判断力を支える市民後見
仙台市社会福祉協議会は主催する「第3期市民後見養成講座」の一コマを担うべく仙台市福祉プラザ(青葉区五橋)にいってきました(1月29日)。この講座は、成年後見制度の普及などの推進により、今後更なる増加が想定されている認知症高齢者などの判断を支える「市民後見人」の養成を目的に行われています。対象者は、養成講座受講を希望する一般市民で、書類選考及び面接選考で選ばれた30人ほどの方々です。
講座は、基礎講座と応用講座があります。基礎講座は、8月から12月迄の10日間で30科目ほどの講義が組まれています。また、応用講座は、1月から3月迄の5日間で15科目あります。講師は、弁護士、司法書士、税理士、医師、社会福祉士、精神保健福祉士等の専門職が名を連ねています。
私が担当したのは、応用講座の中の「地域の活動を知る」という科目です。今回は「市民の持つ専門性と求められる地域づくり」という内容で2時間お話をしました。講義内容は、第一部を「私たちの身の回りをよく見てみよう」として、地域社会現状などについてお話をしました。第二部は「寄り添うことの意味(社会学に視点で)」として、寄り添うとは何か等についてお話しをしました。
受講者のみなさんは大変熱心で、私のつまらないお話しをしっかり聴いて頂きました。新型コロナ対策で、面接型の受講者とWeb型の受講者に分かれて、広い会場に散らばっての受講でした。これからは、こんな感じがスタンダードになるのかも知れないと思いながら、特にWeb受講の方々も意識しながら講義を行いました。
これからの超高齢社会においては、従来は「介護」の課題を取り上げられることが多かったように思います。しかし、これと平行して高齢者の判断(自己選択・自己決定)を支える支援の必要性もとても大きくなっていきます。これまで、余り知られていない高齢者の判断を支える支援で求められているのが「成年後見制度」です。高齢者のIADL(日常生活動作)を支える「介護」と併せて自己選択・自己決定を支える「成年後見」が必要なのです。それも、地域の軸足を置く、Community based social workとして行われる必要があると考えています。
介護と成年後見は両輪となって高齢者の「自己実現」を支える社会。私はこの様な社会を見たいと思っています。その為に、私は何ができるのか、何をしなければならないのか。講義を終えての帰り道、地下鉄の中で考えていました。まだ、具体的なことは見いだせていませんが、少なくとも高齢者が「早くお迎えが来て欲しい」と神仏にお願いする様な社会にはしたくないと思っています。何歳になっても、「なりたい自分」を夢見るそんな高齢者で溢れる社会になってもらいたいと思います。其の社会の基本となるベーシックサービスやお互い様のある地域社会(地域共生社会)は、今後、社会の進むべき道筋を決定づける重要な課題になります。心して向き合いたいと思います。
年を重ねることが豊かで美しいと感じられ、あとから来る人達の希望となる社会にしたいと願っています。
私の「なりたい自分」とは何か、みなさんのコメントを読みながら考えていました。
自分のことが大好きでどんな時でもご機嫌な人でありたいです。父と母を支えてきた日々を振り返ると、支える側としての私の望みは、日々を幸せに思い機嫌よく暮らしてほしいというものでした。そのために生活の質が落ちないようと色々な行政サービスのお世話になりましたが、手をつくすほどに、家族の迷惑になっているという母の気持ちの負担になっていったように感じていました。母の望みは何だったか、それは私の笑顔であったのかもしれません。「お互い同じこと考えていたのかもねお母さん、もう向こうから見てるから気づいたよね?」
こうしてパソコン入力している私の手は関節が大きくシミも目立って、きれいな手と言われた若い頃の面影もありませんが、良く頑張ってきた手だからありがとう大好きと思っています。
手が好きになれたので、自分を丸ごと大好きになれる日も近い!と思っています。
いくこさん
「自分のことが大好きでどんな時でもご機嫌な人でありたいです」
これが一番ですね!
