきました。戦争中に平和を訴えた人たちもいた、そんな生き方もあるのだということを心の中に置き、「今常識と思われているもの」「みんなが当たり前と思っていること」を鵜呑みにしないようにしよう、と思っています。
一方で、子どものころから「そのようにあれ」と言われても、どうしても「そうはなれない自分」がいて葛藤を抱えていました。そんな時は本をんだり、歴史上の人物の生き方や思想を学んで、「どうして自分は素直に受け入れられないのか」「どうしたいと思っているのか」を考え続けてきました。それはもしかしたら、受動的にではなく能動的に選び取ろうとした「他者の視点」だったのかもしれません。
教えられたわけでもないのに「何か違う」と思い、他の道を模索しようとする「私」は、では果たして何なのでしょう?どこから来るのでしょう?自分の感覚で言うと、それは教えられたものや学んだものではなく、もっと奥深くから湧き出てくるように感じます。世間のありようや親の教えによって表面的に形成されていく「自分」に居心地の悪さを感じる。振り返ってみると、この「居心地の悪さを感じる自分」が心を耕し、芯を作ってきてくれたようにも思います。
同じ親に育てられても、兄弟姉妹は全く違うように育っていきます。時には真逆のこともあり不思議です。それは「自分の奥が何を感じるか」の違いによることが大きいのではないか、と最近思っています。こういうことを突き詰めていくことは「社会学」からは外れてしまうことかもしれませんね。でも、そういうことも含めて考えることは大切なのではないか、という気がします。
講義には『健全な自己形成という視点でも、社会的「孤立」が何としても防がなければいけない課題なのです。「変わり者」とラベリングするのは簡単ですが、その状況に追い込まれているMeへのサポートを忘れてはいけないのです。』とありました。また、2月16日の記事『発達障害」とは、どんな障害?』に、育てられ方や性格とはまた別の要因で周りから理解されにくい方たちがいることが書かれてありました。「もしかしたら?」という視点を持ち、理解しようとする姿勢を忘れないでいたいと思います。
『自我の構造』について、今回も(うーむ)と唸りながら考えたことを書かせていただきます。
『身体的・精神的・社会的理由で萎えてしまった私に対して、他者との関わりの中で私(Me:社会的自我)に働きかけ、生きることに主体的で積極的な自己(I +Me)の再構築を支援する。Care/Supportの役割はここにある。自立支援とはこうした構造で行われる必要があると考えています。』私も、この様な心温かい支援のある輪の中で生きたいと強く思います。(でも、こんなことを言ってると「周りに何かしてもらおうと期待ばかりするんじゃない」と先生に叱られそうですね。)
「誰もが安心安全を実感できる」。このように良く考えられた支援体制のある社会づくりのためには、先ずは私自身が、何かしらの理由で萎えてしまっている他者を理解しようとつとめながら、支援の手を差し伸べる行為を起こさなくてはいけないのでしょうね。
でも、今現在の私は、IとMeの間で活発な対話を重ねている最中で、確固とした軸が定まっていない感じなのです。何故なら、毎日を私らしく伸び伸びと生きたいと願う私(I)と、いやいや其処は違うかもしれないから改めなければいけないと思う私(Me)との折り合いをつけるのに手間取って、あっぷあっぷしているところだからです。
なんでそうなっているのかなと振り返ってみると、『他者が見るように自分を見ている視線』が大きく足りていなかったのかもしれません。
この様に、なんだか自分に自信が持てずグズグズと葛藤が絶えません。そんな私ですが、他者の支援を考えるとき、人の弱さや脆さを知る者として相手と向き合えるという意味では、私の存在意義も前向きに捉えてもいいのかもしれません。
今回も、恥ずかしながら駄目ダメな私をさらけ出してしまいました。そんな私にとっての幸運は、色々な考え方に触れる機会に恵まれ、ときには共感し合ったり、あるいは私の不足に気づかせてくれ「この様ににしてみたらいいのでは」等のアドバイスを与えてくれる、身近で重要な他者(準拠集団とイコール?)としてのこのHPの存在です。とっても心強く必要不可欠な関わりだとみなさんに感謝しています。
そして、まだ先の長い私の健全な自我の形成のためには、いつも前向きに生きたいという強い思いと共に、失敗を恐れずに果敢に挑戦し続ける羽生結弦さんの姿から真似ぶことが山ほどあるなぁと思っています。
近頃は朝な夕なに「私にはまだまだ伸び代がある!」と、自分を励まし暗示をかけているところです(笑)。
本当は蓋をしておきたい自分の心の中をあえて覗き整理してみるといういい機会になりました。そうしたことをやりながら、何度も13講目を読み返しているところです。今回もありがとうございました。