でも、難しくもあります。私はもっと物事をシンプルに考えるようになりたいものです。いつも考え過ぎて自爆ばかりしています。
いつかそんな自分さえも、よしよしと可愛がれるようになりたいです。
鈴虫さん
コメントありがとうございます。
私も母譲りの心配性、先々を考えてしまいます。
これからさき年を重ねてできない事が増えて、もしも人の世話にならなければならなくなった時に、どんな自分でも受け入れて機嫌よく人任せにしたいと願っています。家族の迷惑になっているという母の心の負担は、どんな自分でも大好きと思えれば軽くなっていたのではないかと思っているからです。
心配性なのでいつかなりたいと思っていると時間が足りなくなりそうで「今そうなっています」と言いたいのです。ここは演じてみる、癖になって定着するかも(笑)
機嫌のよい人が増えれば社会は明るいです、鈴虫さんもいかがですか?
いくこさん
私も今直ぐにでも、他所様に心をひらく演技を初めておかないとだれも寄せつけずに引きこもりの晩年を過ごすことになりそうで怖いです。
私も毎日を機嫌よく過ごせる様にと心がけて、世の中を明るくしていくという役割期待を自分自身にかけてみましょうか。
確かに、明るくていい世の中になりそうです!
いいアドバイスをありがとうございました😊
こちらこそありがとうございます。
ご一緒にまいりましょう。
いくこさん、お母さんの望みはいくこさんの笑顔だったのかもしれません。いや、きっとそうだったと思います。子供が笑顔でいてくれたら、親としてこの上ない喜びだと思うのです。私は母の病気の理解がとても遅くなり、いつも機嫌の悪い表情を見せていたから、とても後悔してるのです。だから今さらだけど、写真に向かってニンマリ話かけるのが日課になています。
パソコン入力しているいくこさんの手のことを書いたくだり読んで、なんか涙が出そうになりました。私は、昔はソバージュに肩パットの入ったブレザーを羽織ってハイヒール履いてたけど、今はスニーカーしか履けない足になっちゃっいました。でも、この方が動き易いし、たくさん歩けるし、笑顔になれる!私も自分を丸ごと好きになれる日が近いかもしれません。
いくこさん、ハチドリさん。ここにも私も交ぜてください。
おふたりからそれぞれにお母さんとの大切な思い出をわけていただいて、とても胸が熱くなりました。
ああすれば良かった、こうすれば良かったといつまで経っても自分の不足を思ってしまいますよね。そして、私が子供達にお世話されるようになったら、やはり申し訳なさと情けない気持ちが湧いてくるのだろうなと思います。
それでも親のために一生懸命に考えた時間というのは、子供をより成熟した大人にするのではないでしょうか。私達はそれぞれが親にしそびれた経験を次の人への気配りにつなげようとしていると思うから、最後に親から与えられた大事な学びだったと捉えてみませんか。私はこれからはその様に思うことにします。
みなさんとの会話からようやく整理がつきました。ありがとうございました。
『何歳になっても、「なりたい自分」を夢見るそんな高齢者で溢れる社会になってもらいたいと思います』と言う言葉、とても嬉しく思いますし、ぜひそうあって欲しいです。
年齢的に高齢者に足を一歩踏み入れている私ですが、やりたいことがたくさんあります。出来るだけ健康に気をつけていきたいと思いますが、身体が不自由になったり、回りから見たら判断力が低下していても、私がしたいことを住み慣れた地域の中で手伝って欲しいですね。
食欲がないときは、大根おろし納豆があればご飯食べれるかも!(笑)
誰かを支えようとした時に大切な事は、本人らしさを尊重すること、本人の気持ちに寄り添う姿勢だと思います。
ここで『寄り添うとは、内省的向上心を促し「自律」という自己選択・自己決定を支えること』とあります。
よくやりがちな間違いは、家族や支援者などの第三者が本人に成り代わって選択と決定まで行ってしまう事です。この時、当然ながら本人は納得がいかず反発するわけです。
私も独居の親戚を支援する中で時々この間違いをおかし、本人から反発され、関係性を悪化させてしまうという苦い経験をしています。その背景には、無意識のうちに私は支援しているという上から目線が根底にあったのかも知れません。
今現在はケアマネジャーや介護サービス、そしてまもりーぶによって本人には難しくなってきた金銭管理をお願いしながら自己選択・自己決定のある暮らしを支えていただいています。
要支援者を多面的に支える上で、より多くの社会資源と手を携えることは、本人と家族、さらには近隣の地域社会にも大きな安心感をもたらすのではないでしょうか。
成年後見制度が一般市民によって理解され、その役割を担える人材が身近にさりげなく居てくれるなら、高齢期を生きる不安がだいぶ軽減されることと思います。
『国家が諸君のためにではなく、諸君が国のために何ができるかをとうて欲しい』J・F・ケネディの言葉の様に、私たちも行政頼みの人任せではなく地域社会のために私に出来る事を考え「少しでも目指すべき未来に向けた行為」を積み重ねていきたいですね。
鈴虫さん
『よくやりがちな間違いは、家族や支援者などの第三者が本人に成り代わって選択と決定まで行ってしまう事です。この時、当然ながら本人は納得がいかず反発するわけです。』
あ~、ガツンときました。私もやってしまったことがあるかと思います。そう、良かれと思って決め、やったことが実はご本人の思い、気持ちを尊重しないで、支援者の知識だけで決めてしまったり。
とても大切なことを思い出させていただきました。この事は、さまざまな場面に通じますよね。あらためて心しようと思いました。
鈴虫さん、ありがとうございました。
H.Yさま コメントをありがとうございます。
私の場合は、つい本人(叔父)の意向より支援者(私)の都合の良いように物事を進めがちでした。私の都合に合わせて受診の予定を立てたり、既存の介護サービスに当てはめるように、本人の選択を制度に合わせるように強いたりすることなどです。
そんなある日、本人から「なんで俺のことをあんたが決めるんだ」と言われ、ハッとさせられました。私がこれらの失敗から学んだことは『そのひとの生き方は本人が決めることだ』という自己選択自己決定。極めてあたりまえのことなのに今更ながら気づかされました。これは私にとって大きな学びになりました。
支援を必要としている方々に対しては、支援のタイミングを見逃さない観察力とサッと手を差し伸べられる距離感・スピード感を持ったより多くの支援者が居るという地域社会が求められ、これからは益々、このような関わりが期待されます。私は、そんな役割を担えるようになりたいと思っています。
長くなり失礼しました。
鈴虫さん、こんばんは!
「失敗は成功の良師なり」と言う諺があります。また、ビル・ゲイツ(実業家・慈善活動家)は「成功を祝うのはいい。しかし、もっと大切なのは失敗から学ぶこと。」と言っています。
こんな言葉を聴くととてもホッとします。穴があったら入りたくなるような失敗を私はいっぱいしてきたので。でも、その失敗に気づかせてもらい、反省してそこから学べば、その後の仕事も人生も、より良いものへと変えることができるように思います。
ハチドリさん
おはようございます。
『成功を祝うのはいい。しかし、もっと大切なのは失敗から学ぶこと。』ビル・ゲイツ
今日も謙虚な姿勢を心がけて過ごします。
コメントありがとうございました。
鈴虫さん、『私たちも行政頼みの人任せではなく地域社会のために私に出来る事を考え「少しでも目指すべき未来に向けた行為」を積み重ねていきたいですね。』という考えに心から共感いたします。私もそうありたいです。
また、『より多くの社会資源と手を携えることは、本人と家族、さらには近隣の地域社会にも大きな安心感をもたらすのではないでしょうか』と書いてくださっていますが、手を携えるべき「社会資源」を知るためにも、このホームページやみなさんからこれからも学ばせていただきたいと思いました。
人生で「失敗」や「過ち」を一度もすることなくいられる人などいるのでしょうか?私自身「学びになった」「成長になった」と感じることは、ほとんど自分の「失敗」「弱さ」「未熟さ」からの気づきだったように思います。そうであるならば、それはどうしても「必要な道」なのだと今は思っています。だから「やってしまった」と思ったら、なるべく早く「どんな学びがあるのだろう?」と切り替えることにしています。これからもきっとその連続です。ですから「失敗」とは思わずに、「学び」や「気づきのためのメッセージ」と思いたいです。「言霊」は大切ですものね。
これからも一緒に学び続けていきましょう!まさに「一生勉強 一生青春(みつを)」ですね。あ!でも、「勉強」という言葉はあまり好きではないのです。それでちょっと調べてみました。語源は中国で「無理を強いる」というような意味になるとか。多分その語感のニュアンスを感じてあまり好きではないのだと、今わかりました。(わかって良かった!)子どもに「勉強しなさい」と言っても効果がないばかりか、うんざりされてしまう意味もわかりますね。
これからは、こういう無意識の洗脳みたいなものからも解き放たれて、わくわくと学んでいきたいです。本間先生、そういう場をよろしくお願いいたします。
スマイルさん。丁寧に読んでいただいてありがとうございます。
私の考える社会資源は、あの人に聞いてみたい、あの方の手を借りたい、あそこに頼れたら助かる。その様に思う全てのものが私にとっての社会資源だと思っています。そのように考えると、ありとあらゆるものが頼りに出来そうで、地域社会は、有難い社会資源の宝庫だと言えるように思います。更に、お世話になったら次はこちらが相手の社会資源になればお互いさまの関わりになりますよね。このような「お互い様」の関係も広がります。この様にしてどんどん繋がっていけたら素晴らしいです!そう考えると楽しくなってきました。スマイルさんのコメントのおかげです、ありがとうございました。
スマイルさん、おはようございます。
「勉強」と言う言葉、「無理を強いる」そう言う意味があるのですね。私もちょっと見てみたら、「 気がすすまないことを、しかたなしにすること」とも書いてありました😅
この相田みつをさんの言葉を知ったのはもうだいぶ前ですが、最初の頃は「勉強」を外して、「一生感動 一生青春」がいいなぁと思っていたものでした。
それが、社会の中でいろいろな場面で過ごすうちに『将来のために学問や技術などを学ぶこと。学校の各教科や、珠算・習字などの実用的な知識・技術を習い覚えること。学習。また、社会生活や仕事などで修業や経験を積むこと⇐コトバンクより』と、将来のために、失敗も含め、新しいこともさまざまなことを学ぶことを勉強というのだなと思ったら、それから気を楽にその言葉を使えるようになりました。
スマイルさんが書いてくださった『私自身「学びになった」「成長になった」と感じることは、ほとんど自分の「失敗」「弱さ」「未熟さ」からの気づきだったように思います。そうであるならば、それはどうしても「必要な道」なのだと今は思っています。だから「やってしまった」と思ったら、なるべく早く「どんな学びがあるのだろう?」と切り替えることにしています。これからもきっとその連続です。ですから「失敗」とは思わずに、「学び」や「気づきのためのメッセージ」と思いたいです』
私はまさにこのスマイルさんの姿勢が勉強だと思うのです👏👏👏。いつも心に響く言霊をありがとうございます。
講義、お疲れ様でした。
市民成年後見人、専門職だけではなく、社会貢献への意欲が高い一般市民の方々にもぜひ活躍していただきたいです。
成年後見制度は介護保険制度と同じく、平成12年に施行されましたね。当時、私は成年後見制度の内容を読んでもチンプンカンプンでした。その時に、宮城県庁長寿社会政策課の女性職員の方がわかりやすく解説書のようなものを作成してくださり、各市町村に送っていただきました。それを読みながら勉強をしたものでした。
その何年か後に高齢者の虐待防止法ができましたが、正式名称が「高齢者の虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律」で、高齢者自身を守ることはもちろんですが、虐待をしてしまった養護者に対してもその状況をしっかり聴き、必要な支援をしていくというもので、温かみのある法律だなと思っていました。実際に通報を受けて訪問をしてみると、こんな風になるまで関わることをしてないでごめんなさいという思いになったこともありました。
地域包括支援センター勤務になった時は、市の「成年後見制度利用支援事業実施要綱」作成に携わり、実際に裁判所に書類を出したり、後見人になってくださる方が見つかり、一人暮らしのかたの金銭管理など、これまでなかなか関わることが難しかった対象者にも定期的に支援の手が行き届き、安心したことを覚えています。
もう制度はあるのだから、大切なことは、判断能力が十分でない高齢者や知的障がい者及び精神障がい者の方で、そのような制度に該当しそうな対象者の早期発見、見立てる力なのかなと思っています。また、やはり日頃の地域の中での見守り活動や行政、多職種との話合い、情報交換などが大切になってくるのだと思います。余計なお世話になることもあるかもしれないけど、どこかで鈴虫さんが書かれていたように「・・・気がついたのに見過ごすことよりは余程人としてまっとうだと思うのです」は、まったく同感です。そして、様々な視点を持ってそこに気がつける感性と、気がついたあとにすぐに連絡・対応ができるシステムがあったらいいなと思います。
以前の職場で、民生委員さんの月1の定例会に参加していましたが、情報のやりとりがスムーズになるなどの関係性が築けて、とても有意義でした。
ハチドリさんのコメントのおかげで、制度ができた時の様子(その時々で尽力してくださった方がいたこと)を知ることができ、より身近なものに感じることができました。
「こんな風になるまで関わることをしないでごめんなさい」と思ってくださる職員さんは住民の宝です。同時に、住民も普段からできることがありますよね。「早期発見」「見立てる力」が、「仕事」や「役割」という範疇にとどまらず、何気ない日常の関りでも実行され、育まれる社会となることを願います。そのために今自分ができることは何かということを考え続け、できることから始められるようでありたいです。
スマイルさん『同時に、住民も普段からできることがありますよね』、その通りだと思います。地域のなかでの『何気ない日常の関り』が実は一番大切です。それらのことが行政などのサービスと両輪で育まれ、柔らかくて丈夫な布に織られていったらいいですよね。
スマイルさん、ハチドリさん、私も交ぜてくださいね。
「地域の中での『何気ない日常の関わり』が実は一番大切です」そうなんですよね。私はそれぞれが自分の日常を丁寧に送りながら、向こう三件両隣に気配りをし合うということと理解しています。
ややもすると、毎日が自分の事だけで手いっぱいになりがちですが、自分が苦しい時にこそひとの手を借りたいポイントがよくわかります。誰かの必要に気がついた人が、ためらわずにほんの少し優しい手を貸すくらいがいい塩梅ではないかと私は思います。
直接的に手を貸すばかりではなく、このHP上で語られるみなさんの貴重な体験談やコメントの一つひとつが私にとっては心に響くエールとなっていることをみなさんにお伝えしたいです。
いつも勇気や希望の湧く言葉をありがとうございます!
『高齢者が「早くお迎えが来て欲しい」と神仏にお願いする様な社会にはしたくないと思っています。何歳になっても、「なりたい自分」を夢見るそんな高齢者で溢れる社会になってもらいたいと思います。』という文章を深く頷きながら読みました。
本間先生が昨年から地域の民生委員の役割をお引き受けしたことに感銘を受けていました。これまでは民生委員さんに講義する立場にいた方が、自らその立場に立って実践する。そういうことができる人がどれくらいいるのだろう?と考えていました。きっと、抱いていた理想や夢を実践できる!と、喜びいさんで役割に猛進しているのではないか、と想像しています。民生委員のなり手がなくてどこでも困っている現状を考えても、本当に稀有なことだと思います。
使命はこちらが探すものではなく、使命の方が相応しい人を探していると聞いたことがあります。これからも、使命に導かれる様子をお聞きするのを楽しみにしています。
『使命はこちらが探すものではなく、使命の方が相応しい人を探していると聞いたことがあります』
なるほど~、またまた、いいことを聴きました。
スマイルさん、私も本間先生が民生委員になられたとお聴きしたときに「成るべくして成った」と思いました。もしかしたら、現実は思っていた以上に困難な(嬉しいも)ことなど現場ではあるかと思いますが、たまには愚痴の一つもこぼしてもらってもいいですよね。